こんなクソ田舎から逃げ出して、夜でもイノシシやシカと遭遇する心配の無い、キラキラした都会で、お洒落に生きていってやる。そう思って、大学卒業と同時に私は上京した。それなのに、突き付けられた現実は理想とは程遠く、目眩がする。アフターファイブはおしゃれなバーでかっこいい彼氏とデート!なんて、少なくともこの社会人2年目において実行されることはなかった。男を作る暇など何処にあろうか。仕事に追われる毎日はめまぐるしく過ぎ去って、気付けば上京して2度目の年末を迎えた。残業残業の毎日も終わりを告げて、やっと、待ちに待った連休がやってきた。

「もー!帰ってるなら言ってよ!」
「徹うるさい…」
「もしお母ちゃんが教えてくれなかったら、会えなかったじゃんか!」

あの恋い焦がれたはずの東京から逃げるように実家、宮城へ。キラキラした大都会など、今はただ眩しく目障りなだけなのだ。母に電話で帰る日にちを事前に伝えてはいたが、こいつにまでその話がいっているとは予想しなかった。おそらく母の手によってキレイに掃除され、ベッドメイキングも冬仕様となっている私の部屋には今、お隣の及川さんち息子である、徹が居る。長旅と前日の仕事疲れから、ぐったりとベッドに横たわっていると、上はもこもこのカーディガン下はスウェットという思い切り部屋着な姿で勝手に上がり込んできたのだ。女性の部屋に入るときはノックくらいしろとあれほど言い聞かせてきたというのに、幼い頃から何も成長していない。

「会う必要性がわからないよ」
「必要あるよ!少なくとも、俺は!」
「あーはいはい、わかった。とりあえず座りな、徹」
「こたつぬくい?」
「うん」
「ミカン食べてい?」
「どうぞどうぞ」

高3の冬、受験勉強のときに寒くて集中できないとゴネて買ってもらった小さなこたつは、ベッドのすぐ横に設置されており、多少この部屋を窮屈にしている。当時の私はベッドを背もたれにして、こたつに足をいれ、暖を取っていた。徹はそれとおんなじように、ベッドにいる私に背を向けてこたつに足をいれ、そこに落ち着いている。それがなんだか可愛く思えて、すこしだけ口角があがった。

「テレビつけていい?紅白、一緒に観よ?」
「いいけど、小さい音にしてね。私眠いし」
「えー!寝るの?大晦日だよ?起きてハッピーニューイヤー!ってやろうよ」

リモコンでテレビをつけて、これもまた母がセッティングしたであろう、篭に入ったミカンをむきながら徹は不満そうにしている。やっぱ、高校生は元気だなあ。社会人の辛さをどうやって伝えてやろうかかなあと考えたが、まあいずれ嫌でも知ることになるかと気付き、考えることをやめた。

「徹」
「んー?」
「なんか、たくましくなったね」

前に徹と会ったのはたしか、友人の結婚式のときだった。おそらく、1年ほど前。仕事を休み、宮城まで帰って来て一日だけ実家に泊まった日、今日みたいに徹は突然やってきた。あの頃と比べて、後ろ姿がややがっちりした気がしなくもない。

「ほんと?かっこよくなった?」
「徹は昔からかっこいいよ」
「まあねー」
「でも、前より男らしくなった」

徹はこちらをちらりと見て、ありがとうと嬉しそうに笑った。年が離れているので中学も高校も一緒になることはなかったから、こいつの学生生活を私は一切知らないが、この身長でこの顔なら、まあモテモテだろうと予測できるし、本人もそう公言している。それなのに、大晦日にひとりでこんなところに来て、本当によくわからない子だ。

「徹、どっか遊びに行かないの?」
「んー、まあ予定はあったけど、断っちゃった」
「なんで?」
「え、そんなのなまえちゃんと居たいからに決まってんじゃん!」
「決まってんの?」
「決まってんの」

言い切る徹が可愛くて、手を伸ばして後頭部をやわやわ撫でてやる。徹はテレビを観たままで、されるがままだ。こいつの髪って何でこんなにサラサラなんだろう。これが若さなのか。しかも、シャンプーのいいにおいがする。

「徹、お風呂入ってきたの」
「もちろん!準備万端!」
「泊まる気満々だよね」
「そういう意味だけど、そうじゃない!まあいいけどね!」
「私もさっき入ったの。徹、背中寒くない?湯冷めする」

布団をめくって、ひとりぶんスペースをあけてあげると、徹はにやにや嬉しそうにベッドに入ってきた。布団をかけてやると、あったかいねと言う。体格のいい徹にはやっぱりこのサイズのベッドじゃ少し小さいようで、どうしても体がひっつく。いつまでもテレビに背を向けて布団のなかで私と向かい合っているので、紅白は?と訊ねると、そんなの今どうでもいいと言う。

「幸子見なきゃ年越せなくない?」
「幸子もう出てないでしょ」
「徹それマジで言ってる?」
「ほんとーだって」
「幸子見たかったー」
「ねえ」
「うん?」
「ぎゅってしたい。だめ?」

昔と変わらない甘えた声にほだされる。幼い頃から、こいつはよく私に甘えていたと思う。可愛くて、いつも拒絶できない。おそらく、徹はわざとやっている。

「いいけど、変なことしないでね」
「……はーい」
「その間は何なの」
「わかってるってば」
「高校生に手出すなんて、私の信用にかかわるのよ」
「手出すのは俺だもん」
「おんなじことです」
「なんか、おもしろくないなあ」

言いながら、徹は私を抱き締めた。頬には程よく筋肉のついた胸板が触れる。やわらかい体温と、なつかしい徹のにおいで、じわりじわりと、磨り減っていた何かがこの体に満ちて行くような感覚が心地好い。

「やばい、徹」
「えっなに?」
「眠い」
「この状況で!?」
「だって、すごい落ち着くの」
「ちょっとはドキドキしてよ…」
「徹、私さ」
「ん」
「帰って来てよかった」

たくましくなったその大きな背中に手をまわして胸板に顔を埋めると、頭のてっぺんにふにゃりと柔らかい何かが触れた。見えないけれど、恐らくそれは唇なんだろうと思う。変なことするなって言ってるのに。

「なまえちゃん、仕事お疲れ様」
「徹も部活お疲れ様でした」
「負けちゃったけどね」
「ん、知ってる」
「仕事、大変だろうけど、もうちょっと待ってて」
「なに、もうちょっとって」
「俺もすぐそっち行くから」

眠気でろくに働かない頭を回転させて、徹の言った意味を考えてみる。きっと東京の大学に進学が決まったのだろう、という答えに行き着いたとき、徹はぐっと腕に力をこめた。耳元で聞こえた徹の声はまるで子供に言い聞かせるような優しいもので、あんなにも小さく頼りなかった彼も、もうすっかりひとりの男なのだと痛感する。

「そしたらずっと、俺と居て」

徹の向こう側から、あるCMソングで有名になったアーティストの曲が聞こえてくる。美しい歌声。そして今この腕の中にある柔らかい体温と優しい匂い。そんな年の瀬。私は大人。彼も大人。そのときが来たら、私は答えを出さなくてはいけない。いま思えばはぐらかしてばかりだった。けれどもう、きっと、彼は私を逃がしてはくれないのだ。



逃亡




back