「…少し、歩かねェか?」 「はい」 暫く落ちる沈黙の後、マルコの一言で、二人は船の外へ繰り出した。 ヒュオ、と時折吹き付ける北風に×××は目を細め、コートの前を合わせてのんびりと海岸線に沿って足を進めるマルコの少し後ろに付いて歩いた。白波が音を立て、海をかき混ぜる。 「なァ…、この海はきっと向こうに繋がってるって、言ってくれたよな」 「えェ」 「…海を見てるとな、思い出すんだよい、×××のこと」 ゆっくりと喋り出す彼に、×××はチラリと視線を投げた。愛おしそうに白く荒れた海を見詰める彼を目に留め、徐に視線を戻した。 「助けてくれてよい。正直警戒してた。体の自由は利かねェ、なんせ体が違う。それでもニコニコ笑って、危機感のねェ笑顔でよい。真夜中に男連れて来た時にゃ馬鹿かと思ったねェ。ビービー泣くおめェさん見て、おれが守ってやんねェとって思った」 依然海を見詰める男は、その穏やかな眼差しの中に、彼女を想う色を滲ませる。ゆるゆると綻ぶ口元が彼女の目に止まった。 何時かあった小さな夜を思い出した。不思議とあの時の恐怖心はなりを潜め、気が付かない内に、思い出になっていた。×××は微かに目を見開くと、海を見る空色の瞳を仰ぎ見た。 「のによい、おめェさんはいっつもおれン事ばっか気にしやがって…こうやって浜辺を歩いて…。丁度冬島だなァ。やっぱり海は荒れてて、正直汚ェ。×××が連れて行ってくれた時も、そう思ったんだよい」 「…」 歩みを止めたマルコは、倣うように止まる×××を見下ろした。瞳の奥の感情まで見透かすような眼差しに、×××は静かに視線をかち合わせる。 「おれがあっちに居ておめェさんの言葉にどれだけ救われたか、分かるかい?」 「いいえ、…アナタ、言わないもの」 フ、と口内で笑いをくすぶらせるマルコに、×××は穏やかに微笑んで返した。少々の非難が含んでいることに、マルコは真面目な顔付きで、うんうんと頷いて肯定した。 「そうだ。だから言ってやりてェ」 「…」 止まった足を前に進めたマルコは少し後ろを歩く彼女に思いを馳せた。ゆったりと流れる雰囲気に、時たま頬を刺すような冷気。目の前を歩く長身の彼が残す足跡を眺め、彼を家に連れ帰ったのも、この様に凍えるような冬空の下だったなァ、とあの日の出来事が脳裏をかすめ、短い髪を風に踊らせる女。後ろには細々と、重ならない二組の足跡が奇跡を残した。 「海ン連れて行ってくれてよい。おめェさんの言葉に妙に安心しちまってなァ。不安だったんだ、て自覚しまって、情けねェ話だ。そしたら、どんどん臆病になっちまって、×××に拒絶されたく無かった。次は不死鳥がバレた時さね。猫なのに喋って、体が炎に包まれたらおめェさんも気味悪がると考えた」 「そんな事…」 度々広いと感じる彼の背中に言葉を投げ掛ける。小さな声は、彼の言葉に覆い隠されるように潰される。 「分かってる、全然そんな事無かった。船ではおれは不抜の防塁で無きゃいけねェ、勿論心配はしてくれることもあったが、」 仲間を思うマルコの声は優しく響く。一旦言葉が止まり、少し厚い唇を舌で濡らすと、直ぐひんやりと冷えた。それもまた一層甘い響きに乗って寒空に放られる。 「×××みてェに、叱ってくれる奴なんざ居なかったんだい。それが嬉しくて…あァ、あん時からだよい、おれがおめェんをどうしても攫ってやりてェ、手放したくねェ女になったのは」 「…」 ハッ、と息を詰める×××が足を止める。ほぼ同時に止まる砂を踏みしめる音。サァ、と頬を撫でる風が冷たい。 「どうしようもなく好きなんだなァ…。枯れたオッサンが情けねェだろい?」 くるりと体を反転させ、その表情が露わになる。海を見詰める視線が、黒曜石にも似る黒い瞳に真摯に刺さる。 「そんな」 「×××、好きなんだ。ずっと、おめェさんだけが、あの時から」 風が冷たい。そう思えるのは、どうしようもなく頬が熱を持っているからなのだろうか。困ったように笑って×××を見詰める空色の瞳。向かい合って見つめ合う彼らに、煩わしい波の音は消え、その言葉だけが×××の頭に響いた。 