「いーわちゃん」

日曜日の早朝。背後から、甘ったるい声で俺を呼ぶ声。呼び方は同じでも、その声はあの軟派な野郎のものではなかった。ただ、俺をそう呼ぶようになったキッカケは恐らくあの軟派野郎で、いつからそうなったのか定かではない。瞬時にその声を発したのは誰なのか脳が判断を下して、不本意な程に心臓が跳ねる。本当に、不本意ではあるが。

「またお前かよ」
「おはよ!」
「…おー」

荒い息を整えながら足を止めると、俺より小さいそいつは背後から俺の隣へ、ぴょこっと現れた。俺より遥か下にある小さな頭にはグレーのニット帽が乗っかっている。首もとにはぐるぐるとマフラーが巻かれており、顎はそのもこもこした毛糸に埋もれている。上はパーカー下はジャージというその姿で、こいつのいうダイエット活動中なのだとわかった。

「まだやってたのか、それ」
「え?えらいでしょ?」
「知るか。で、結果は出てんのか?」
「うん!ちょっと痩せたって、」
「へえ」
「徹が」

こいつの口から奴の名前を聞くと、心底不快だ。言うたびにこいつの顔は綻んで、ああ、好きなんだな及川のことがと心臓を握られる感覚に陥る。面倒臭い。俺もこいつも。いや、俺か、面倒臭いのは。

「ていうか岩ちゃん、ランニングするなら声かけてよ!家近所なんだからさ!」
「…ペース違ぇだろが」
「頑張って追い付く!」
「無理だろ」

無理じゃないしと怒る目の前のこいつは、俺の気持ちに気づいているような気がする。確信は無いが、ただなんとなく、そう思う。しかし、定かではない。それでも、距離を置かずに俺に引っ付いてくるから困り果てているのだ。変に期待して、空回りしたくない。

「ランニング、もうおしまい?」
「ああ、帰るとこ」
「じゃあ、一緒に帰ろっと」
「…歩くか」
「ん」

結構走ってきたのだろうこいつの顔は少し赤い。何時からやってるんだろうかと思ったが、聞かなかった。それを聞いたところで何だ。俺がこいつに会いたいみたいだろうが。ならんで二人、ゆるゆると歩きだす。吐く息は白い。

「岩ちゃん」
「あ?」
「来週、試合観に行っていいかなあ…」
「なんで」
「なんでってなに!」
「や、なんで俺に聞く?」
「あ、や、徹は、来るなって…」
「へえ。珍しいな、何考えてんだアイツ」
「ていうか、なんか、来てもいいけど緊張しちゃうって」
「女子かよ」

ぶはっと俺が笑うと、こいつもつられて小さく笑う。あの及川が見られると緊張するって、マジか。ああ、マジなんだなあ。こいつのこと。

「来れば」
「え?」
「試合」
「でも、」
「大丈夫。黙っといてやる」
「…ありがと!」
「もしアイツが気付いても、俺が喝入れてやるから気にすんな」

言うと、嬉しそうに笑う。ありがとうとまた言われて、悪い気はしない。ニット帽の上から頭を撫でてやって、ドウイタシマシテと言うと、ずれた帽子の位置を整えながら、じっとこちらを見上げてくる。何か言いたげな様子だったので何だよと問う。

「岩ちゃんかっこいい…」
「はあ?」
「徹より男らしい。ずるい」
「なんだそれ」
「だって、」
「そんなもん、今に始まった事じゃねえだろ」

俺が真顔で言い切った辺りで、こいつの家の前に到着した。俺の家は5軒先。じゃあなと言って、俺は足を速める。

「岩ちゃん、」
「あ?」
「試合、行くから!岩ちゃんのことも見てるから!」
「おう」
「がんばってね…!また明日、学校で!」

ぶんぶんと大きく手を振られたので、小さく手をあげて応える。そして背を向け、歩きだす。徹より、か。ああヤバイ。すまん及川。じゃあアイツと別れて俺と付き合ってよとは言わなかったんだから、まあ許せよ相棒。だって口では言わねえが、お前のことも大事だと思ってるんだよ、俺は。


その恋はうつくしい



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