「そういや岩泉先輩って進路どーすんの?」
「……へ?」
「はあ?なに、あんた聞いてないの?」

帰り際、クラスメイトの一言に、後頭部を何かで殴られた気分だった。その言葉が投げ掛けられたのは、おそらくこの2年3組の教室で先ほど速やかに回収された進路調査表がきっかけだったんだと思う。呆れた顔をして項垂れた彼女のいう「岩泉先輩」とは、私の幼なじみ「はじめちゃん」のことである。彼とは小さな頃から家族ぐるみの付き合いで、私はなんだかんだで高校も、はじめちゃんを追っ掛けて青城に入った。昔は小さかったはじめちゃんは、ひとつ年上なのもあって、ぐんぐん身長が伸び、あっという間に男の人になった。私はそんな変化にいちいちドキドキして、焦って、短かった髪を伸ばして、化粧を覚えて、大人になろうと背伸びしてきた。はじめちゃんの隣に居ても笑われない女になりたかった。そう、私はずっとはじめちゃんに片思いしている。

「や、なんか、」
「なによ」
「はじめちゃんは、ずっと傍に居るもんだと思ってた……」
「馬鹿」
「言わないで……」

溜め息をついた彼女は、あたしバイトだからお先にーと言ってそそくさと教室を出ていった。薄情者とは言うまい。だって、彼女はこれまでずっと、うじうじと悩む私の相談に乗ってくれていたのだ。重い腰を上げ、鞄を掴む。今日の帰り道は、憂鬱な気分のせいか、いつもより途方もなく長く険しい気がした。

「ただいまー」

我が家に足を踏み入れると、夕飯のにおいがした。今日はカレーらしい。キッチンから母のおかえりという元気な声が聞こえてくるが、そのまま2階の自分の部屋に向かう。鞄を床に投げて、制服を脱いでハンガーに掛ける。お気に入りであるふわふわの部屋着に腕を通しても、ぜんぜん気分は回復しない。はじめちゃんがいなくなったらと思うと、胸が苦しくなった。幼なじみは、永遠に傍に居られない。永遠に傍にいる為には、付き合って、結婚して、家族になるしかない。なんで、ずっと一緒にいられるなんて思ってたんだろう。そんなわけないのに。はじめちゃんは、私のことをどう思っているんだろうか。どうしてもっと早く、思いを伝えなかったのだろう。ベッドに横たわって枕に顔を埋め、すこしだけ泣いた。





「…おい」
「う、…あ、れ?はじめちゃん?」

突然低い声がして、目を開けると目の前にはじめちゃんの顔があった。彼はどうやらお風呂上がりらしい、せっけんのにおいがする。

「なに寝てんだ、おまえ」
「…べつに、寝てないしー」
「嘘つくの下手すぎんだろ。もう日付変わんぞ」
「げ、」

顔を上げて時計を確認すると、はじめちゃんの言うとおり、時刻は11時半を過ぎていた。はじめちゃんは部活が終わって、そのあとの自主練も終わって、自宅へ帰ってからお風呂に入り、私を心配した母に言われてここにやって来たのだろう。母とはじめちゃんは私に甘い。昔から。

「あああ…やってしまった…」
「メシ食わねえの?おばちゃん心配してたぞ」
「今はいい…」
「ふうん」

掛け布団にぐるりとくるまって、はじめちゃんに背中を向ける。いつもならカレーはすごく食べたい部類のメニューだ。だけど今日は、お腹がすかない。それどころではない。

「なあ」
「んー」
「どうした」

はじめちゃんの優しい声が今は余計しんどい。何か返事をしたかったけど、今声を出しても、泣きそうな事がばれてしまいそうで、出来なかった。はじめちゃんは静かに、ベッドに腰をおろす。

「なんかあったのか」
「……」
「…俺に言えないことか」
「……」

はじめちゃんのことばに、ぴくりと体が反応する。そんな、私が特別みたいな言い方ずるいって本当に。でも、言わないとダメだ。今言わないと、きっとずっと幼なじみのまんまなんだ。言え。言うんだ、私。ずっと好きだったんだよって。離れるのは嫌だって、さあ、言え。

