text | ナノ

 ノースブルーのとある地方にある、一年中融けることのない雪に覆われた島。昨晩も降った、まだ、誰も踏み締めていない新雪を、ギュッギュッと踏み締めて歩く一人。フウ、と吐く息は白く、灰色の空に溶けた。血の通いの悪い、褐色の肌を隠すように、暗色のコートの前をキッチリ閉じた青年は、もう一度、フウと息を吐いた。被る帽子は、ボア生地の、ふわふわした白で、銀世界の中、黒いシミのように存在する彼の中で唯一、同調するように、雪に紛れて控え目に主張した。
 朝一番、まだ誰も生活を始めない中、彼にはやらなければいけないことがあった。すっかり覚えてしまった道筋を辿り、目立つはずのコートがあっと言う間に森に紛れる。フウ、と静かな息遣いだけが、彼が存在していることを確認できた。巨木が生い茂る中、木々に遮られ、僅かに土が垣間見える木の根本、不自然な白が蠢く。
「ベポ。動くんじゃねェよ…」
「ぼく、×××××だってば…」
「お前は一回死んだんだよ。黙って治療されろ、ベポ」
「…」
 青年が脇抱えていた黒いアタッシュケースを広げると、そこには趣味の範囲を超えた医療器具で溢れていた。まだ幼い白クマが、一匹で木の根元に丸まっている。不満げに唸る青年が庇うように丸まっていた白クマの腹部を露わにした。人工的な治療が施されたそこは、毛が無く、何針も縫われた後がある。野生では死んでしまう致死傷である程に酷い。
 顔をしかめたまま、青年はテキパキと作業をこなした。
「後は舐めときゃ治る。…人間には近付くなよ」
 あっと言う間に抜糸を終えた彼は、白クマに目も向けず柔らかそうな頭部の毛をスルリと一撫でし、スッ、と立ち上がる。何か言いたげな白クマは、身を翻した彼を呼ぼうにも、生憎名前を知らない。息を詰め、迷っている間に、その浅黒い肌をした青年は銀世界に戻っていった。
 慈善活動ともとれる早朝の仕事を終えた青年は、既に新雪によって塗り替えられる己の足跡を辿った。一般的な雪国の一軒家、防寒用の二重扉を抜けて、フルフルと首を振って、頭に積もった雪を蹴散らす。
 ジリリリリリ!!
 静まり返った家内にけたたましく響く声。青年が、ゆったりとした動作で、必死に鳴く電伝虫を見つめる。面倒そうな緩慢な足取りですぐ近くまで行くと、眉間にシワを刻み込んだまま、それを黙らせた。
「何だ」
「ロー、やっと出たか! ×××が大変なんだ! 熱で…!」
「…ペンギン?」
「おれも、連絡がきて、急いで来たんだ。すげェ息が荒いし浅い。初歩的な対処はしたんだが、お前、どこ行ってたんだ!? 取り敢えず今すぐ来てくれ!」
「熱は。104°F以上なら…「してるっ!」…待ってろ」
 ガシャンッ、と受話器を投げるようにして電伝虫に戻したローと呼ばれた青年は、表情には出さず、平常心を繕っているものの、些か顔色が悪くなるのに拍車をかけたようだ。先程までの悠長な動作が消え、無駄のない動きでアタッシュケースにモノを追加すると、手荒く扉を開け放ち、外へ飛び出した。
 ザッ、と目の前の雪が消え、永久凍土が顔を出す。ローが左手を翳しながら、ブツブツと呟き、何かを施しているが、詳細は分からない。
 熱を出したと言う×××の家まで、通常の半分程の早さで辿り着いたローは、最後に、シャンブルズと呟き、寒空に晒していた左手をコートのポケットに突っ込んだ。
 バンッ、と蹴りつけた扉が開くのは直ぐで、家の中でも防寒帽を外さないペンギンに一瞥をやるローは、声も掛けずに家の奥へと急いだ。ペンギンが後から続く。
「キャプテン!」
 ベッドの傍らに居たキャスケット帽の青年が振り向き、露わになっている目元を歪ませた。キャプテンと呼ばれたローはそれを無視し、苦しそうに息を漏らす×××の枕元にしゃがみ込んだ。スッ、と薄い手の平を彼女の首もとに差し入れ、暫くして離す。
