text | ナノ

 ×××は朝夕の苦行に翻弄されていた。初日から、×××の預かり知らぬ所で行われ、朝起きれば、もれなくミホークに抱かれて眠り、それが知れると、遠慮を無くしたミホークは夜、決まったように静かな晩酌を過ごし、×××に相手をさせ、彼女の意見などものともせず、否応なしにベッドに引きずり込んだ。
 だから、×××は最初は海の潮の匂いで気が付かなかったが、彼が、何かは分からないが、オーデトワレの香水をつけていることが分かってしまった。自覚した時は、その直後に、気付くほど近くに居たことと、もしかしたら同じ様に自分も思われているのかと、静かに悶絶した。それを思い出させたのも彼で×××は何故こんな状況になっているのか、全くといって理解出来なかった。
 それは店から、宿への帰り道の会話。
「×××、主、その男と随分親しくしているようだな?」
「え?」
「匂いがキツいぞ」
 突然のその言葉に、金色の目を見つめた彼女は、パッと赤面した。つい最近、彼女が一人で悶えた内容である事と結び付いた。
 ミホークの金目が、微かに歪む。少し早足になった彼は、後ろからパタパタと付いてくる彼女が、宿の扉を閉め、彼を見上げた。常に×××の歩みに合わせてゆっくり歩いてくれる彼は居なかった。
「ハァ、ミホークさん?」
「誰だ?」
 ×××が息を整えながら、見上げると、やはりあまり言い顔をしない彼が、×××に被せるように、威圧的な声を出した。
「え?」
「その男は?何をされた?名前は?容姿は?何故拒絶しない?」
「え、え?ちょっとま、きゃっ」
「×××、答えろ」
 ベッドに投げ捨てられ、わたわたと慌てながら身を起こそうとした所で、ギシリとマットレスを軋ませて、ミホークは、×××のほっそりとした手首を柔らかいそこに縫い付けた。限界まで瞠目した×××は、目の前で睨みつける金色を見つめた。
 少しの回想を挟み現実逃避した×××はもう一度、どうしてこんな事になったのだろうと脳内で呟く。×××の頭の中は疑問符だらけで、ただ、ミホークが今まで以上に分かりやすく憤っているのが唯一推測出来ることで、×××は時折、手首に力を込めて、拘束から逃げようと身動ぎした。直ぐに手首を一つに纏められ、片手で抑えられると、×××の声は、若干の恐怖に震えた。
「お客様ですよっ。でも一杯いたし…」
「インカントプールオム、オーデトワレ。魅惑する者、躍動感のあるフレッシュさ、心揺さぶる官能性が完璧なまでのコントラストをなす魅惑的な香。と言われているが、おれから言わせてみれば、派手で下品で汚らしい臭いだ」
 狼狽した×××が口を噤むと、ミホークはまた、何時もとは考えられないほど饒舌に、そしてカツカツと矢継ぎ早に喋り出す。
「…それ、香水ですか?」
「男から匂ったろう。残り香がプンプンするぞ」
 ミホークの、嫌そうな顔は無視して、×××は様々な匂いで溢れる店内を思い出した。その中で、自分にベタベタとくっ付いて、香水の匂いが、残り香が香るほど、強烈だった人物に、一人だけ、強烈な印象を残した人物が浮かび上がった。
「あの、お名前は知りませんが、あの!何しているんですかっ?きゃ、ぁ、」
「言え」
 すっ、と違和感なく×××の首元に鼻を滑り込ませる、ミホーク。低い声が×××の耳元にダイレクトに伝わり、息遣いまで彼女に知れる。そのまま、片手で、彼女の体を滑るように動き、×××の体が戦慄いた。
「え!ふ、あのお名前は知りま、せん、し、ぃたっ、でもピンクが…、ふ、ふわふわの、あぅ」
 ミホークは、×××の首元を擽るように撫でながら、第三ボタンまで開け、胸元の形が分かるようにはだけさせつつ、丁度首の少し張った筋を甘噛みした。そして×××が声を上げるまでしつこく唇を寄せ、最後にベロリと舌で、わざと色を含むようにして舐め上げた。
「、フラミンゴ」
 丸で独り言のように零される言葉。ゾワゾワと背中に広がっていた何とも言えない感覚がなりを潜め、×××はピクリと痙攣し、いつの間にか閉じていた瞼を持ち上げた。