「はじめちゃんさあ」
「ん」
「進路どーすんの」
「俺の話かよ!」

のそのそと起き上がり布団から顔を出して問いかけると、何を言われるのかと身構えていたらしいはじめちゃんは、すこし笑った。いつも怖い顔をしてるけど、このひと笑うと可愛いんだよなあ。私にだけならいいのに。優しさも笑顔も、私だけのものならと、もうずっと、長い間願ってきた。

「スポーツ推薦だな、いまんとこ。お前と違って、俺あんま勉強できねえし」
「県外?」
「まあ、そうなるな」
「遠い?」
「あ?…まあ、そうだな」

はじめちゃんのことばに、涙腺がついに崩壊した。せっかくここまで堪えてきたのに、逆にそのぶん、溢れて止まらない。

「んなっ…!なんで泣く!?」
「あらー、ごめ…」
「や、悪い、ついてけねえ。どうした…」
「わたし、馬鹿すぎる…」
「はあ?なんでだよ」

近くに置いてあった箱ティッシュから数枚引き抜いて、私の目元にあてるはじめちゃんの手つきは優しい。目の前の彼はあわてふためいていて、苦しいくらい愛しい。好きだ。好きだよどうしても。ずっと一緒だったじゃないか。どこにも行かないでよ。

「いやだ」
「なにが」
「勝手に離れていかないでよ…」
「…は?」
「ずっと好きなの、はじめちゃん。ほんとに、ずっと、ずっと前からだよ。私だけのはじめちゃんがいい…」

恥ずかしいんだか寂しいんだか悲しいんだか、よくわからない。きっと不細工であろう顔を両手で覆う。はじめちゃんはなんにも言わない。しばらく無言の時間が続いて、いよいよ涙も引っ込み始める。痺れを切らして、私は両手をそろりと顔から外す。すると、彼の顔は真っ赤に染まっていた。

「は、はじ、?」
「ふざけんなよてめ…」
「は、はあ!?なんで怒る!」
「怒ってねえよクソッ…あー、ダサすぎんだろ俺…」

へなへなと私の太ももあたりにかかっている布団に顔を埋めるはじめちゃん。この状況に、頭がついていかない。

「いいか、一回しか言わねえから。聞けよ」

ガバッと顔を上げて、はじめちゃんはまっすぐに私を見た。切羽詰まったような声色。目の前の顔は、相変わらず真っ赤で、なんなら泣いてしまった私なんかよりずっと真っ赤で、こんなはじめちゃん見たことなかった。

「俺のほうがずっと好きだ」
「はい?」
「…一回しか言わねえっつった」
「え、いや、いやいやいや、え?」
「クソッ…お前の!ことが!好きだっつってんだボゲが!!」

はじめちゃんの言ってる意味がわならなくて、しばらく頭のなかを言われた言葉がぐるぐるまわる。思考回路はショート寸前とは、まさにこのこと。私がフリーズしていると、目の前のはじめちゃんは相変わらず真っ赤な顔をそっと近づけてきて、そのまま唇と唇がくっついた。軽く触れるだけだったそれは、引っ込んだはずの私の涙をふたたび溢れさせる。だって、いったい何年、想ってきたと思っているんだ。

「さ、最悪!!!もっと早く言ってよ!!しかも何で進路のこと話してくれないかなあああ!?」
「はあ?お前覚えてねえの?」
「なにが!?」
「……小学校あがったとき、お前俺と結婚するっつってたろうが。だから、別の学校になったって、まあいずれそうなるもんだと、」
「はじめちゃんてやっぱ馬鹿だわ」
「んだとコラァ!!!」

そんな昔話、全然記憶にない。でも、私がはじめちゃんを意識し始めたのはその頃だった気がする。幼い私は、恐れ多くもこのはじめちゃんの奥様という立場を予約していたらしい。それを今の今まで覚えていて、一切手も出さずに信じてきたというのかこのひと。信じらんない!と私が笑うと、はじめちゃんもすこしだけ笑った。

「まあメシ食えよ、とりあえず」
「はじめちゃんは私のお母さんですか?」
「クソ川みたいなこと言うな」
「ごはんの前にさ」
「あ?」
「もっかいキスしよ」



カレーライスとラブシーン





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