text | ナノ

 ニャー
 朝、目が覚めた。ギイギイと軋む板張りの天井。ランプが風も無いのに微かに揺れている。何だか、不思議な夢を見た気がしたけれど、と×××はベッドの上でぼんやりと考えて、くぁ、と漏れ出る欠伸をかみ殺した。目尻に出来た生理的な涙を拭って、手を落とす。慣れたように定位置についた手はそのままスルリとなだらかに丸まった背中を滑る。
「マルコ、おはよう」
 上体を起こした事で、×××の上にあった布団が滑り落ち、金色の毛並みを露わにしていた。ふわふわと揺れる他よりも多い頭部の産毛を手の平で包む。クゥ、と鳴き、前足を下に突っ張りながら伸びをする彼に、×××はくふ、と小さく笑った。
「マールコ、おーはーよッ」
「…にゃあー、おはよーい。…今日は早いねい」
「うん、」
 夢見が良かったのかもね、と続けた×××は、ふにゃあと笑ったマルコが前足で顔を洗ったのを見逃した。その前足を、常に眠たそうに細めている目を限界まで見開き、見つめているのも。
「にゃい、ん゛!?」
「うん?」
「お、おれ!猫ににゃってるー!」
「…え?あー!!」
 早朝、×××の悲鳴に不寝番だったエースが起きたのだとか。

 取り敢えずと、慌てふためく彼の顎をこしょこしょと撫でる×××。
「ゴロゴロゴロ…、じゃねェよい!」
「えー。でもォ、マルコこれ好きだったじゃない」
「おまっ、そりゃァ猫なら好きに決まってるよい!」
「うん、だから落ち着いて〜リラックスして〜ってやったの」
「…おめェさん、変わってにゃいねェ」
「あはは」
 スッ、と慣れたように脇に手を差し入れて持ち上げる。何だか次の動作が予測出来てしまったマルコは諦めたように目を閉じ――。
 バアァァンッ!!
「×××ちゃーん!何があった!?マルコか!?どうせ我ま、ん、で、…?」
「んー、え?」
「〜ッ、こっの!くそサッチがあァ!」
「ギャアアア!なんで!?どうして!?」
 穏やかに微笑みながら寄せる所にけたたましい木の板がぶつかり合う音。乱入者に、×××とマルコは反射で身を震わし、その音源に顔を向ける。
 悪人面、目の傍らに存在する傷跡が歪み、何時も困ったように寄せられた眉が離れている。元々丸い目を大きくして、二人を瞳に映した。
 そこにゆらりと影を作りながら、×××の腕から抜ける金色の毛並みに、特徴的な模様を目の回りに作る猫がゆらゆらと尻尾を揺らして、彼に近付いて行った。
 キッとにらみ挙げる空色の瞳に、怯んだと思うと、彼の目の前に現れる後ろ足、サッチと彼の名前を叫びながら放たれた重い一撃。サッチは叫びながら廊下に放り出された。
 頬を押さえながら身に覚えのある痛みに、サッチは混乱したかのように仕切りに首を傾げた。

