「おい」
「……はい」
「これ、企画書。誤字脱字のオンパレードだろ。俺をナメてんのか?」
「……滅相もないです」

ぺしっと後頭部に何かが軽く触れて、すぐに振り返る。どうやら後頭部に触れたものは紙の束で、それは直属の上司である土方課長の手によって雑に丸められている。その紙の束というのは、私が夜通し唸りながらパソコンにかじりついて仕上げた代物で、つい先程提出したばかりだった。

「ナメてませんが、眠かったんです…」
「それがナメてるっつってんだ。すぐ直せ」
「……すみませんでした」

私の努力の結晶を、そんな雑に扱わなくても…と少々凹んでいると、土方課長はそれを察したご様子。彼はこういうところが非常に器用。

「俺がお前を今回の担当に推薦した」
「知ってます…」
「…ならいい。俺の顔に泥塗るんじゃねえぞ」
「承知しました…」
「あー……あと、これやる」
「え?」

軽く握られた土方課長の手が目の前へ伸びてくる。反射的に両掌を差し出すと、小さな小さな袋がふたつ、落ちてきた。これは、……飴?

「どうしたんです?甘いもの、お好きじゃないですよね、たしか」
「……あァ。外まわったとき甘党の腐れ縁に偶然会って、もらったんだよ」
「あ、…ありがとうございます」
「お前、昨日寝てねえだろ。適度に休め」
「…はい……」

土方課長は、企画書をデスクにそっと置いて、くしゃくしゃと私の頭をかき混ぜてから自分のデスクに戻っていった。しかもクールな笑顔付きで。私は自分の掌に乗っかっている苺ミルク味と書かれた小さな袋に視線を落とし、高鳴る鼓動をなんとかやり過ごそうとした。



「お疲れ様でした」
「お疲れ様ー!」

昨日はずるずる残業してしまったので、今日は5時ピタで退勤。我ながら要領がいい。昨日の睡眠不足からか、妙に足元がふわふわする。明日は休みだし、一杯飲んで帰ろうと思い、いつもの飲み屋に向かって歩き出した。一人でなんて無理!などと新人の頃は思っていたが、今となってはどうということもない。お一人様も、もう慣れたものだ。

「え」
「あ?」
「か、課長…?」

いつもの飲み屋の暖簾をくぐると、そこにはなんと土方課長がいた。ジャケットを脱いで、ネクタイは緩められており、すこしリラックスモードの課長は、私を見つけて目を丸くした。

「お前なにしてんだ」
「なにって飲みにきました…」
「一人でか」
「う……いいじゃないですか別に!課長だってお一人様でしょう?」
「今お二人様になっただろ。まあ、そこ座れよ」

課長の言葉に顔が熱くなる。お二人様ってことは、座れってことは、一緒に飲んでくれるってことじゃないか。やっぱり、課長は優しい。

「…失礼します」
「おう」

私はカウンター席の、課長のとなりに腰かけた。とりあえず生と注文してからそろりと右隣の課長に目をやると、グラスを傾ける様が色っぽくて、目眩がする。さすが、社内女子人気ナンバー1の男。店員さんの一言と共に差し出されたジョッキを受け取って一口飲む。色気の無いものを飲んでいる女が隣に座っているという現状を、こっそり申し訳なく思った。

「……なに見てんだ」
「あああ、ごめんなさい」
「…疲れただろ今日」
「え、あ、はい」
「いつも悪ィな……頼りにしてんだよ、お前のことは」

課長は笑って、今まで聞いたこともないような事を言い放つ。今までこの人に褒められたことなんて一度も無かったから、どうしても認めてもらいたくて、どんな仕事でも真面目に取り組んできた。課長に頼りにされてるなんて、この上なく嬉しい。

