text | ナノ

 私の、寝床は決まっていない。ただ、この船の船長であるトラファルガー…ファルのベッドが必然的に多い。というのも、奴によって私がベッドに連れ込まれることが多いからだ。私が嫌がっても(身を捩る、噛み付く振りをする、力を抜く)バラバラになるだけで、無駄な抵抗であるからだ。実際間違って彼に噛み付いてしまった時にはしばらく元の体に戻れなかった。…私は何も悪くないのに!
「おら、ポチ寝るぞ」
 宴会でも無い時は、奴は静かに晩酌をしながら、医学書を読むのである。小耳に挟んだ情報では、奴は相当不健康な生活をしているらしくて、二、三日寝ないことは珍しくないらしい。それを聞いた時には、私はちょっと首を傾げてしまった。私がいるときに、彼が寝ない様子は無かったからだ。
「グルル(へいへい)」
「いい子だな」
 だから、大人しくなでられている私は今夜、奴が本当に寝ているのかを調査してみようと思う。酒も入っているのだ。寝ないほうがおかしいって話である。うん。グッと圧し掛かっていた体重が無くなる。しかし今度は、ギュと私を拘束する細い腕が、首に絡まったのだった。
「グ」
「苦しかったか?」
 毎回聞いて、聞いた割には大した変化を起こさない癖に…。コクコクと微かに頷く。クスクスと笑う、奴にイラとしつつも、声がトロリと溶けているようで、ソッと目を合わせてみた。
「ん? 何だ?」
「…ごろごろ」
 全然そんなことは無く、ファルの目は喜色が浮かんでいて、表すならば、ちょっと意地悪そうな光を放っている。グワ、と口を開けたかと思った次の瞬間には私は鈍い痛みを感じていた。
 鼻を噛まれた!!
「ギャゥッ」
「…鼻は湿っている。息も正常、脈拍些か速いが正常範囲。喜べ、ポチ、健康体だ」
「(なんなの!?この暴君は!?)グルルルッ」
 なんだ?と至極楽しそうに笑う奴に、これ以上顔を見られたくなかったので、ギュ、とファルの胸元に顔を埋めた。ファルの笑う声に合わせて、肋骨が微かに振動して、ダイレクトに私に伝わる。ギュと腕の拘束が強まり、私は微かにえずくが、かたくなに、顔をあげようとはしなかった。
「おい、ポチ」
「…」「…」
 私は不機嫌です。と不快感を隠そうともせずにファルに自己主張する。ファルは、私の機嫌取りをする気は無いのか、暫く黙った後、乱暴に私を撫でると、額に唇を押しつけた。
「おやすみ」
 …めちゃくちゃ声が優しかったような気がした。でも、私は今までの態度もあったし、なんだか顔を上げられなかった。それから、ファルは寝たのか、スーと微かな寝息しか聞こえなくなった。胸の上下も、夜の海に響く静寂に紛れて、強く感じる。反対に私の体温は上がるばかりで、上手に眠れない。
 どれくらい、時間が経ったかは分からないけれど、ずっとファルの胸元に顔を埋めていた私は、息がしづらくなって、ソロソロと顔を上げた。
 濃い隈が見えた。何時も見えないことが無い深い深海に似た青は見えなくて、ただ、少し薄くはなっていても、まだ常人に比べたら断然濃い隈が見えた。長い船旅の中で、キツイ生活環境の中で、彼は疲労が溜っているような表情をしていた。顔色は、元々、良くは見えなかったが、意地悪そうな笑みが消えるだけで、ここまで印象が変わるとは思えなかった。
 ジイ、と整った精悍な顔つきに視線を投げる。スーと静かで穏やかな寝息が私の顔の毛並みを微かに揺らした。
「…」
 おやすみ、と言えば良かった。ハ、と生温かい息を吐くだけの私から声がこぼれることは無かった。今の私が声を出せば、人間のような声量調整はできないことが分かっていた。
 少しでも、ファルにいい夢を見てほしいな、と小さく祈って、もう一度私は彼に身を寄せるのだった。
 おやすみ。