「…、じゃあ、マルコは×××ちゃんのもとで猫だったわけだ?」
「そうだよい!」
「へェ…」
「あの、マルコは話していないんですか?」
 この猫は何だ。マルコだ。と事情を説明していく一人と一匹。ただ、一匹は至極苛々とした様子も繕わず、全身で、不快だと物語っていた。ふむふむとマジメ腐った顔で頷くサッチに、ある疑問が浮かんだ×××はおずおずとその思案顔に向けて伺い申し上げた。
「あ?あァ。なァんか変だったけどよ。夢見が悪いだなんて嘯いて×××ちゃんの一言だって言わなかったぜェ?」
「そう。マルコ?キミ、ずっと心配してたじゃ」
「×××!」
 直ぐ答えたサッチに、×××がまた首を捻って、マルコを見下ろした。ポロリと零れる小さな言葉を遮る猫に、ニヤリと口端を吊り上げる悪人面。ふわふわ仕様のリーゼントが揺れる。
「へェ〜マルコがねェ…。おれたちを心配…」
「だー!うるせェよい!どっか行っちまえ!」
「へーへー。じゃ、この場合は×××ちゃんかな?襲うなよ〜」
「バカやろう!」
 ギャンギャンとまくし立てる小さな体躯に、サッチは悠々と笑いかけ、躊躇無く立ち上がる。小さな猛獣に笑いかけ、手を振りながら去っていくコックスーツに、マルコは、次に食堂を訪れた時にこれ以上の言葉が待ちかまえていると思うと、必然と憂鬱になった。
「×××も余計な事言わなくて良いんだよい!」
「えっと、ごめんね?」
「くっそ…ッ、だせェ」
 に゛ゃー!フシャーと威嚇しながら激情を示すマルコに、×××は思わずベッドの上で正座した。ショボンと反省を示す×××に、マルコは器用に顔をしかめ、前足でそれを隠す。
「可愛いよ?」
「おめェさんはそう言うがない」
 キョトンとして、零す言葉にマルコはフ、と笑った。彼女が良く言う言葉は何時も嘘偽り無く吐かれるモノで、マルコは不本意ながら背中がムズムズと痒くなるのだ。
「マルコ、でもキミ何時もなァんにも!言わないんだから、少しくらい言った方が丁度いーの!」
「はァ、この年だともう恥ずかしいんだよい」
「か、わいいなァ〜!」
 萎びれた様子のマルコに、×××はプルプルと震えて、もう一度抱き上げた。ギュウギュウと色気無く押し付けられる胸を押し返して、マルコは呆れて呟いた。
「おめェさん、おれがマルコだって忘れてねェかい?」
「ハッ!」
「はァ〜…」
 正気に戻った×××が、盛大にため息を吐くマルコに、気遣わしげな視線を投げかける。
「ごめんなさい。あ、食堂行きません?私たちずっと起きたまんまですし」
「無理に変えなくても良いよい」
 クスクスと笑って、改まったように言葉が丁寧になる。既に知れている本性を隠す様子に、マルコは急に可笑しくなって、笑った。
「ホント!?じゃマルコ、準備しちゃうから待っててね〜」
「…あァ」
 変わり身が早すぎるよい、と心の中で呟いたマルコはそれでも嬉しそうに、×××から目を反らし、ニヤリと器用に口はしを持ち上げた。
「マルコ、着替え終わったよ〜」
「にゃいよ」
 タタン、と彼女の体を駆け上がり、軽やかに肩へ降り立つ。
「へ?」間抜けな声を挙げる×××。
「人混みに潰されちまうからない」
「成る程」
 廊下に出てから一歩も歩かないで、うんうんと頷く×××に、マルコの尻尾がゆらゆらと動く。
「ほら、歩けよい」
「いたッ、痛いって、マルコ、肩に乗ると頭叩く癖やめない!?」
「ははは、相変わらず叩きやすいねェ」
「も〜」
 にやにやにや、と痛いと喚きながらも、当たる肉球に頬を弛緩させる×××に、サドッ気たっぷりな笑みを、可愛らしい猫の顔に貼り付けてバシバシと叩くマルコらは、端から見ると少し異常だった。ただ、そこは薄暗い廊下で、目撃者も、指摘する者も存在しなかった為に止めることは無かったが。
 一度洗面所に寄り、サッパリともう一度目覚めてから食堂を訪れた。ざわざわと何十、何百もの声が入り乱れ、彼ら二人に目がつく者は、入り口付近の者だけだ。おはようと何度も同じフレーズを繰り返す。
 目元の模様が、かの不死鳥に良く似る猫を見ても、特に不思議に思うものは無い。小さな不純物に疑問の声を挙げるものは全くと言って良いほど無かった。
「グゴー…――」
「エース…」
「おや、×××さん。おはよう」
「おはよう御座います。ビスタさん」
 肉の刺さったフォークが不自然に上がっている席はやはり想像通りの人物で、×××が溜息混じりに彼の名を呟く。人混みが開けたそこには他にも隊長らがいて、真っ先に×××に気が付いたビスタは、此方へと席に誘いながら×××を呼んだ。
