「ねえ」
「…はい」
「ちょっと付き合ってよ」

彼は机に向かって何やら書き物をしているらしかったが、そんな事は私にはどうでもいい事だ。いつもいつも何をそんなに頑張っているんだろうか。適当に力を抜いて、上手くやればいいのに。見ているこっちが疲れる。

「ど…どこへですか」
「イイとこ、だよ」

私がにやりと笑うと、その直後、彼の口角はぴくりと引き攣った。愛想笑いはもっと上手にやれよ。いつもみたいにさ。

「…イイとこって!なんで居酒屋ですか!」
「はー?あ、もしやヤラシイ想像しちゃったあ?だめだよ僕ぅ。まだ15才でしょー?」
「いや、居酒屋もダメだろ!バカかよ!」
「まあまあ、奢りだから好きなだけ食べなよ僕」

これでもかというほど積み上げられた唐揚げの乗った皿を、ぐいっと雪男の前に押しやると、あからさまに嫌そうな顔をした。店内はいい感じに出来上がっていて、がやがやとそこはかとなくうるさい。

「なんだよ。おいしいのに」
「…そういう、ことじゃなくて」
「近頃忙しそうじゃない。構ってくれなくて先輩つまらないよ」
「……仕事あるでしょ、そっちも」
「あるにはある。まあ、やる事はやってる」

次々と通り過ぎていく忙しそうな店員を心の中でひっそりと労いながら、ジョッキにほんのすこし残っていたビールを飲み干す。雪男に視線を戻すと、やはりどうも不機嫌そうだった。

「なんなの。なに怒ってんの」
「怒ってないです。ただ、」
「ただ?」
「…いえ、何でもないです」
「なんだよ。言えば?それ。無駄だよ、この時間」

自分でも驚くほど低い、掠れた声だった。雪男はすこしだけ目を見開いて、その後すぐに困った顔をする。そんな顔をさせたいわけじゃあ、ないんだけどなあ。こいつは難しい。兄貴なら簡単なのに。

「申し訳、ありませんでした」
「え?ごめん、なんの話?」
「その、怪我。僕のせいです」
「怪我…?」

雪男の言葉で我に返ると、じんわりと痛む左腕。そういえば5日ほど前、ペアで一仕事したときに、悪魔から雪男を庇った際、すこしだけ左腕を負傷した。どうという事もない切り傷だったが、そんな事を未だ気にしているらしい。やはりこいつは難しい。

「ぷっ!あはは、なーんだそんな事かあ」
「な!そんな事って何ですか!一大事ですよ!あなたは、あ…」
「私がなに?」
「………僕の…大切な人だから、ですよ」

眉間に皺を寄せてみるみる赤くなる雪男。目がやたら泳いでいる。こういうところは子供みたいで可愛い。いつももっと素直になればいいのに。

「雪男」
「えっ、あ、はい?」
「帰る」

私が席を立つと雪男は慌てて後をついてくる。今思えば、雪男は昔からそうだった。いつも私の後をトコトコついてまわっていた。小さい頃はほんとにベソかきで、心配で放っておけなかった。可愛くて仕方なかった。今じゃ図体だけ偉そうにでっかくなったけれど。

「家まで送ってよ」
「勿論です」
「ねえ、ゆきおー。私まっすぐ歩けてる?」
「…微妙です」
「ふはは」

夜の風は酔っぱらいに優しい。ふわふわと足取りは軽かった。途中、雪男が手を繋いできたから、とりあえず握り返しておく。雪男はまた顔を赤くして、ズレた眼鏡を押し上げた。

「送ってくれてありがとよー」
「いえ…」
「あー、あがってけば?」
「え!」
「嫌だ?」
「……いや、お邪魔します」

扉を開けて、部屋に上がるとゆるゆる眠気が襲ってきた。ベッドに倒れこむと、雪男は溜息をつく。

「もう、だらしないですよ」
「急に眠気がさあ」
「せめて服。着替えて下さい」
「…あー。じゃ、脱がして」

雪男の顔はみるみる赤く染まっていく。ベッドの側にがくりと膝をつく雪男はやっぱりガキだ。いつになったら、慣れるんだこの男。

「ガキ」
「なっ、!」
「やっぱあんた、変わんないよ昔っから。可愛いね。…可愛い、私のゆきお」

そっと左腕を伸ばして、雪男の赤い頬をゆるゆると撫でる。すると、どうやら彼の何かに火がついたらしい。ベッドが軋む音がしたと思ったら、雪男は私の上に覆いかぶさっていた。目の前の顔は至極不機嫌そうだ。私はそれがおもしろくってすこしだけ笑う。

「子供扱いしないで下さい…」
「まだガキだよ」
「ガキじゃない!」
「なーに怒ってんの」
「あなたに守られてばかりは嫌なのに…」
「……ゆき、」
「守れるくらい、強くなりたいんだ僕は」

必死な表情にただただ驚いていると、突然口を塞がれた。空気を取り込もうと口を開くと、生温かい舌がぬるりと侵入してきた。酔っ払いにはそれがなんとも心地良くてゆっくりと目を閉じる。雪男の手は器用に私の服を脱がしにかかってきたが、彼は怒っているらしいので、取り敢えず抗わない。しかし、シャツから取り出された左腕にじくっと痛みを感じて、思わず小さく悲鳴をあげた。何事だ。

「いった…!なに、雪男っ」
「すみませんでした。僕のせいです」

はらはらと、きれいに巻かれていたはずの包帯がベッドに落ちていく。そして、すこしだけ血の滲んだガーゼがぽとりと落ちた。雪男が傷口にねっとりと舌を這わせると、背筋がぞくぞくと波打った。

「いっ…たいって、ゆきお」
「好きです」
「…いたいって」
「好きなんです。だから、僕が絶対、あなたを守る。強くなります。もっと」

雪男が顔を上げると、視線がかち合う。その目は、静かに燃えているようだった。ガキのままじゃない。いや、まだガキだけど、あの頃の雪男じゃない。そう、わかってる。わかってた、けど。

「ばーか」
「なん、」
「何のために祓魔師になったと思ってる」
「………」
「あんたが、泣いてたからだよ。可哀想で愛しくて、堪んなかった。守りたかった。それだけだ」
「そんな事、」
「可愛い、私の雪男」

眼鏡をはずしてやってから、雪男の首に腕をまわす。腕の中の雪男は、小さな声で私の名前を、繰り返し繰り返し、呼んだ。それはそれは大切そうに、苦しそうに、だけど愛おしそうに、繰り返し呼んだ。



リフレイン



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