「水分は取らせたか」
「あァ、でも意識が薄かったから十分じゃない」
 ペンギンが言うと、ローは聞いているのかいないのか、すっくと立ち上がり、アタッシュケースを広げた。
「ぬるま湯を用意しろ。暖炉に火を灯せ。…コイツを肌着にしてやれ。おれは薬を調合する」
「あ?…あァ、」
「シャチ、お前はメシだ。ヨーグルトかアイス、粥でも良いが無理はするな。この軟弱馬鹿の胃でも食えるようなもん買ってこい。リンゴもだ」
「…おう」
 手元の作業と同時進行に二人へ的確な指示を出す。不意打ちに言われる内容に戸惑いながら返事を返す二人。シャチの何時もの煩わしい程に元気な声は影さえ無い。
 ローが、磁性の乳鉢を取り出す手を止め、ふぬけ面を晒す二人に暗い視線を滑らせた。ギュッと眉間にシワが寄る。二人があ、ヤバいと思った時には彼はもう口を大きく開けていた。
「…ぼさっとしてんじゃねェ!! さっさと動け!!」
「あいあいキャプテン!!」
 彼の一喝で、漸く二人の時間が動き出す。
 ベッドに賦せる×××の傍ら、バタバタと忙しなく動き回る彼らが一段落し、ローが、丁度セロファンに包んだ薬をベッドサイドに置いた時、
「…ろぉ?」
 小さく身動ぎした×××が薄く目を開いた。顔を横に倒すと、額に置かれたタオルがポタリと落ちる。
「元気かよ、病人」
 少し温くなったそれを、ポイッと投げ捨てる。丁度ペンギンに当たり、落ちる前にキャッチされた。ローがシニカルに笑って、上体を起こそうとする×××の頭を大きな手の平でベッドに押し付けた。潰れながら、もごもごと喋る。
「何とか、あ! これ、ローがしてくれた、の?」
「…ペンとキャスに感謝しろ」
「あっ、」
 ほんのり赤い頬のまま、囁くように喋る×××。彼女の寝起きの視界が明確で無い中で、シャチとペンギンを捉えた。
 フッ、と唇を笑みの形に歪めて、ローが立ち上がる。その場をシャチに任せると、ローはペンギンを連れて、サッサとキッチンへと引っ込むのだった。
 シャチが一人、×××にあれこれ(風邪の安否。熱の有無。彼が珍しく焦っていたなどと)話しているのを耳にしながら、ペンギンは思慮深そうに口を開いた。その場に相応な態度を繕えるペンギンはある意味器用なのだろう。
「大丈夫なのか?」
「朝に出る熱は悪質じゃねェからな」
 当然のようにサラサラと答えを述べる、不健康まっしぐらな青年を、ペンギンは再び意外そうに見つめた。
「…へェ」
「応急処置が的確だったお陰だ」
「ロー、お前の内服薬も冴えてたぜ」
「当たり前だろ」
 視線を交わした二人は、シニカルな笑みを一瞬崩してフハッと吹き出した。シャチが買ってきたリンゴにメスがザクッと切れ目が入る。ペンギンの目が微かに見開かれ、次の瞬間には穏やかな笑みで、やんわりと緩められた。
 おれ、風邪引いたことねェもん!とシャチの声が聞こえる。微かに×××の笑う気配を感じたペンギンは手元のタオルを冷やしながら、直ぐ隣の男に視線を投げ掛けた。偶然にも重なる視線の先、目元の隈を愉快そうに歪めた。
「キャス! お前は×××が病人だって知ってるか? お前の馬鹿デケェ声がコッチまで聞こえてくんだよ」
 ペンギンが声を弾ませながら、シャチを罵った。余程の事がなければ変わらないキャスケット帽に因んで、彼は良く親しみを込めてキャスと呼ばれていた。
 それに答えるようにシャチが、振り向き、×××と共に彼らに顔を晒す。どけ、とローの長い足が現れ、シャチを蹴散らした。イテーッ、と全く痛そうでもない声を上げる。
「わ、ロー、…シャチにペンギン、あの、ありがとうね!」
 しかし、いくらシャチが足蹴にされようとも、×××が心配することは無くなった。何せ、×××を含めた彼らは小さなころからこのようにじゃれていたし、長年気を許した、所謂幼なじみ同士であった。
