text | ナノ

 約、三週間振りの晴天が訪れた。嵐の中の航海中、ボロボロになった大型帆船が、目に届く範囲で、沈んでいく様子を目の当たりにして、ゾッと背筋を粟立たせながら、十字を切ったこともあった。手紙を届けるよう手配してくれたマルコにお礼を言うこともないまま、あれ以来、まともに話す事が無くなってしまった。隊長達は、比較的に気を使ってくれているし、隊員にもとても気さくに接して貰っている。だが、一部が、彼女が船に乗っていることに段々不満要素が表に出てきている所もあるようだ。
 ×××はガラス室に行くことを控え、本来、自分が従事するべき事に熱心に取り組んだ。洗濯板を扱うことにも慣れはじめ、それらに関わる新人達とは、快い友好関係のようなものも芽生えていた。
 ×××は今、甲板にいた。順調な航海中は、特に仕事もなく、それぞれが自由なことをして過ごす。×××は船縁で、釣りをするサッチの傍らに腰掛け、海を眺めていた。後ろの方で、賭事が賑やかに行われている。親はイゾウらしい。×××が彼に釣りをしたいと言ったところ、危ないと断られたのが、もう一時間前の出来事であった。
「×××ちゃ〜ん。暇なのは分かるがサッチさん、見られてると緊張しちゃう」
「大丈夫です。私が見ているのは海ですよ」
 にこりと笑って、釣り糸の先を見つめる。サッチはあからさまに仰け反って、浮きが海の波間に波紋を作った。直ぐに消えた。
「きゃんっ!辛辣!っと、おお!ちょ、ちょっと離れておいてね!!」
「っ」
 その浮きが、グッと沈み、直後に巨大な魚影が見えた。×××は手摺りから素早く移動し、サッチのリーゼントを後ろから伺った。
「うぉりゃっと!」
 盛大な水しぶきを甲板に撒き散らし、上がった魚は、彼女の見たこともないようなフォルムをしていた。
「ワァオ!こいつァ凄ェ!×××ちゃん、おれ一寸捌いてくるな!」
 サッチは大声で海王類が釣れたとハシャぎ、その巨体を軽々と持ち上げた。るんるんと実際鼻歌まで歌いながら、軽やかに食堂に潜っていく様子に、×××は少しの飛沫を受けた服を見下ろし、薄く笑った。
 気が付けば、周りは騒然としていた。何時までも収まらない歓声かと、×××は野太い雄叫びに、何事かと振り向こうとした。
「おい×××!てめェ何やってんだ!?敵船だ!襲撃に遭ってるんだ!早く船室に戻れ!」
「え!」
「走れ!」
 ガッ、と腕を痛いくらいに握られ、怒鳴られる。イゾウが率いる隊員で、何時もしているバンダナの端に、血痕が見えた。×××が驚きに声を上げ、漸く、周りの状況が見えてきた。至る所で、乱闘が起き、巨大なモビー・ディック号に張り付くように横付けされたまた巨大な帆船は、帆がボロボロに引き裂かれていた。まるで嵐の中に刃物でも飛んでいたかのような荒れっぷりだった。
 ×××が彼に背中をドンと押され、よろけるように、前につんのめりつつ、走る体制を整える。モビーの船員達の、何時もとは思えない荒々しい声に、×××は体を震わせた。一番近くにあった食堂に飛び込む。海王類を捌くと意気込んでいたサッチは、居なかった。×××は、きっと彼もこの緊急時に、隊員を従え、戦闘の中に居るのだろうと思った。
 食堂からは、甲板か、浴場しか通じておらず、×××は、食堂の奥、調理場も通り過ぎようとする。ガツンバキンと時折甲板の様子が聞こえる度、ピクリと怯んだ。自分は戦闘など、微塵も関係のないただの一般人なのだと、強く思った。何時も良くしてくれている彼らも、今や外で、彼女の知る由もない表情をしながら、血飛沫を浴びながら武器を振るっていると思うと、×××は再びブルリと身を震わせた。
 そろそろと、無駄に足音を消しつつ、×××は食堂から繋がる食糧庫に潜むことにした。白ひげ海賊団は、約1600人にも及ぶ大海賊団で、主船である白鯨の船首を持つモビー・ディック号にも、大凡400人は乗船している。つまり、食糧庫と言っても、並大抵のものではなく、大部屋程の大きさを誇るのだ。日持ちの良いものが山のように積まれているそこなら、×××でも簡単に隠れられるだろう。麻袋がパンパンになって、更に積み上げられている影に息を潜める彼女は、騒ぎが近付いてくるように感じ、冷や汗が背中の溝を伝うのに飛び上がった。