「そう!あのフラミンゴっぽい感じです。サングラスも掛けてました。でも特に何か…あ、でも隣に座らされましたけど…お客様にお断りは出来ませんから」
「…」
 途中、鷹の目が鋭い視線を向けられ、×××の語調は多少萎えたが、それでも申し訳無さそうに最後は顔を背けた。現れた首筋に唇を掠め、再び身を硬くした×××の腕を解放し、徐に上体を起こされる。変わるようにベッドに沈む彼を×××は上から見下ろした。
「あの?ミホークさん?」
「風呂へ行け。おれは寝る」
 不思議そうに傾げた×××をチラリとも見ず、何時もの調子に戻ったミホークはゆったりと言葉を紡ぎ、サイドテーブルに置かれていた帽子を自分の顔を遮るように乗せた。
「はぁ…、そうですか。では、上着は脱いで下さいね?」
「…」
 ×××が、溜息ではない気の抜けた返事と、やんわりとした忠告を送ったが、ミホークが応答することは無かった。こういうのは日常であり、ここ数日で×××は学んでいた為、特に気にすることなく、バスルームに足を向けた。
 シャワーから出てきた×××が部屋に充満する芳醇なムスクの香りに包まれ、彼の胸で酔いそうになるのはもう確定事項であった。

 次の日、×××が身動ぎすると、腕の拘束がキツくなる気がした。ここまでは、殆ど日常で、×××はそれを苦労を呈して抜け出すだけなのだが、本日は違った。ツツ、と背中を辿る無骨な指先。ピクリと動揺したものの、息を詰める。ハァと彼の寝息が、昨夜、ミホークが噛み付いた所に掛かる。
「ん、と」
 ×××が抵抗すれば、更に抜け出せなくなるようで、節々がゴツゴツとした男らしい手の平は、彼女の体を弄り、カイゼル髭が鎖骨を擽って、首筋に唇を寄せられる。いつの間にか押し倒されている体制に、×××はついに声を上げた。
「あ、はっ、ミホークさん!私です!×××です!きゃぅっ」
 キュッと吸い上げた首元には、赤い鬱血痕が残り、ミホークは目を細めた。そして密着させていた上体を起こし、少し乱れた髪を後ろに流す。
「…知っている」
「分かって無いですう!もう!寝ぼけないで下さい!」
「…」
 溜め息混じりに、吐かれる言葉は色香が漂うが、×××は身動ぎをし、きゃいきゃいとミホークに文句を垂れるのみで、思わず手首の拘束が緩んだ。パッと振り払う×××は、もぞもぞと起き出す。
「おはようございます!さ、どいて下さいっ」
「ハァ」
「わっ!ぃっ」
 突然腕を引っ張られ、彼の逞しい胸元に顔から突っ込む。ベシャッと効果音でも付きそうなその出来事に、×××は顔を上げ、彼を睨み付けた。潰れた手を、肩に掛け、ぐいと距離を取る。
「な、何するんですかー!」
 非難がましい声をまるっと無視したミホークは、パッと彼女の腕を解放し、立ち上がる。
「今日はおれも店に行こう」
「ハァ!?どうして」
「飯だ早くしろ」
「ちょっと!」
「朝から喚くな」
「…うぅぅ〜」
 何時もなら暫く寝腐れてるのに!と声を大にして言いたい彼女は、それよりも先に釘を打たれ、結局、さっさと部屋を出て行く彼の後を付いて行くしか無かった。
 隣を歩く、強面のオジサマを、×××は何度もチラ見した。それは、店の裏口に立っても変わらなかった。じい、と隠そうともしない視線を受けて、ミホークはやっと眼下に佇む小さな彼女に目を映した。
「本当に、行くんですか?」
「ああ」
「…」
「早く開けないか」
 困ったような、感情を瞳に湛え、彼の眉間に寄ったシワを認めて、諦めたように小さくうなだれた。なんだか、授業参観を欠かさない母のように、その声は頑なだった。
「はい」
 開け放した扉の向こうに居た店長と目があった×××はぺこりと頭を下げて、おはようございますと挨拶をした。
「おはよう×××ちゃん!今日も…、あれ」
 彼女の後ろに佇む黒い大きな男。カイゼル髭がピクリと戦慄き、唐突に開く口から吐き出されるのは、挨拶などでは無かった。
「ここの店で酒癖が悪い客が居るだろう。視察させてもらおうか」
「そ、そんなこと無いですよ!それに七武海のお方がっ」
