その時俺は思ったのだ。
「ああ、これは――……」







その人と初めて会ったのは、出会ってしまったのは、私が二年になってすぐの、春の事だった。
当時、今より少しばかりマシな程度のクズだった私は、やはり変わらず友達など居らず、授業中だろうと休み時間だろうと、ひとりでふらふらと何処かへ行くのが癖になっていて。つまり、その人と偶然偶々運命的に理不尽に必然的にうっかり出会ってしまったのも、そんな最中の事だった。


「なんや、こないなとこでサボっとる悪い子がおるやん」

木の下でもたれかかるようにぼうっと座り込んでいると、突然、上から声が降ってきたのだ。
思わず「ひ、」と間抜けな声を漏らすと、その人はとても楽しそうに笑った。
愉快そうに歪められた口と目元を見て、まるで狐のようだ、といった様な印象を抱いたのを覚えている。
しかしながら、まさしくその通り、腹黒い狐のような男だということを知るのは、まだもう少し先の事ではあるのだけれど。


「ふ、そんな本気でビビるとは思わんかってん、堪忍なあ、」
「……別にいいですけど、その中途半端な笑いやめてもらえます?笑うなら笑ってください。笑うのやめたなら笑うのをやめてください」

冷たい視線、冷たい声音を意識してそう言うと、彼は笑うのをやめた。
それは冷たく発したそれに思わず、というよりは、興が冷めた、と言った感じで。
先ほどまでの面白おかしいと言いたげだった視線はどこかへ消え失せていた。


「……えらい真面目な子やん。その冷たい反応あいつそっくりやわ」


ふう、と僅かに息をつくと、「どっこいせー」と何とも言えない年寄りくささを若干滲ませて、私の隣に座り込む。

「あー、自分、なんやったっけ。あれやろ?あれ、えーと、」
「はあ……?」
「そんな怪訝な顔せんといてや」

うんうんと唸りながらも、先ほどの無表情はなんだったのだろうというようないやらしい笑みを浮かべて、それから彼は言った。



「苗字名前」



何の前振りもなく紡がれた自分の名に思わず一瞬息が止まる。
ばくり、と鳴る心臓は、何か自分の心の裏まで覗かれてしまったのではないかというような不安でうるさかった。


「……ちゃん、やんなあ?」

自分、そないな名前ちゃうかったっけ?
力の抜けたような薄い笑みが私に向けられる。
何を言われたかわからなくて、けれど考えるより先に体は理解をしていたのか、その言葉に頷いていた。

「お、あってた。……何で知ってんのーって、顔、しとるな。あんなあ、あいつから聞いたことあんねん」
「……なにを、」


あいつ、が誰なのか全く分からないと同時に、何か嫌な予感すらしていて、言葉尻が少し小さくなってしまう。
そんな私に気づいているのか、彼は笑みを深くして、それから、そういえば、といったように言ったのだった。



「ああ、せや。ワシは今吉翔一。花宮真のただの部活の先輩や」







――その時、俺は思ったのだ。
ほんの少しの不安を滲ませる、一つ年下のオンナノコを見て、思わずニヤけそうになる顔をどうにかいつもの薄い笑みで塗り替え、そう、確かに、思ったのだ。
「ああ、これは、面白い事になるやろなあ」と。
それから、今にも吐きそうだと言わんばかりの表情に変わっていく彼女を見て、やはり似ているとも思った。
自分の可愛げのない、手がかかる生意気で、けれど弄りがいのある、後輩に。

(下手したら花宮よか、わかりやすいかもしれんなあ)
ふ、と漏れる笑みと吐息は空気に混じって消えていく。

「そういえば、」

手元にある四角い形をしたケースを指先でなぞる。
それは、自分の持っているものに酷似していた。
緑色、学年色、新入生の色。
対する自分のそれは青色で、今も胸元の内ポケットにしまわれている。
ぱ、とそれを広げるようにして開ければ、そこには少しばかり強張った顔をした、今以上に幼さの残る少女がいた。

「うっかり拾ってしもたわあ、……すまんのう」

苗字名前、ちゃん。
狐のようだとかつて彼の後輩に比喩された目を細めて、笑った。







「あれ、」
無い。

ぽつり、漏れ出た呟きだった。
先程まで確かに有った筈の――生徒手帳が、何処にも無くなってしまっていた。
まあ生徒手帳が無いから困ると言うことは特にないのだけれど――一体どこで落としたのだろう。
生徒手帳よりも、パスケースがないからとそこに適当に挟んでいたバスの定期がない方が面倒くさい。

「……歩くか」

今日はなんだか、あまりついてない日だなあ。
ぽつりと呟いた声は、そのまま夕暮れに飲まれていった。




下駄箱前に辿り着く廊下の角を曲がるあたりで思わず足が止まる。
そこに見えたものに関わりたくなかったからだ。
ああ、やっぱり帰るのをもう少し遅らせようか、と思考がぐるりと動く。
図書室にでもいけばいい。まだ開いてはいるだろう。
そう思いながら踵を返すその前に、声が、


「苗字ちゃん、帰りか?」

どこかで、確かに聞いたことのある低めの声が、私を止めた。
嫌な予感が胸をしめて、心臓がばくばくと、最早痛みとすら感じるほど、鼓動が早まる。

「鞄持っとるし、帰んねやろ?ほな、一緒に帰ろや。オンナノコ一人で帰すん不安やし、このあたりロリコン多いねんて。危ないやん?」

なあ、と優しげな声色が追い打ちをかけるように、静かな廊下に響く。
思わず下を向いてしまった重たい頭をどうにか上げて、その人の方を見る。
狐みたいに細い目、軽薄な笑み。それから、


「花宮も一緒やけど、ええやろ?知らん奴と一緒に帰るよりか、知っとる奴居った方が安心やんなあ」

もうすぐ暗なってまうから行こや。
少し硬い手のひらに腕を引かれて、やっと足が動いた。
けれど視線は依然、彼から反らせないまま。

「なあにガン飛ばしてんねん。行くで、花宮」

ばし、とデコピンをされて、彼――花宮真は視線を私の腕を引く人に向けた。

「何言ってるのかわかりません」

いつもの優等生然とした笑みを浮かべずに、花宮は言う。
思わず目の前の人に目をやれば、その人は面白いオモチャを見るような目で花宮を見ていた。


「ま、なんでもええわ。今日は仲良う、三人で帰ろうな」


腕を引くその手の力が、少し強くなったような気がした。



20140219
prev next
back

×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -