思い出したくもない。あの出来事は僕の中で、ある種トラウマとなった。思い出したくないのに、この人はしばしば目の前に現れては、いたずらに僕の何かを煽ってくる。認めたくないけれど、この人は、僕の初恋の相手に他ならない。当の彼女は、間違いなくそれを知っている。知っていて、こんな風に僕の部屋を訪れる。ひょっこりと、さも当然のように。なんの前触れもなく、突然に。

「あれ?雪男、燐は?」
「今日は塾生達と勉強会で、遅くなるらしいです」

たまたま仕事が終わって早く帰れた今日は、兄さんのおいしい晩ご飯を食べて、ゆっくり風呂に入り、早めに眠ろうと思っていた。しかし、帰宅してみると兄さんの姿は無く、汚い字の書き置きだけが残されていた。どうやら、僕の晩ご飯は冷蔵庫に入っているらしいので、後で有り難く頂くことにする。

「フーン。あんた一人かあ」
「何かご不満でも?」
「いーや別にぃ?」
「最近、兄さんと仲が良さそうですね。何よりです」

しまった。失言だったか。我に返って右手で口を塞ぐが、時すでに遅し。ズカズカと勝手に部屋へ入って、ベッドに腰をおろした彼女は、満足そうににやりと笑った。クソ。なんという失態。

「あっれぇぇ?雪男まさか、妬いてんのぉ?」
「ばっ、違う!断じて!!」
「あっはっはっは!顔、真っ赤!」
「クソッ!違うって言ってるだろ!」

慌てて顔を背けると、彼女はまた愉快そうにけらけら笑った。本当に不愉快だ。この人といると、子供の自分が、見透かされているようで、恐ろしい。

「雪男、私の事嫌い?」

ほら、わかってて、こういう事を言うんだ。たちが悪い。

「……嫌いじゃ、ない」
「私の事好きでしょ?」
「なっ、なんでそうなるんです!」
「顔に書いてあるよ。好きだって。今すぐ抱き締めてキスしたいって。セックスしたいって」
「は、はあ!?」
「あの時みたいに」

時が止まった気がした。彼女の言葉に、心臓がどきりと跳ねて、全身に血が巡る。体が熱い。背後から、彼女の足音が近づいてくるのを感じるのに、振り返れない。頭から湯気でも出そうだった。

「ど…どうしたらそんな自意識過剰な考え方が出来るんだ…」
「自意識過剰じゃあ、ないよ」
「嫌ですよ、もう」
「嫌じゃないくせに」
「嫌だ…」

彼女の白くて細い腕が、背後から伸びてくる。それが僕の上半身に巻き付くと、ふわりと甘い香りがして、気が遠くなりそうだった。僕はこの人が、好きで好きで堪らない。認めたくないけれど、それが事実。耳元で名前を呼ばれた瞬間、あの日の出来事がフラッシュバックした。今でも鮮明に思い出せる。こんな夕暮れ時だった。あの教会で、僕は彼女を抱いた。ただ己の欲望を満たす為だけに。僕は、彼女を抱いたのだ。他の誰かを想って泣く彼女に、僕は自分の想いを押し付けてしまった。

「やめてください…」
「いやだ」
「頼むからっ」
「雪男」
「もう僕を最低な奴にしないでくれ…」

僕が両手で顔を覆うと、彼女はすぐに、泣いてるのかどうか訊ねてくる。それを否定すると、やけに目頭が熱くなった。僕はやっぱり、この人が堪らなく好きだ。

「雪男?」
「どうして僕を放してくれないんです…」
「ごめんね」
「なんで…」
「あのひとの、においがするところに居たいの」
「僕は、」
「傷付けてごめん」
「僕は、ずっと、貴方が好きだ」

手放してあげられなくてごめんと、言う彼女の声は、震えていた。彼女もまた傷付いている。僕を傷付けながら、今は何処にも居ない人間を思い出し、あの腕に二度と抱かれることは無いのだと思い知って、また傷付いているのだ。そして今日、また僕は彼女を優しく抱く。いつか僕だけを想ってくれるように、祈りながら、傷を負いながら、じっと待つのだ。

曖昧な声と泳いだ目と掴んだ手と



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