text | ナノ

 ミホークが、戻ってきた頃には、既に夜の部が始まり、×××は愚か、店長さえもゆっくり彼の相手をしていられないほどてんやわんやとお客様の間を行き交い、仕事に従事していた。
 昼間、ずうっと張り込みをしていたテーブルには、先客が居た。ミホークはそれを目に止めると、脇目も降らず、それに近付いていき、相手の許可も取らず、ドカリと席に着いた。そんな彼の動作にも同様を見せない男はフッフッフと特徴のある笑い声を上げた。手前のグラスに赤い酒を注ぎ、揺れて、テーブルが汚れるのも構わず、彼にグラスを差し向けた。賑やかな店内でも一際大きな声が上がる。
「ミホーク!久しぶりじゃねェか!フッフッフ!ほら!おれが注いでやったんだ、飲めよ」
「…相変わらずの大盤振る舞いだな」
 金色の目の上の眉が煩わしそうに寄せられる。グラスを持てば、無理やり酒瓶とガツンと合わせられ、意味もなく楽しそうな笑い声を上げるピンク色のファーがどぎついコートを纏う、サングラスを掛けた金色の短髪の男は、酒瓶の上の方をパキンと、手を横に引くことで簡単に切り取り、直接上から浴びるように流し込んだ。ミホークが鋭い眼光を浴びせても、彼は大きく笑う。
「フッフッフ!…なァんでこんな所に居るかって?それはなァ…。大事な使命を司ってきた筈なんだが、おれが全うすると思うか、鷹」
「しろ」
 溜め息をつく。ミホークには、この男がまともに仕事をするとは思えなかった。人に指示されるのを恐ろしく嫌った。金に執着し、海賊であるにも関わらず、幾つもの会社を、しかも非合法の、経営していた。ミホークの目の前の男が笑う。
「いや!しない!それに忘れたんだ、都合の良いことに、フフッフッフッフ!」
「…」
「詰まらねェ男だ!おゥおゥ!×××!ちょーっと来い!酒を持って来い!極上のだ。先日入荷させた筈のな」
 ×××とピンクの男は、やはりというか、接点はあった。しかし、彼女は、前日問い詰められた男とミホークが居ることに心休まらないのか、チラチラと視線を投げ掛けていただけで、ピンクの男が声を掛けて、初めて近付いてきた。注文をしている間も、ミホークに何度も視線を送るが、当の本人は知らん振りをした。
「ぇっ、ぁ!はい!只今お持ちいたします!」
 ホラ行け、と男が促し、×××が慌てて返事をする。わいわいと騒がしい客等の間をすり抜けていく足取りは、見方を違えれば、フラフラと頼りないもののように見える。
 ミホークが、騒ぐ客等の間を縫って行く×××の後ろ姿を眺めると、男がまた喋り始めた。×××から視線を外す。
「可愛いだろう。先日なァ、ここに来た時よォ、あの初さといい、何も知らねェって言わんばかりの無垢さ、純白さ、ちょこまか動く無力な生き物を見てるとこう、可愛がりたくなっちまう。引き寄せれば頬を染めるぞ。汚したくなるだろ?どうだ?新しい趣向が開けるぜ!フッフッ!」
「…ドフラミンゴ。彼女はおれの連れだ。その薄汚い食手を引っ込めろ」
 饒舌なドフラミンゴと呼ばれた独特な笑い方をする男。×××の後ろ姿を見ていたミホークに下品に話し掛ける。罪の色を知らねェ女だ、と続けようとする彼に、ミホークの金色の瞳がドフラミンゴを睨み付ける。
「ハァァア?鷹!おまえまさか幼女趣味か!こりゃ良いことにを聞いたぜ」
 たまげたと大柄の体を驚きに震わせ、次の瞬間には面白そうに膝をバンバンと叩いた。その最中に、小さな声が入る。鈴を震わすような可憐な音色である。
「お待たせ致しました。あ、あのォ」
「×××!おら、間に座れ、このオッサンがテメェのこと好きとか抜かしやがってるぞ」
 彼の様子に戸惑いながら声を掛ける少女。そのトレーを持つ細腕を掴み、無理矢理間に座らす。バランスを崩した彼女の、酒の瓶が乗ったトレーは、ミホークが取り、テーブルの上に置いた。丸く作られたソファの真ん中、もぞもぞと居住まいを正し、ミホークを見上げる色彩の薄い茶色の目が、彼の金色の目を見上げた。