「マ、ル、コ…―」 猫が好きだ。酷くボロボロだった彼を助けて、喋れるなんて非現実的な事も受け入れられる程に。あの時は愛猫家が過ぎて、声を聞こえるようになったのだとさえ思った。今ならば笑えてしまう位、気分が高揚していたと言える。金色の見事な毛並みを持ち、頭部にフワフワと産毛が目立つ彼は、幾度も私を助けてくれて、癒してくれて、心の支えになってくれて。猫は好きだ。自然とマルコにも抱いた感情。ささやかな抵抗に愛らしさを感じて、可愛い顔に似合わない渋いおっさんの声。悲しい顔をして欲しくなくて、彼が渇望する居場所に帰してあげられなくて、何か私に出来ることをしてあげたかった。そう思えるくらい想いは募った。丸まっていた名残を残すシーツに涙を落とした。同じ様に喜べなくて、何時の間にか彼を手放せないほどに、 …だから、海をみつめるあの彼の目を見た時、動揺した。違うと頑なに突っぱねた体躯は彼だった。こんなにも近くに居たのに。変わっていなくて、全然違うのに一緒で。 私、何時からこんなに彼ばかり視線で追うようになっちゃったんだろう。感情を貯めていたダムの枷が外れちゃった様に、こんなに溢れて止まない気持ちに、どうして今まで気づかなかったのだろう。 初めから答えは決まっているのに。 「泣かせたくねェっつっても、泣かせるのは何時もおれなんだよなァ」 驚愕に目を見開きながら音もなくハラハラと涙が頬に道を作る。 マルコが眉を下げながら、ユルユルと両手を広げる。飛び込む×××を何一つ取りこぼさないようにひしと抱き止める。 「…ッ、ごめっ、ごめんなさいッ」 「それは、何に対する謝罪なんだ?」 「わ、たしもッ、ずっと、ずっと前から…!」 「…」 一片も離れまいと体を押し付ける×××は、流れるそれを拭おうともせず、必死に言葉を紡ごうとする。はくはくと口を開閉させて、一番聞きたい言葉が出てこない。空気ばかりを吐き出して、×××は下唇を噛み締めた。 「でも」 私、違うのに…。今更何が違うだなんて野暮な質問などするはずもないマルコは、×××の頬に手を這わせ、耳を悪戯に擽る。考えるように間を置いて、最初から決まって居たかのような淀みのない質問。 「なァ、あの猫はなンつってた?」 「え?」 「×××が助けた」 「私の為に生きろって…」 言い終わると、マルコは静かに口端を持ち上げ、薄く笑った。スッ、吸い寄せられるように近付く唇。×××は、何の抵抗も無く、ただ応えるように瞼を下ろした。啄むようなバードキス。 「そう。×××は自分を抑え過ぎだ、おめェさんの気持ちを尊重してやれ」 「うん、」 「決別したんだろい?」 「うん、」 「好きだ、×××」 「うんッ、マルコ、キス、して」 うっすらと目を開く×××。彼女に顔を寄せるマルコにその色は見えない。 「…」 無言で再び口を寄せた。直ぐに離れる。瞼を下ろしたまま×××は物足りないように彼の首に腕を絡ませ、囁き強請った。マルコが断ることは無かった。 「ン、もう一回…―、んん、…すき」 ゆっくりと開いた目は、始めからマルコを見つめていた。×××から見える空色の瞳がぼやけて、クリアーになる。伏し目がちの目が微かに見開かれ、瞼が閉じられることで見えなくなる。 「、あァ、知ってる」 彼の口元は緩やかに弓形をなし、もう一度、口を寄せることで、変わることは無かった。 * 一度狂った歯車は、もう一度狂うことで正常な働きを見せる。一回二回、カチリと奏でられた秒針はいつの間にか四進んでいて、今度は一回二回、三、四進んだ四秒は、二針しかカチリと鳴っていない。ただ、それだけのこと。気付くのが遅く、受け入れるまでに過程を要しただけ、ただ、それだけなのです。 男と女と言うものはなんて面倒なのでしょう。 おどけるように尻尾を揺らし、どこかの路地裏、何かに向かってにゃはにゃはと笑う、どこかの猫のお話。 僕たちの終わりについて (話してあげよう) fin. ---呟き さて、奴らは最後に何回キスをしたでしょうか。 <-- --> 戻る |