 彼の容姿をハッキリと目に留めた店長は、顔を青くして、×××と彼の間を視線が何度も行き交った。
「彼女の仕事の様子を見に来た。これなら構わないか?」
「えぇぇ」
 恐怖ではなく、驚きにうろたえ始めた店長を前にして、×××は言いようもない羞恥に襲われた。彼は過保護なのだろうか、能面のように、余り変化する事が無いミホークの顔を仰ぎ見て、彼女は頬を紅色に染めた。
「ミホークさん!もう、恥ずかしい事しないで下さいよ〜」
「仕方あるまい。主に言っても否定されるが仕舞なのだからな」
「う、―って!当たり前です!普通有り得ませんて」
 どうにかして彼を帰したい×××はキロリと可愛らしくにらみ上げるが、ミホークはピクリと片眉を上げ、小さく首を動かしたのみで、どうやらここに居座ることは決定事項のように扱われた。そこにそろそろと滑り込むもう一人。若干空気めいた店長だった。
「あ、あのね、×××ちゃん。そろそろ表の方に出て貰っても良いかな。ジュラキュール様の方は、…×××ちゃんは表で仕事しますので、表の方から入って頂けませんか?テーブル席に座って頂いて構いませんし、後でお紅茶をお持ちいたしますね!」
「す、済みません!今すぐ出ます!」
「―よかろう」
 わっとあわて始め、店長の直ぐ脇を通り過ぎた×××は、開店準備に少しの騒音と共に忙しく働き出した。店長が苦笑を漏らすと、ミホークは彫刻のようだった顔が動きを見せ、低く了承すると、暑苦しいコートを翻し、裏口から出て行った。安心したような溜め息が、彼の背を押した。
 営業は、通常通りのように見えた。ランチタイムも、ささやかながら繁盛していた。
「あっ、ゴメンナサイッ」
「大丈夫さ、×××ちゃん。こういう時もある」
「今すぐ拭く物を持ってきます!」
 ただ、彼女の心情は上手く立ち回らないようで、持ってきたお冷やを置く際に手元を狂わせて、それが客である人の良さそうな男の膝に掛かってしまったのだ。そそっかしい彼女の仕草にほのぼのと目元を緩める壮年の男だけなら良かったが、彼を背後から鋭い視線で射抜く男が一人。彼女の視線とかち合う一拍前には、目の前のティカップを持ち上げていた。
 パタパタと走り寄る彼女は、彼の膝と椅子の足を拭いている。しゃがみ込んだ彼女を見下ろす男は、彼女を気に病ませないよう絶え間なく話しかけていた。最後に彼を見上げた彼女はもう一度謝罪の意を表して立ち上がり、再びカウンターの奥へ引っ込むと、新しいお冷やを取ってきた。
「先程はすみませんでした」
「いやいや、良いんだ。一生懸命な×××は可愛らしいからね」
「はわ、もう、ご冗談をっ。…ご注文はお決まりでしょうか?」
「×××ちゃんの笑顔かな」
「え、ぇえ〜。も〜やめて下さい」
「はは、じゃこれで」
 恥ずかしそうに顔を赤らめ、へにゃと笑いながら自然と顔が下に落ちていく。それでも笑顔は失われなかった。双方が笑顔で注文を終え、×××はカウンターの奥へ戻り、男は満足顔で背もたれに深く落ち着いた。
 これは、昼の遅い時間で、客足が途絶え、15時〜17時の昼休みに入ると、最後まで居座ったミホークがのそりと動きを見せた。カウンター席に移動し、彼女は、奥から出てくると、目の前に金色の瞳を認めて、小さく声を上げた。
「あ、ミホークさん」
「何時もか」
「はい?あの、」
「主は、何時もそうやって」
「あの、私は従業員ですし、ミホークさんが思っているような事は多分?無いと思いますけど…」
 ミホークさん、と呼ぶ×××は彼の問い詰めるような視線に、困ったように返した。彼が何を考えているかが分からなかった。ただミホークは満足し、頷いた。
「そうか。ではまた二時間後に相まみえよう」
 にこりとも表情を崩さないミホークの心情を読み取るには、雰囲気でしか推し量れない。×××は彼の代わりにニコリと笑って、去っていく背中を見送った。

子猫、束の間の休息を得る。
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