「ねェ聞いた?」 「うんうん」 見目麗しいナース達の朝は早く、情報も早い。今日も今日とて準備時間に盛り上がる話が覚めやらない。至極楽しそうに顔を突き合わせ、クスクスと笑う彼女ら。 「何が?上陸のこと?」 金糸を揺らしたナース長が、ヒョウ柄のニーハイソックスを託し上げる彼女らの輪に入る。 「アンリエッタ!あなたって意外と抜けてるわよね!」 「何がよォ、聞いてないだけでしょ?どうしたの?」 エドワード・ニューゲートの朝の定期検診を終え、片手間に耳を傾ける。サラサラと羽ペンが舞うように流れる。艶やかな黒髪を緩く後ろに流すナースが、しなやかな白い指を立てた。 「×××のこと!」 ピクリと、アンリエッタの指が一瞬止まり、直ぐに動き出す。サラサラサラ。 「あァ、それで?」 「マルコ隊長と上陸するらしいわよ!」 「…それで?」 インキが切れる。ボトルに漬ける手の動作は何時もより早い。一差し目が、紙に黒い染みを作った。 「もぅっ、アンリエッタ!×××にやらなきゃいけないことがあるでしょう?」 「そうよ、あの堅物のマルコ隊長が直接誘ったって言うのよ?」 サラサラが、カリカリカリと音を変え、早くもインキが無くなっている。アンリエッタの返事にノリが悪いとキャアキャア声を上げる彼女らは、どうにかして興味を引こうとあれこれ暴露した。朝、マルコが食堂に現れたかと思えば、グラスにいっぱいの水を持って、自室に帰ったという。亜麻色の髪が美しいナースは思わず引き止めた。――×××の部屋の前に、マルコが居たからだ。聞けば、はぐらかされ、それからは仕事もあったので、泣く泣くその場を離れた。他のナースが見たのは、それ以降で、船長の食事を貰いに、食堂へ赴いたところで、彼らを見た。前だったらお互い無言でいるのに、とアーモンド型の隻眼が栗色の髪によく似合う彼女は言う。×××ったら頬を紅色に染めて、隊長に微笑んだのよ!その後もわんさかナース達の目撃情報を聞き、アンリエッタはガリッと羽ペンで紙を引っかくと、ペンスタンドにそれを突き刺した。 「…今、彼女は何処かしら」 キラリと光ったトパーズ色の髪を広げ、にっこりと口に笑みを乗せるアンリエッタ。彼女の周りに集まっていたナース達が、ザッと彼女から距離を取るように後ずさった。 「アンリエッタ?」 「目が怖いわ」 「彼女なら、自室じゃないかしら」 「多分服を選んでいるわよ」 「そう、私行かなきゃ!」 それでも、噂好きの彼女らの口が閉じることは無かった。散々ナースが喋り、アンリエッタが医務室から飛び出す。×××と会ったのはその直ぐ後であった。短くなった髪は、潮風に晒されているからか、肩の上で外側に跳ねていた。歩く度、フワフワとそよぐ。クリーム色のブラウス。袖は下に行くほど広がっていて、袖口はキュッと窄まっていた。カーキ色のチノパンに金色の鎖が腰回りに二重に巻かれていた。 「あ、アンリエッタ、」 「×××!ま、その服は?まるで何時も通りじゃない!」 標準的な海賊ルックに、アンリエッタは目をつり上げた。 「?あのね、」 「いらっしゃい!もう、駄目だわ…、私が……――、―…綺麗にしなきゃ」 「え?え?」 口を開こうにも、アンリエッタはそれを許さなかった。つい先ほど出てきた医務室を通り過ぎ、ナース長に与えられた個室まで、さわり心地の良いブラウスの上から細い手首を掴み、アンリエッタのバ怪力によって、×××は連行された。 ぶつぶつと呟いている目の前の美人は、×××の顎に指を掛けた。 「アンリエッタ…、肌に密着性のマスクでもつけてるみたい…」 「動かないで!」 瞼を下ろす×××は、彼女の形相を知らないが、雰囲気で黙った。頭の片隅で、アンリエッタの奇行の原因を考えた。 「服はこれ、早く着ておしまいなさい。