何にもなかった。何でもなかった。
接点も同じものも関係性も才能も価値も。
わたしと彼は限りなく、何一つ被ることの無いものであり、一生関わることもない、ただの"同じ学校"で"同じように"日々時間を消化しているだけの赤の他人だったし、それから、ただ同じように酸素を吸って二酸化炭素を吐き出す、有害な存在なだけであった。
(それなのに、)
と、思うのはお門違いではないし、けれど、だけれど、だからこそ、お門違い違いの感情なのだ。
「名前ちゃん、一緒に行けないの?」
「うん、ごめんね。次はちゃんと行けるようにするから、早めに教えてね」
目の前の、上目遣いで少し目を潤ませた彼女は、小さくて、可愛らしい。
そのうえ、優しく、慈愛に満ち、他人のことも自分のことのように感じられる感受性の強い、甘えたがりだけれど、その実、しっかりした面もある、なんていう、おそろしく出来た人間だった。人望も容姿も才能も、なにもかもを持ち、けれどけっして驕らない。
そんな彼女は、私の"親友"である。
「ううん、美香こそごめんね。もっと早く名前ちゃんを誘えば良かったんだもん。それに、お祖父さんが倒れて療養中なんでしょ?なら尚更美香なんかと遊んでる場合じゃないし、また今度、美香と一緒に行こうね?」
「ありがとう、美香」
「約束だよ?」
小首を傾げる姿は、まるで計算し尽くされたかのように、愛らしい。
うん、約束、と差し出された小指に、己の小指を絡ませれば、ふわふわとした彼女の色素の薄い髪が揺れた。
「えへへ、名前ちゃんだいすき」
人形みたいなアイスブルーの瞳が弧を描く。
彼女は私の答えに満足したのか、じゃあ、また来週、と手を振って教室を出て行った。
私はそんな彼女を見送りながら、屋上の方へと足を進む。
(まったく、慌ただしいなあ、でも、可愛い)
……なんていうのは、嘘である。
何が嘘かと聞かれれば、殆どだとしか答えられない。
彼女が私の親友であること(彼女自身はそう思っているのだろう。つまり、自称、親友)、祖父が倒れたこと(これについては私の両親は祖父母その他親戚と大人の事情で縁を切っているから、とだけ)、それから、彼女とした約束も。
全部その場を収めるためだけの口からの出まかせである。
「……、あー、だめだ、無理気持ち悪い」
階段を登りながら、う、と口元を抑える。
どうしてあんな、どうしたらあんな、醜いものが出来上がるのか。
それこそ漫画や小説なんかの、フィクションの世界で、主人公でもしているんじゃないかと、思うような人間性(キャラクター)。
人望、努力、友愛、容姿、優しさ、どれをとっても完璧なそれは、あまりにも得体がしれなかった。
(例えどんなに、誰もが彼女を欲しいと側におきたいと、口にしようと)
「なにが名前ちゃんだいすき、だよ」
屋上への扉に手をかける。
ギィ、と鈍い音がなった。少し、錆び付いているのかもしれない。
「反吐が出る」
……わたしは、沈黙した。
それは、そこに先客がいたからでもない。
そこに居たのが、"あの"天才だったからでもない。
天才であり、彼女と同じように、あまりにも、おそろしいことにも、出来すぎた人間がこんなところに居たからでもない。
(こいつ、今、なんて言った)
二つの音が混ざった言葉は、私だけのものではなかった。
ぼと、
肩に掛けずに、手に持って居た鞄が落ちた。
――目が合う。
青みがかった闇みたいな黒だった。
(……あ、だめだ)
不意に思った。
こいつは、ダメだと。
抑えて居た口元から、僅かに母音が発せられた。
喉が苦しい、なにかがせり上がる感覚。
先ほどとは比べものにならない、気持ちの悪さだった。
「ぅ、え……っ」
それは、わたしだけではなく。
目の前の、彼も同様だったようで。
同じように口元を抑え、俯き、ただ、何かに耐えるように、歯を食いしばって、それから、
(飲み込、)
「なんでお前みたいなのが存在してるんだ」
「なんであんたみたいなのが同じ所にいるの」
「なんで今ここに来た」
「なんで、今日来たの」
「なんで、生きてる」
「なんで息してるの」
飲み込むことが、出来なかった。
何もなかったように笑うことが出来なかった。
上辺だけの優しさは、どこにも見当たらなかった。
(どうして、違う、だって、こんなにも、)
違うじゃないか。
だって、彼は出来過ぎた人間のはずだ。
私みたいなのとは違う。
薄暗い気持ちを腹の奥底に飼い殺して、つまないと唾を吐きかけるのに、惰性で生き延びているみたいな、私みたいなのとは、
足元が真っ暗になった。影が、私を覆う。
彼が、目の前にいる。
顔をあげられなかった。
「…………、」
――チッ、と舌打ちが聞こえて、影がいなくなる。扉の音、ガチャ、と閉まる音。
……ドッ、と冷や汗が出た。
足が震える。思考がどうにもうまく働かなかった。
「はなみや、まこと」
あの天才の、名前。
優しく、平等で、なんでも出来て、けれど鼻にかけず、人望のある、正義感に――
(溢れ、た?)
そんな人間が、反吐が出るなどと、言うのだろうか。
……目を瞑る。あの青みがかった黒色が、焼き付いて居た。
×
同属嫌悪という名前らしい。
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