「えっ?」
「…」
 大きな手の平が彼女の頭を覆う。グイ、と押しやられて、視線を外された×××は確認するように、今度はドフラミンゴを見上げた。への字に曲げられた口元は、ミホークの反応が面白くなかったようだった。チッと舌打ちし、×××が持ってきた酒のコルク栓を弾くように開けて、グラスに注いだ。×××が慌てて手を伸ばすも、パシと弾かれる。そのままミホークの分も注いでやり、ドフラミンゴは一人でその酒を煽った。ケッと喉を鳴らす。
「無言は肯定だったかァ?フフッ!あー、やってらんねェよ。…出る!おれァ帰るぞ!」
 ×××の純真に見上げる視線とかち合ったサングラスは、バッと背けられた。突然機嫌を急降下させた彼に、それでも×××は今にも出て行きそうな彼を押し留め、辛うじて支払いの旨を忠告した。煩わしそうに寄せられる眉の無い眉根は、巡考し、ミホークに向けられた。
「あァ?会計はこの男が払う。おおっと!ミホーク!大事な使命だ、思い出した。一週間後、マリンフォードに会議の収集がかかってるぜェ。フッフッフッ!×××、テメェに会える事が楽しみだなァ?」
「…用事とはそれか」
 以前と機嫌が悪そうに、態と声を踊らせる。ミホークは嫌がらせのように告げられた言葉に無感情に返した。×××は、それよりも、ミホークが訪れる前に散々ドフラミンゴが飲んだ酒をも、彼が払うのだろうか、と心配になった。どうやらドフラミンゴが気分を損ねた原因が自分にあると考えたらしかった。
「フッフッフッ!」
「…あ!有り難うございました!またお越し下さい!」
 もぅ来ねェーよ!こんな薄汚ねェ店!と遠くから叫ぶ声、あの独特な笑い声が夜空に響き、フェードアウトするように、騒がしいファンキーなピンク色の男は消えた。
 ミホークを前に、何と反応していいか分からないドフラミンゴの言葉に、×××はただ困ったように眉をハの字にした。座っているこの現状もどうにかしたかった。夜の店はそれは繁盛するのだった。呼ばれた濁声に、×××は反応するしか無かった。
「あ、あのォ、私、行きますね?」
「…店仕舞いが完了次第おれの所へ来い」
 それは、彼なりの一緒に帰ろうとの誘いの言葉だった。×××からしてみれば、自分の苛め事に呼び出された生徒の気分になった。はい、と蚊の鳴く様な返事しか返せなかった。
 思っていたよりも、残業も無くキッチリ終わった仕事に、×××は気分が浮上すると共に、裏口の先、塀に肩を預け、腕を組む黒尽くめの男に、ドキリと心臓が縮んだ。
「ミホークさん…、只、今戻りました」
「…」
 ユラリと塀から背を離し、腕を解く様子に、×××は再びドキリと緊張を高めたが、そんな彼女を知ってか、その栗色の柔らかい髪をくしゃりと一撫でするだけで、特に表情の変化も無く歩き出した。
 宿へ着き、遅い夕食が始まってからも、無言を貫いたミホークに、×××は若干慣れを感じていた。思えば、饒舌になる方が珍しいミホークなのだ、機嫌が良くとも悪くとも、寡黙な彼が普通であるので、×××は平常心を取り戻しつつ、彼の晩酌の用意をし始めた。
 結局、ミホークが口を開いたのは、酔いも回り始める頃で、×××がいつものように、もうそろそろやめた方が良い、と忠告し始める時間だった。
「三日後、此処を出る」
 彼が言ったのはその一言だけだった。×××の酌をする手が止まる。ミホークに取り上げられる。別に、もう注がない訳では無いのに、とぼんやりとそれを見送って、×××はミホークの瞳を見つめた。
「は、…あ、はい」
「明日は休みを取れ。主の用意もしなきゃならん」
「へ?何の用意ですか?」
 小さく返した返事に言葉を被せられ、×××は目を瞬かせる。ミホークが無表情で小首を傾げた。×××もそれに倣(なら)う。