安眠のお話

 この船の船長であるトラファルガー・ローは、常に不眠症に悩まされる外科医だった。気心が許せる仲間しか乗船していない愛船でも、彼が安眠できることは無かった。それは、敵襲や、彼らが航海しているグランドラインの多様な天候の変化などの問題もあっただろうが、それ以前の時点での話なのである。船員には、それを話のネタにされるほど年がら年中取れない隈を携えて、彼は寝れないであろう夜を迎えるのだった。
「船長(キャプテン)」
「…何だ」
「いつものですよ」
 フワリと香るのは、マグカップになみなみと注がれたホットチョコレートだった。寝るには最適だと、船員が気を遣って作ってくるそれを、ローはいつもの渋顔で受け取った。
「酒は」
「あなたは飲みすぎ、少しは控えて下さい。船の資金もあるんですよ」
「…」
 さあ、と促す防寒帽を被った青年に疎ましそうな視線で睨みながら、目の前でそれを飲み干すのだった。
「毎回思いますがね、一気飲みするから嫌いなんですよ」
「関係ないだろう」
 呆れたように上げられた声に硬質な声で返事するローは、口直しのように煙草に火を付けた。大きく吸い、ハーとおざなりに吐き出すとすぐに消してしまった。
「では、おやすみなさい」
 ローはその言葉に返すことは無かった。嘘を言っているようなものだった。実際眠気が訪れることは無いのだ。胸の中心はほっこりと暖かいのに、末端の冷たい指を医学書のページに滑らせた。
 木製の扉が閉まる音を片耳で捉えながら、彼の意識は医学書に吸い込まれ、とうとう日が昇るまで、彼が一睡もすることは無かった。
 次の日、午前中は散々グランドラインの難解な海域に悩まされつつ、四苦八苦しながら、見つけた無人島。
 ログポースの反応はあった。ただ、本島では無かったらしく、そばに連なる小島のうちのひとつだった。
 PENGUINと書かれた防寒帽を被るペンギンが、海図と島を何度も見比べた。
「あってますね。ただ、無人島だということで、食料は期待できないかと」
「出来るだけでいい。次の島は近いようだから、真水が手に入れられるなら、持って来い。探索のチーム編成は出来てるか?」
 手すりに寄り掛かるように佇むローはだるそうに、ペンギンに視線を投げかけた。彼は、ローの様子を見ただけで、彼が昨日も一睡もしていないのだと察した。
 憐憫の思いを抱きつつ、感じさせない無感情な声を装う。次の島で良質な酒を見つけてこようとも思った。
「はい」
「ログは」
「半日です」
 幸い、ログが溜る時間が短くて良かったと思った。無人島で長く滞在するのは、海賊生活をしていても、難しいことだった。早いこと次の島できちんとした食料を確保したかった。
 ローもそれを思っているようで、巡考する間もなく、すぐさま結論を出した。
「じゃあ、頃合いを見て、半日過ぎる前に帰って来い。長居は無用だ。分かったか野郎共!」
「アイアイ、キャプテン!!」
 決まった喚声を上げて、海の男たちは船から降りていく。
 ローは自分以外無人になった船室に戻って行った。敵襲には対応できても、無人島のあちこちを歩き回る気力は無かった。
 人気が完全に失せた船長室で、医学書をパラパラと捲り、ぞんざいな扱いでそれを、フワフワのソファに投げ捨てた。
 同じように寝心地の良いベッドに身を投げる。睡眠薬を調合することは彼のプライドに反した。医者の不養生とは良く言ったものだが、彼がかたくなにそれを認めることは無かった。それに、トラファルガー・ローの肩書は『死の外科医』であった。内科医では無い。一通りのことは容易く出来るが、それは自分の為ではない。彼の、絶対本人たちには言わないが、…愛する船員たちの為の知識と経験だった。とりとめもないことをつらつらと考えながら、思考が短絡になっていることを彼は静かに自嘲した。
 自覚してから、暫くして、全身の力が抜けた。暫しの浅い眠りであることは知っていた。
 船員が帰ってくる音をとらえたローは野生並みの聴覚で感じ、自然と意識が上昇した。
 ふらふらとふらつく足取りで、まだ日が高く昇り、光で照り返した甲板に出たローは、かなり帰ってきている船員に視線を流した。船長の登場に気付いた船員が報告に声をかける。
「まだベポたちが帰ってきていません」
「…そうか」
 珍しい彼らの行動に、ローは首を傾げて、彼らを見送ったときと同じように、少し荒れた手すりに寄り掛かった。

2011/10/31
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