わたしの先輩、坂田銀八という男は、世にも稀なるだらしのない男。偶然にも(坂田先生が言うには運命)同じ大学出身で同じ学校に勤務している。さらに、彼が担任の3年Z組の副担任を、わたしは任されているのだ。他の先生方が言うには、わたしはだらしない坂田先生の世話役なんだそうだ。今日も、坂田先生のお手伝いをするためにテスト範囲のプリントやら教科書やらを持って、保健室に入った。ここは坂田先生がよく出没するから、彼の姿がないときはとりあえず訪ねることにしている。案の定、彼はここに居た。

「坂田先生」
「……ん」
「起きてください」
「…んー…ちゅーしてくれたら起きる…かもしれない」
「……頭かち割りますよ」

生徒達が帰って静かな放課後、ベッドで気持ちよさそうに眠る坂田先生を起こそうと試みたが、なかなか起きてはくれない。この人低血圧だからなあ。わたしが困り果てていると、明日出張ということで書類をまとめていた高杉先生が、ベッドに歩み寄る。

「オイ、いい加減起きろ銀八」
「うるせえぞ高杉。お前にちゅーは求めてねえ」
「……安心しろ。代わりに鉄拳をくれてやる」

高杉先生はぐっと拳を握りしめ、坂田先生の顔面めがけて思い切り振り下ろした。ギリギリのところで目を開け頭を素早くずらした坂田先生の反射神経は素晴らしいと思う。高杉先生の拳は枕に沈んだ。

「オイィィィ!ちょっ、何すんのォォォ!」
「チッ」
「舌打ちしたよこいつ!」
「さすが高杉先生」
「こいつ起こすなら遠慮しねえで、こんくらいやりゃいい」
「勉強になります」
「高杉おまっなまえ先生に変なこと教えんのやめてくれる!次から下手に寝れねえだろうが!」
「学校で寝ようっつう考えがそもそもの間違いなんだよ」

高杉先生と坂田先生のやりとりを見ていて、すこし笑ってしまった。高杉先生と坂田先生は同期で、長い付き合いらしい。

「そうですよ坂田先生。今日だって先生が言ったんじゃないですか、テスト作るの手伝えって」
「おう、わりい」
「お前、テストなまえに手伝わせてんのかよ。情けねー。こいつの担当、理科だろ」
「だりぃんだぞテスト作んのって!保健医のお前にはわかるまい!」
「うぜえ」

しばらく言い合いした後、高杉先生は俺は帰るから戸締まりしとけよと言って、保健室を出ていった。坂田先生は寝癖のついた髪を乱暴に掻き混ぜて、ベッドからおりる。

「…やるか」
「はい」

持っていたプリントやら教科書やらをテーブルの上に置く。坂田先生が丸椅子を2つテーブルの横に並べて置いてくれたから、そこに腰かけると、坂田先生も隣に着席した。

「…坂田先生」
「なーにー」
「……近くないですか」
「気のせいじゃない?」
「……」

近い。気のせいなんかじゃない。ていうかそもそも隣に座らなくても向かい側に座ればいいのに。ちらりと横目で坂田先生を見ると、わたしの持ってきたプリントを真剣な顔で見ていた。へえ、こういう顔も出来るんじゃない。

「…なに見てんの」
「あ、すいません」
「どーした」
「…ずっと」
「?」
「ずっとそういう顔、してたらいいのになあって」

わたしの発言に疑問を抱いたのか、眉間にシワを寄せる坂田先生。

「どうゆう顔?」
「いや、真剣な顔ですよ。さっきみたいな」
「ん?ん?なに、惚れた?」
「違いますから」
「照れんなよ。なまえ先生なら大歓迎だから、俺は」
「はあ…いつも余裕たっぷりでわたしをからかいますよね、先生」
「は?」

この人はいつも何処か余裕があって、わたしをからかって楽しんでるんだと思う。

「まあいいです。坂田先生、漢字はここからここまでであと教科書の、」
「なまえ先生、彼氏いねえの?」
「テスト範囲は198ページから256ページでしたよね?」
「いねえんなら俺、立候補していい?」

…会話が成り立ってない。

「ちょっと、いい加減にしてください」
「なにが」
「……」
「…だってよ」
「もう、なんですか…」

また溢れた溜め息。この調子じゃテスト間に合わないなあとか考えていると、坂田先生に名前を呼ばれたから顔を向ける。

「……」
「……」

ほんの一瞬、唇に柔らかい感触。坂田先生の煙草の匂いが鼻を掠める。状況を理解できないわたしは、暫くただ目を見開くことしかできなかった。

「なに…」
「お前が好きなんだよ」
「えっ」
「余裕なんか、あるわけねえだろ」

目の前の坂田先生は、またいつもと違う真面目な顔をして、言った。こんな顔、見たこともない。

「…坂田先生」
「なんだよ…」
「テスト」
「空気読めェェ!!」

ちょっとドキドキしてしまった。なんてね。


似非ロマンチスト


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