「航海用のだ、海に落ちられては叶わんからな」
「え?…あのゥ、私、とてもじゃないけれど海に出るのは無理かなァ?」
 ミホークの言葉に、控え目に主張する。彼の言葉の真意が解らなかった。ただ、×××は、そこまで彼に面倒を見て貰うのは申し訳なかったし、彼が出航する目的はきっと仕事上であるので、自分が居ては邪魔だろうと漠然と思った。
「何故だ」
「えっ、だってミホークさんの迷惑になっちゃいますよ!私、確かに身元不詳ですけどっ、でも店長さんとか、とても良くしてくれますし!そこまで心配して下さらなくても、大丈夫です!私のことはお構いなく!」
 言葉を重ねる事に、彼の目が剣呑な光を帯びていく。
「…」
「あ、ちゃんとお金も…お返しします、よ?」
「…」
 おどおどと発した後、ミホークは暫し無言になり、ハァと溜め息をついた。分かったとも言わないままに、話は終息し、×××はまだ理解しえない内に、彼にベッドに引きずり込まれ、就寝した。
 その日、×××は家族の夢を見た。朝、起きれない彼女を起こす優しい母。毎日可愛らしく彩ったお弁当を作ってくれる主夫な父。唯一無二の可愛い弟。最近×××の背を抜かしたものの、男子の間ではまだまだ背が低いのを気にしてたなァ、と思い、ギュゥと抱き締めてくる彼の、自分と良く似た髪質のフワフワのそれを撫でてやる。ふと、気がついて目覚めれば、布団の中で、何時も、×××を抱き込んでいたあの逞しい腕も、金色に輝く瞳も無くて、×××は急に心臓に冷たい風が吹き付けられたような気がした。小さな手で皺の寄ったシーツを撫でて見る。冷たくて、後悔した。
 その日の仕事は散々だった。フォローに回ってくれる客の心遣いさえ、×××には針のむしろのように感じ、見かねたのか、店長が早めに×××を仕事から上がらせた。
「あの!今日はスミマセン…。明日までにはちゃんとして来ます!…それで、本当に厚かましいんですけど、どこか、安く借りれる部屋なんか知りませんか…?ミホークさん、もう島から出るみたいで…」
「気にはしていないんだけども、君は毎日良くやってくれているからね…。しかしそうか、…じゃァ、僕の家に屋根裏部屋があるよ。暫く使ってないから汚れてるかもしれないけどね。どうだい?家賃は給料から天引きで、てこの位は」
 ガバッと、90度腰を曲げて、昼休み中でカウンター席に座る店長に謝る。顔を上げて、と柔らかな声に、そろそろと体制を直し、ハの字になったままの眉もそのままに、申し訳無さそうに喋る。
 店長の彼女を気遣う様子と口調から、×××は顔が熱くなった。ズッと一度鼻を啜る。
「あ!いいん、ですか?本当に何から何までスミマセン!有り難う御座います!」
「まだ若いのに大変なんだ。これ位どってことないさ!さァもうお帰り、ゆっくり休むと良い。精神的に辛いだろう?彼が居なくなるのは。…ついて行かなくて良いのかい?」
 最後に店長が言った言葉を、×××は何度も頭の中で考えた。昼間、宿に戻っても、誰も居ない。日当たりばかりが良く、×××は怠惰に身を任せ、ベッドに寝転んだ。小さな体躯では有り余るほど大きなベッドだった。
 急にホームシックになったようだ。一人で居ると、その孤独が強く感じられ、数えてもう家族と離れて一週間も経っていることが分かった。×××の身に纏う服も、彼女の存在する空間も、全て違う。
 なんで、今まで普通に過ごして居られたのだろう、とぼんやりと考え、ポロリと零れた涙がシーツに吸い込まれた。
 今度はミホークさんも居なくなってしまうのに。
 深い、意識の深淵に沈みかけながら、小さな少女は思った。

帰る場所を見失った子猫。

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