 ×××が、ふにゃ、と頬を緩めると、答えるように笑う二人。残念ながら一人は皮肉混じりに口元を歪めるだけのひねくれ者だった。フッ、と鼻で笑った一人は彼女の言葉を片手であしらった。
「言われる程の事はしてねェけどな」
 よく見れば、照れ隠しにも見える動作に、×××はニコリとローに笑みを投げ掛けた。
「おうよ! 気にすんな!」
「あァ、早く元気になれよォ?」
「うんッ!」
 えへへー、と熱で更に甘く笑う×××に、シャチとペンギンは苦笑した。
 ベッドサイドにコトリと皿を置くロー。、×××が注目してみれば、クリーム色の胴体に、赤い耳が可愛らしいうざき仕様のリンゴだった。銀色の二股のフォークが白い皿に乗っている。
「リンゴありがとう…こんな、うさちゃんにしてくれて」
「好きだろ」
「うん、でも、もう小さい頃の話だよ」
「キャプテン、×××の事なんだって思ってんスか〜!」
 上体を起こした×××は、既にパジャマを着込んでいた。ローは直ぐ×××から離れ、一人掛け用のソファに腰を落とす。従ってシャチが、突き出された彼女の手に銀のフォークを握らせた。うさぎの出来映えを眺めて、後ろの方に歯を立てた。その間もケラケラと笑いっぱなしなシャチ。彼にローの冷たい視線が突き刺さる。笑った事に対してでは無く、彼が呼んだローの呼称に対してだった。
「シャチ…「あ、ワリッ」…ハッ、何時までもそれで喜べるガキだろうが」
 シャリシャリと小動物のように口を一生懸命動かす×××は、シャチの窺うような視線を見逃した。
 ペンギンが、持ってきた額を冷やすタオルは、冷水が張られた水盆の縁に掛けられて、近くのテーブルに置かれた。冷たくなった指先を暖めるように手揉みしながらクスリと笑う。
「ローの奴、メスで切ってたんだぜ」
「あーッ、酷い!…確かに嬉しいけどさァ。て、メスって…ロー、フルーツナイフあるとこ分からなかった?」
「うっせェ、とっとと食っちまえ」
 そしたら薬も飲めよ、と言うと、ローはすっかり医学書の虜になってしまうのだった。その後、ペンギンとシャチは他に用事があったので、看病の方はローに託して帰って行った。と言っても、胃に食べ物を入れ、薬を飲んだ×××は、また暫くベッドに臥せるのだった。
 寝た×××の傍ら、医学書のページを進めるロー。時折額の濡れタオルを冷やし直し、当て直してやる。窓の外、しんしんと降る寒空の下、漂う雰囲気は至極穏やかに二人を包んでいた。

 気が付けば、もう夕方で、医学書から顔を上げたローは不意にコーヒーが飲みたくなった。分厚く重い本をソファに投げ、立ち上がる。長時間同じ姿勢を取り続けて、凝り固まった体を伸ばすことであちこちの関節がバキバキと音を立てた。最後に首に手を当てながらぐるりと回して、ぽきぽきと関節を鳴らした。キッチンへ行くついで、×××の首に手を差し入れ、脈を取る。
「…馬鹿が」
 静かに罵る声は穏やかで、一見彼の方が不健康そうに見える表情が穏やかに弛められた。刺青だらけで、血の通いの悪い薄い手の平が、火照るピンク色の頬をなぜた。指先で目元を徒(いたずら)になぞり、慎重に離れる。
 緩慢な動きでキッチンに赴き、慣れない動作でコーヒーを入れたローが戻ってくると、ベッドの上に居たはずの×××の姿は見えなくなっていた。
「×××?」
 その代わり、ベッドの向こう側、暖炉のある手前の小さなラグに毛布を被り、ペタリと座る×××が見える。
、小さな声に気付かなかった様で、ローに振り向く気配が伺えない。暫し、彼女を静観した彼は、もう一度キッチンに引っ込み、また少し時間を掛けて、彼女の元に向かった。薄い手には、湯気の立つマグがあった。
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