着たら直ぐ甲板に出るのよ?」 踝まであるワンピース。歩く度サラサラと揺れるペイズリー柄のそれは、普段ならば着ることないもので、薄い夏用カーディガンも腕に押し付けられる。私は外で待っているから、とアンリエッタはさっさと扉の向こうへ消え、派手すぎず、栄えのあるメイクを施された×××は、それに着替えるほか無かった。素早く着替えた×××は、控え目に扉を開けた。直ぐに向けられる視線が満足そうに緩む。答えるように控え目に口元を緩めた。 「あのね、アンリエッタ…サッチさんがあなたを呼んでたの。私、それを伝えたくて」 やっとゆっくりと喋る×××は、申し訳無さそうに眉をハの字にした。 「え、何かしら」 アンリエッタが、×××の言葉に訝しげな表情を作り、少し思考を巡らせても、心当たりが無かった。×××に行きましょ、と小さく呟いて、外へ足を向ける。×××はナース服の彼女に向かって首を傾げた。彼女はその見事な金髪さえ、上に纏め、引っ詰めていた。 「アンリエッタ?そのままで行くの?」 「何故?」 「…ぅーん、サッチさんはいろいろ考えてると思うけど」 ハッキリと断言出来ることではないので、×××は言葉を濁すように言った。そのニュアンスが彼女に伝わることはなかった。 「?それよりも、×××!あなたの方が大切だわ。早く行きましょう。どうせあの男も甲板にいるでしょ」 「…」 ×××の見違えるような姿に、アンリエッタはハッとして、頭を振って、些細な疑問を追い出した。カツカツと足早に外へ向かうアンリエッタに、×××は一度目を伏せて、彼女の後を追った。 甲板に出ると、目立つ頭が二人、並んで手すりにもたれ掛かっていた。カツカツと足音を立てるアンリエッタに気付いたリーゼントの方、サッチが振り向いた。キラキラと目が輝く。アンリエッタが嫌そうに眉を顰めた。 「ワァーオ!さっすが×××ちゃん!アンがやったんだね!何時にも増して美人さァ。うぅ〜んマルコには勿体無ェ」 「…」 遅れて振り向く長身のマルコは、サッチの戯言を気にもせず、アンリエッタに仕立て上げられた×××を常に眠たそうに細められた目でジィと見つめた。アンリエッタがふふふと密かに笑う。×××は誉められた言葉が恥ずかしくなったのか、有り難うございます、と囁き、赤い顔を隠すように伏せた。 「でもでも、なんでアン!お前何時も通りな訳!?おま、こっちこいって!」 「…アンって言わないで頂戴よ。早く、用事」 「はいはいはい、中に入ろうか!」 「ハァー?一体何だって言うのよ」 「あ?おれの横歩く女が特別な格好してねェだなんてサッチ様は許さないぜ?」 「はぁ!?」 「いいから来いよ」 「――!―!」 「…」 キャンキャンキャン…。サッチが大袈裟に嘆き、キッと強い決意を灯した目で、アンリエッタを見た。グイと引き寄せた彼女の瞳に、真剣なサッチの視線を受けて、彼女は更に反発するように声を上げた。男の力にかなうはずもないアンリエッタは、船室へ引っ張られていく。アンリエッタの声も聞こえなくなったところで、無言で見ていた二人の視線は自然と絡んだ。マルコが器用に片眉を跳ね上げ、首の後ろをさすった。 「あー、×××?それ、アンリエッタがやったのか?」 「あ、はい。なんか、過剰に反応しちゃってですね…そんなことないのに―」 へにゃ、と口を緩め、風で舞う髪を抑える。 「似合ってるよい」 また下に向きそうになった所で、小さくともハッキリと耳に届く声。 「へ、」 ×××がぱっと顔を上げた時にはもうマルコは後ろを向き、歩き出していた。船の腹へ、丁度手摺りが無くなっているところに立つマルコは緩く手の平を×××へ向けた。 「ほら、掴まれ。降りるから」 「は、はい」 海賊の、ゴツゴツと、皮のが厚い手の平に、労働を知らない白い手が重ねられる。