「(ひえっ、…まだ、終わらないのかな。みんな、大丈夫かなァ…)」
 ガタガタと引き戸が音を立てる。×××はびくっと体を震わせ、壁に背中を打ちつけた。
 バァン!×××が立てた音と、扉が開く音が重なる。同時に聞こえる姦(かしま)しい二人の男の声。
「お!流石と言ったところか!」
「ヒュー!お宝じゃねェけど、今のおれたちにとっちゃ最高のお宝だな!」
「ちょこっと位頂いたって大丈夫だろ。この船、温室もあるみてェだ。そっちにも後で寄ってかねェと…」
「ッ!」
「あン?何か居んのかァ?」
「いねェよ。取り敢えず長居は無用だ。おれたちの勝利は全滅じゃァねェんだからな」
 ×××が、男の言葉で、咄嗟に飛び出そうとして、思い止まった。カサリと麻布が服に擦れる。ガサガサと遠慮なく動き回る彼らは、気付くまでには至らずに終わった。
 ×××の脳内を駆け巡るのは、育てている火麻だ。ガラス室に行くのを控えていたとはいえ、キッチリと手入れを絶やすことは無かった。小さな実を付け始めている今、彼らがそれを見れば、わざわざ放っておくことは無いだろうと思った。
「(エドワードさんの…)」
「おやっ!これはこれは」
「何やってんだ?」
「可愛らしいお嬢さんじゃァないですか」
「ぁっ、」
 スゥと明るくなった視界が何かの影に隠される。×××の丸く開かれた瞳に、ニヤリと笑う歯が映る。一本かけた、歯垢が目立つ汚い歯だった。後ろで構える男は麻袋を抱えていた。×××の壁になっていたモノだった。
「おい、気持ち悪ィ喋りしてんな」
「分かってねェなァ。おびえる様子が楽しいんだろ」
「このドエスめ。早くしろ」
 おれたちの目的はそれじゃないと言う一人は、面倒そうに腰のサーベルを抜く。シャラリと聞こえる音が、現実をハッキリと自覚させ、×××は目の前の男が、抜いた刀身に視線を一瞬ずらしたのを目聡く捉えた。パッと脇を抜ける。
「っ!」
「あ!おい!こら待て!」
「い゛っ!あ!離して!」
 上手く抜けたと思った×××の体がガクンと止まる。痛々しい悲鳴。鷲掴みにされた髪の毛が張って、痛みに足が止まる。尚も引っ張られ、首に巻き付く筋骨隆々の腕。サーベルを持つ彼は、麻袋を下に下ろしていた。
「あ゛?」
「ぃ、嫌ァ!」
 ギラリと光るサーベルが彼女に迫る。重労働を知らない×××の細指を浅黒い指に掛けてもびくともしない。迫る白銀に声を上げて、彼女は、ガブリと目の前の拘束する腕に噛みついた。×××に向かって気持ち悪い口調で喋り掛けていた男は、特に手出しをすることなく、引き笑いが漏れている。
「いってェ!クソあまァ!」
「ああ!っ!…っ!」
 緩んだ腕を振り払い、甲板に向かって、扉に突っ込んでいく。怒声を張り上げる男が×××の髪を再び掴むと、今度は勢いをつけて引き寄せ、直後、ダン!と刃を突き刺した。床に転がった×××は板張りの床に爪を立て、立ち上がった。はらりと落ちた髪が彼女の顔を覆った。
「誰かっ!」
 バタンッ!と体から倒れ込むように開けた扉。甲板での戦いは既に勝敗が見えていて、遠くに赤々と燃え盛る炎が見える。×××の声に反応して振り返った男は、目を見開いた。相手にしていた敵を向こうに蹴り飛ばし、駆け寄る。開いた扉の向こうにサーベルの切っ先が覗いた。
「×××!」
「っ!」
 ×××の体を包み込んだ暖かい体に、鈍い衝撃が伝わる。バキリ、と折れた音。バタリ、×××の頬に落ちる生温い液体。マルコと誰か、叫んだ気がした。
 ズルリと滑り落ちた体は、×××がかつて広いと思った背中で、彼女を押し潰さんかのように掛けられる体重は、重かった。背中に回した手を粘性のある何かが纏わりつく。
「マルコ、さん?マルコ!?ねェッ!死んじゃ嫌!やだ!ごめんなさい!死なないで!ねェ嫌よ!マルコォ!!ごめんなさいっ、ぃっ、うっうぅ」
 ビクリ、と痙攣する指先をギュウと握る。彼女の叫びを聞いて、周りに船員が集まってくる。とても大柄なジョズは、肩を怒らせて近付いてくる。×××にはそんなジョズが見えない。肩に鼻を埋めるようにすがりつき、マルコのシャツの色を濃く、染め直した。ジョズが×××の肩を叩き、マルコを離せと若干焦りが滲む声。彼女視線が彼から離れると、その横顔を青い炎が舐めた。