 にこりと笑って隣のスペースに滑り込む。
「ややあ、その獣は?」
「えーと、」
「ンゴッ!――あ?×××、何だソイツ」
 答えようとする×××を遮り、まだご飯の残る皿に突っ伏していたエースが唐突に顔を上げる。
 ビスタも×××同様に口を噤み、彼に注目する。彼女の肩でマルコは、空色の瞳とバッチリ視線が合ったらしく、はァ、と深い溜息をこぼし、×××が生暖かい息を耳に感じた。
「…おはようエース」
「ああ、はよ。で何だよ?」
「私もそれを聞いていた所だ。顔を拭け」
 若干呆れの含む笑みで声を掛ける。尚も問う姿勢を崩さないエースに、ビスタは僅かに微笑みながらカイゼル髭を指で挟み、撫でつけた。
 ×××がにこにこと笑って、身を乗り出す。手に持っていたハンカチを彼の顔に押し付けた。
「あははー、はい」
「お、ありがと」
 ブヘ、とくぐもった声。ハンカチを掴むのを確かめて、×××が再び長椅子に腰を落ち着ける。エースに穏やかな笑みを差し向け、そのままビスタに移動する。
「―この子、マルコさんなんですよ」
「?」
「マルコ…―?」
「ケッ、間抜け面晒してんじゃねェよい」
 呆けたような面を晒す二人に、可愛らしい猫の顔が苦々しく歪められた。なかなか凶悪な顔に、×××が宥めるように頭を撫でる。
「ッ!!マルコだ!」
「おやおや、…何故かね」
「おー!やっと来たかお二人さん。ホイホイ、ご飯と餌だぜ」
「あ、サッチさん」
「餌じゃねェ!」フシャーと威嚇する声も今は可愛い。
「はいはい。何で猫になっちまったかは分からないんだよなー。ま、×××ちゃんに介抱されてた時はずっとこの姿だったらしいし?」
「…へ、へー!?」
「なんと、」
 ガタガタと騒がしく席に着いたサッチは、ご飯のプレートを三枚器用に持ち、×××の目の前にその内の二枚を寄せる。ありがとうと零す彼女にチラリと視線を向けて、誰に向かう訳でも無く吐かれる言葉は、驚きに目を見開く隊長らの知りたい情報が詰まっているように感じた。何時何処で、とまでは分からないが、以前もこのような状況に陥ったらしい一匹に大した動揺は無いらしい。
「だから、初めて会ったとき気づかなかったんです。本当は猫ちゃんだったんだよね〜?」
 膝の上に彼を引きずり下ろし、フワフワの毛を撫でつける。まだ物珍しそうに視線が集中している最中、マルコの意識は既にご飯に向いているようで、前足をテーブルの縁に掛けたまま×××を振り返り、見上げた。ニャー、と騒々しい食堂の中で、か細い鳴き声が聞こえる。
「んー?にゃあんか言ったかよい?それよりも食べさせてくれないかねェ。手が不自由なんだよーい」
 傍らで事情を説明しているサッチが、彼の甘い声に、ぐわりと勢い良く振り返る。
「え!う、うん分かった。はい、あーん」
 小さく声を上げる×××はそれでも直ぐ破顔一笑し、そそくさとスプーンを手に持った。
「あー」
 ご飯を待つように開いた口からは小さくとも鋭い牙が覗き、×××はふにゃふにゃと笑いながら甲斐甲斐しく世話を焼いた。
「おいし?」
「まァまぁァ。サッチ、てめェにしては美味いよい」
「…」
「マルコ!…サッチさん!何時もご飯美味しいですよ!マルコ、言ってましたから!」
「×××!まァたおめェさんは!」
「はい、あーん」
「…仕方ねェよい」
 ポカーンと口を開ける彼らが目に留まった×××が必死に弁解をする。フルフルと振られる首。マルコが余計な事を言うなと言外に含ませるのを×××は再びスプーンを持ち上げることで黙らせた。ぶつぶつ文句を垂れる様子と反して、猫の表情でも分かるほど頬は緩みっぱなしなのだ。
 サッチがイヤ、とマルコの言葉を許して、しかしそれ以上にツッコミたい所があった。自分たちが首がもげそうになるほど勢い良く振り向いたのは、彼の言動が失礼って所(辛辣なのは日常茶飯事で気にするほどでも無い)ではなくて――、
「デレデレじゃねェか」
「あのマルコが」
「まあ、喜ばしくもある」
「…グー」
 あの、女に人一倍厳しく、サッチが彼をゲイなのでは無いかと言う程女の影一つ見当たらなかった彼が、一人の女にのみやたらと甘い声を出すのに鳥肌が総立ちであった為なのだ。信じられないものを見るような、驚愕に溢れた視線を外さない二人が、×××としても何時もより段別彼に甘いのに気が向くことは無かった。

きみにだけ甘える。

2011/09/10
<-- -->

戻る