マルコの唇が好きだ。 甘く名前を呼ぶ唇が好きだ。 求めればいつでも与えてくれる、口づけが好きだ。 ガチャリ。 玄関の鍵を開ける音。 続くはずのドアを開け、閉める音は、よく耳を澄まさないと聞こえない。 浴室のドアの開閉もまた、然り。 勿論、内部のシャワーの音も。 深夜と呼ぶ時間。 隣の家とわたしを気遣って、一連の行動は音を潜めて行われる。 それでも、同じ家(と言ってもマンションだが)の中にいるのだ。 意識を持っていれば、マルコが今、何をしているかは分かる。 あ、今冷蔵庫開けた。 キシリ、キシリ、軋む足音が向かって来るのが聞こえて、手にしていた文庫を閉じてベッドサイドの棚に置く。 「お疲れー、マルコ。」 スタンドライトのオレンジに照らされたマルコは、少し眉を顰める。 「×××、ベッドで本読むときゃ電気点けろっつったろい。」 「んー、マルコが来るまでちょっとだけ、ちょっとだけって思ってさ。」 マルコはベッドの端に座って、冷蔵庫から持って来たであろう、ペットボトルを唇へ運ぶ。 上半身をベッドから起こしてその様子を見つめる。 そんなわたしに視線をやりながら、顔を傾けて水を飲む。 思いを篭めて見つめ続ければ、マルコは唇についた水滴を手の甲で軽く拭い、ふ、と笑った。 飲むかい、と差し出されるペットボトルに首を振る。 「マルコ。」 「ん。」 「ちゅう。」 両手を広げて軽く口を突き出せば、 「ん、」 触れるだけの湿度が一瞬訪れる。 愉快そうに下がった目尻と上がった唇に、にじり寄る事で再度のそれを要求する。 「足りねェかよい?」 意地悪く聞く声に頷くと、 空気だけで笑って、 ちゅ、ちゅ、と贈られる唇。 触れてはすぐ離れる感触に、不満が募る。 意地悪。 分かっている癖に。 瞑っていた目を開けば、案の定、楽しげな瞳が揺れている。 「足りない、ってば。」 首に手を回して自ら大好きな唇にかぶりつく。 あむ、 厚い下唇を銜えて、食む。 力を抜いたそれは、酷く柔らかい。 食んで、舐めあげて、軽く歯を立てれば、 「ん、」 抱え込まれるように腰と背中を拘束された。 捩込まれた分厚い舌が暴れまわって、わたしの舌をいたぶる。 口の中だって、性感帯だ。 舌の裏側から端をやらしく刺激されて、 ぞわり、 背筋を走った感覚に、逃げるようにマルコから身体を離す。 「溜まってんじゃねェのかい?」 「ストレスが、ね。」 「またあの上司かよい?」 「うん、相変わらず口がクサイ。」 「胃が弱ってる奴は臭くなるらしいよい。」 「だからって部下に理不尽していい理由にはなんない。」 ニヤつく顔に、大人しくストレス解消させて、と呟いて、唇の堪能を再開。 今度は自身もあまり動かないで、ゆっくり、柔らかく唇を合わせる。 ゆるゆる、自分の中の固まった疲れが溶けていくのが分かる。 マルコの唇。 暖かくて柔らかいその感触が、気持ちいい。 ずっとだってこうしていたい、と思う。 けどもそれは、 プルル、プルル、 鳴る電子音に妨げられる。 ちゅ、と音を立てて顔を離せば、マルコは立ち上がって携帯を開く。 顔が険しくなったから、何か仕事でのトラブルが起こったのだろうと容易に想像がつく。 悪い、と上げた手で謝って寝室を出ていくマルコ。 その後を追って、キッチンへ向かう。 一人分のコーヒーを煎れて、開かれたノートパソコンの横へ置く。 電話を続けるマルコがまた軽く手を上げて礼を示した。 その手に、ちゅ、と口づけを落として、おやすみ、と声を出さずに伝える。 まだ仄かに自分の温もりが残るベッドに一人、横になる。 別段珍しい事ではない。 マルコの仕事は重要であり、その量も責任も、それに向かう情熱も、わたしの比ではない。 彼は仕事に時間も心も体力も注ぐ事に躊躇しない。 尊敬する人の為だ、同僚たちの為だ、と。 