「マルコ!?ねェヤダ…ッ!まだ言ってない事とかあるのに!何で燃えてるの!?消えてよ!!」
「い、痛ェ、いてェ。叩くな、やめろい」
 青い炎が上がる傷口をバシバシと叩く。赤い手が、青に埋もれて、綺麗な紫色に染まる。
「…ま、るこ?」
「勝手に殺すなよい」
「なに、そ、れ?」
「おれは不死鳥だぞい。死なねェし死ねねェ。不崩の盾でいるのが、おれだからない」
 大丈夫かい?と先の今まで瀕死のように力が抜けきった彼は何処にもおらず、さしのべる手は血の通っている色で、力強かった。状況を把握出来ていない×××は引っ張られるようにして立ち上がり、よろけた足元は、マルコに修正された。
「マルコさん?」
「家族を、守るためさねい」
「…」
 ぐるりと辺りを見回し、最後に×××の顔に視線を合わせた。涙を拭う×××の頬に、大きな手を添えた。頬に落ちた自分の血液を親指で拭う。中途半端に乾いたそれは伸びただけだった。
「すまねェ。血だらけにしちまって。それに、泣かせた」
「…ごめんなさい。それに私、」
「良い、良い。おめェさんは何にも知らねェ一般人なんだ。謝ることなんざ何一つねェ」
 そのマルコの言葉に、小さなざわめき。×××が顔を不快感で歪めた。
「海賊よ」
「…」
「船に乗っているもの。普通の一般人じゃない」
 宣言するように、声を張り上げる。高らかな声が天を貫いた。マルコの空色の瞳を睨み付け、もう一度言った。だが、その宣言を伝えたい相手は、マルコの他に別にいた。
 二人を囲む人混みを、かき分けて進んできたサッチは、二人を包む、そこだけ違う雰囲気に、刮目し、小さく呟いた。
「…髪が」
「そう、切らなきゃ。血も、――落としてくる」
 周りを牽制するように視線を鋭くしていた×××は、サッチの言葉で困ったように薄く笑った。手の平で固まった血が似合わない表情で、肩ほどまでに短くなった髪をくしゃりと握る。船室に戻ろうと、マルコから目を背け、背中を見せた所で、やっと口から言葉が出た。
「いいのか?」
「何が?」
「おめェさんは、―海賊で」
「良い。何時までもあやふやになんか、していられないから」
 顔だけ、彼の方に向ける。短い言葉は絶対そうだ、と覆されることのない決意が伺えた。
「…」
「私は、私のせいであなたに謂われのない疑いを掛けられるのは嫌。そこのあなた、あなたですよね?文句があるなら私に言えばいい。家族である彼を傷つける言動は本来ならあるまじきことでしょ」

「…あれはっ」
「私がいけない?彼が、前と変わったのは?…前のマルコさんはどんな人か分かりませんけど、家族なら今の彼を受け入れるべきだし、私が気に入らないなら、そう直接言ってくれて構いませんから」
 ギリリ、と歯を食いしばる半魚人は、悔しそうに顔を歪めて、シャツを血染めにしたマルコに向かって頭を下げた。
「マルコ隊長!すみませんでした!おれたち、心配だったんです!隊長が、マルコが、一般人の女にうつつ抜かしておれらを蔑ろにしてんじゃねェかとっ…!」
「そんな事、考えてやがったのか…」
「マルコ隊長〜、すみません〜」
 三人の半魚人が、マルコを囲って、頭を下げる。むせかえるような鉄の匂い。返り血か、出血か区別の付かない三人は、最前線で戦う特攻隊であることを如実に示した。
「おれは、おめェらにとって恥ずかし兄か?おれは、おめェらを裏切るような事はしねェよい」
「そっ!」
 ゆっくりと喋る彼の、微かに下げられた、何時も弓形になっている眉。カッ、と目を見開いた三人は反射的に否定の言葉を吐こうとした。そこに、周りに群がる彼らの輪を掻き分けて、何時の間にか背後に来ていたこの船の白い船長が大きく笑った。
「グラララ!てめェら!いっちょ前に家族してんじゃねェか!おい、馬鹿息子ども!血ィ流してこい。×××もだ!」
 その声は、血染めの彼らに向けられているとは思えないほど、柔らかで、慈しむようだった。包み込むような視線で一人一人に目を合わせたニューゲートは、カチンと固まった一同に大音声でさっさとしろ、と促すのだった。
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