マルコの空色の瞳が細くなり、×××の視界は色を変えた。 「ぇっ!あ!」 宙に体が投げ出されたように思ったのは本当に一瞬だった。マルコの手が×××を引っ張り、繋がれていた手は離され、×××の腰に回される。×××が声を上げる前に感じる風。すがりつこうと手を伸ばし、触れたそれへギュッとしがみついた。ブワッと浮遊感。目の前を青い炎が揺らめき、小さな衝撃とともに地面を感じる。遅れてスカートの裾が落ちる。 「大丈夫かい」 「あ、有り難うございます」 ×××がしがみ付いていたのはマルコの首で、フッ小さく笑い、微かに首を下に傾ける彼に、×××は静かに腕を解いた。マルコがゆっくりと腕を腰から離した。 船の上からはやし立てる声が聞こえる。×××が恥ずかしそうに上に向けて手を振った。一層五月蝿くなった気がした。×××が苦笑を漏らす。 マルコの苦笑。煩い彼らに怒った様子は無く、上から投げられたカンカン帽をパシ、と取り、×××の頭にパスと被せた。見上げた×××に笑いかける。 「行くか」 「はい」 船は、入江に止められていて、街に出るのに森の中を通った。既に白ひげの船員が歩いたのか、もう二人が並んで歩いても、問題は無かった。時折差し込む光にマルコは目を細めた。視界の隅に黒がチラリと映る。顔を向ければ、×××はタタタと小走りに森を抜けた。 「すごい…」 ×××としては、自分が住んでいた島ではない場所に上陸するのは初めての事だった。白い石造りの建物が理路整然として並んでいる。屋根は統一された朱色。店ごとに違う収納式の布の屋根。その下に見える商品。人がたくさん行き交う通りは、白い石畳で、×××は気分が自然と高まった。 マルコが緩慢な動きで彼女に近付く。そのまま感嘆の溜め息を付く彼女の肩を自然な動作で掴み、わたわたと歩調を合わせる彼女にフッと笑った。 「はぐれんなよい」 黒い目がマルコを咎めるように細め、しかし、目の前のキラキラとした光景に、×××は口元を緩めただけだった。ええと小さく答える。二人の雰囲気は至極穏やかになっていた。 見るもの全てが新しく見え、×××はマルコがあっちへこっちへと誘う店に嬉々として足を運んだ。そして彼の両腕はかなりの荷物が抱えられていた。しかも殆ど×××の物で、マルコの物といえば、×××が無理矢理にもぎ取った片手に下がっている紙袋に入った白紙のノート一冊のみで、余りの量の差に×××は、初めから積極的にものを欲しがる訳では無かったが、更に気が引けていくのを感じた。マルコは彼女が気に入った素振りを見せようものなら次の瞬間には手にとった。この一冊だって、×××が目聡く彼の手元を見ていてやっと気付いた物なのに。そうこう歩いているうち、マルコが再び声を上げた。 「んー、ここにも入ってみようかねい」 「え!マルコさん、さっきから私のものばかり…!」 「ああ?良いだろい。おれが買ってやりてェんだからよい」 重くも無いし、と続く言葉に、×××は困ったように彼を見上げた。上機嫌であるようだから、別に迷惑だと考えているわけでは無い様だが、×××は彼の行動がとても気になった。 「でも、」 「金の心配はいらねェぞ」 「そうじゃないんですけど…あ!じゃあちょっと休憩しません?」 なかなか伝わらない思いに、×××は目に入った喫茶店を指差した。畳み掛けるように、疲れちゃったと続ければ、マルコは何の疑いもなくそれを受け入れた。後ろから彼を追う×××は、自分の荷物で両手が塞がる様子を複雑な表情で見た。人混みで、斜め前から来た白い繋ぎの男にじろじろと見られ、×××はそそくさと彼の後を追った。ふいに、他人からはどのように見られているのかが気になった。 <-- --> 戻る |