「ありがとうございます。その言葉の為に、頑張ってきました…」
「…大袈裟だよ」
「いえ、ほんとに…課長ちょっと酔ってます?」
「酔ってねえ」

課長の顔はやや赤らんでいる。そういえばこの人、飲み会でいつも顔赤くしてたような。

「顔、赤くなるタイプなんですね」
「酔ってはねえけどな」
「あはは、かわいい」
「かわいいとか言うな」

課長は心底嫌そうな顔でじろりと睨んでくるけど、不思議と恐くなかった。私と課長は意外にも、今度の企画の話だとか新人の話だとか、仕事の話で盛り上がった。かなり時間が経ったように思い、ふと腕時計を見ると、もう8時を過ぎていた。

「そろそろ帰るか」
「あ、はい。すみません、付き合ってもらっちゃって」
「アホか。こっちの台詞だ」

私が時計を見たことに気付いて、気遣ってくれたのだろう。帰りたいわけじゃなかったのになあとしょぼくれると、課長は今度また飲みに行くかと言ってくれた。
こんな色男が私と一緒に居てくれたことに対して代金を支払いたいくらいだったのに、華麗に拒否された。有難いことに課長の奢りで会計を済ませてお店のドアを開けると、びっくりするくらい雨が降っている。

「あらら」
「すげえ降ってんな…」
「傘ないや。走ります?」
「お前このあと予定は」
「え?」
「いや時計、気にしてたろ」
「予定なんてないですよ!大丈夫です!むしろ良かったです。課長と二人で飲めるなんてほんとラッキーで、嬉しかった…で、す」

途中で我に返る。なに本人の前で好意剥き出しにしてんだ私は。恥ずかしくなって、視線を落とす。すると、バサッと頭に何かが被せられた。これは課長の、ジャケット?

「俺んちまで走るか」
「え?は?え、ええ?」
「こっから徒歩5分なんだよ。行くぞ」
「は、はいっ」

想定外の出来事に頭がついていかない。雨の中に飛び出した課長の背中を、ジャケットが落ちないように気を付けながら追いかけた。訳もわからず、とりあえず走った。どうしようもないくらい、心臓がうるさい。
課長のお宅は、結構大きなマンションの一室だった。オートロックの広々としたエントランスと、キレイな内装にそわそわして、課長の後ろをぴったりくっつくように追いかけた。

「入れよ」
「お、お邪魔します…」

何階だったか忘れたけれど、課長のお宅はエレベーターのすぐ近くだった。課長は慣れた様子で鍵を開け、ドアを引いて私を中に入れてくれた。薄暗くて廊下の奥は見えないけれど、なかなかの広さ。そして、きちんと掃除が行き届いている。視界の端にうつった二つのスリッパはおんなじデザインで、そこにきちんと並べられていた。

「さすがに寒ィな、今の時期降られると…」
「そうですね。あ、課長…ジャケット」
「ああ、悪い」
「ごめんなさい。びしょ濡れ…」
「ふ、これ意味無かったな。髪、風呂上がりみてぇ」
「…!」

土方課長が、優しく笑う。あんなに降られたのに、まだ温かい指先が、私の頬に張り付いた髪をはらう。土方課長こそ、びしょ濡れだ。かたい黒髪から滴るしずくが、頬を滑って首筋に流れて、落ちていく。顔をあげると課長と目が合って、時間が止まればいいのにと、おもった。

「好きです」

ほんとうに無意識だった。どちらからかはわからない。気がついたら課長の腕の中に居て、私は夢中でその逞しい背中に腕をまわし、しがみつく。そして、とてつもなく長いキスをした。慣れない煙草の香りに、頭がくらくらする。

「俺も好きだ」

耳元で聞こえた声が、愛しくて苦しい。だって、そんなの嘘。嘘。そんなはずないって、わかってるのに、嬉しくて、涙が溢れた。

「…うそつき」

ぜんぶぜんぶ、土方課長が悪い。だって、左手の薬指、どうして指輪をしてないの。そうやって女弄んで、平気な顔して、何にも無かったことにして、その温かいおんなじ手で、奥さんを抱くんでしょう?私のものにならないくせに、好きだなんて言わないで。言われたらもう、止められないのに。

卑怯者



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