だからと言って、与えてばっかり。 少し心配になる。 なんて。 ストレス解消、と自分のエゴで彼の唇を貪るわたしにそんな事を言う資格はないのかもしれないけれど。 「―――っ申し訳っございません!!」 「謝ってすむ問題じゃねーんだよ!!大体―…」 浴びせられる罵詈雑言に、ひたすら頭を下げる。 問題の根本の原因は、いつもの上司の阿呆な行動だが、それをチェックしそびれてたのはわたしのミスだ。 「お前じゃ話になんねーよ!!上の奴だせ!!」 「申し訳ございません、ただ今外出中でして…」 外出は本当だが、もう帰って来ていいはずの時間だ。 大方、クレームの電話が行ってわざと帰社時間を遅らせているのだろう。 そうして後で、わたしにヘラヘラ謝るか、チェックを怠った叱責を飛ばすのだ。 理不尽、とも思うが理不尽を堪えるのも仕事の内だし、得てして賃金を貰う、ということにはある程度の苦痛は伴うものだ。 それに今回はミスをした事は事実だし、お客に迷惑をかけた事も事実だ。 絶対に泣きはしない、と心に決めているから涙は出ない。 ただ、今この瞬間、消えてしまいたい、だなんて思ってしまう。 「っふ――――――。」 いつもより重たい身体を暗い部屋のソファーに預ける。 手の甲を瞼に当てて、しばらくそのまま、動ける気力が湧いてくるのを待つ。 ぐるぐる、ぐるぐる。 今日の暗い光景と口汚い罵りが頭で渦巻く。 だめだ、こりゃ。 頭を振って、熱いシャワーを浴びに行く事にする。 いつもは溜めないお湯をバスタブに張って、乳白色の入浴剤を投入。 身体を沈めて、甘めの匂いを深く肺に送る。 お風呂から上がって、簡単にスパゲティーを作って食べて片付けて。 いつもは缶ビールを呑むけど、今日は呑まない。 早めに寝室に入って、スタンドライトの明かりだけで昨日の続きの文庫を読む。 しばらくすると、 ガチャリ。 玄関の鍵を開ける音。 静かなドアの開閉。 その音に、文庫を閉じてサイドの棚に置き、目を閉じる。 浴室の音。 冷蔵庫の音。 寝室へ向かってくる音。 いつも通りの音を聞きながら、目を閉じてマルコが来るのを待つ。 寝室のドアが開く音がして、次いで 「×××?」 マルコの声。 返事の代わりにわざとゆっくり、大きめに呼吸をする。 寝たフリ。 マルコはベッドの端に腰かけて、ミネラルウォーターを飲み、ペットボトルを文庫の横へ置く。 ぎしり、ベッドへ上がって、隣に座る。 「×××」 小さく甘く名前を呼んで、柔らかく髪を撫でる。 心地好くて仕方ないその声にも、その感触にも、反応は示さず、 寝たフリ、寝たフリ。 すると頬に降ってくる、大好きな優しい、唇。 マルコの唇が好きだ。 甘く名前を呼ぶ唇が好きだ。 求めればいつでも与えてくれる、口づけが好きだ。 だけど、 わたしにも他の人にも、 与えるばかりの彼が 唯一、自らの為だけに落とされるこの唇、 が、1番好きだ。 離れていく柔らかさと、隣に横たわった体温に、静かに心を奮い立たせる。 ………明日もまた、頑張ろう。 明日からも、我が儘な口づけをする一瞬の為に。唇を落としたい、と思わせる価値のある人間になる為に。 エゴイストのキス (なァ×××。仕事なんていつ辞めたっていいし、お前が望むなら会社も上司もぶっ潰す準備は出来てんだ。) (だから×××) (早く俺を求めろよい。) ――― 「52c」の頭頂キノコさんからの相互記念小説です! A子は一体なんと感動を表せば良いのでしょう! 珍しく現代バージョンですが、大人な感じがこう滲み出てますね!饒舌し難い高クオリティなお話で、妄想が弾みます!マルコさんの一挙一動にA子、ドキドキしながら読ませて頂きました。 本当にありがとうございます!これからも、是非仲良くして下さいませ(*^ω^*) A子 <-- --> 戻る |