text | ナノ

 翌日から課せられた洗濯は、×××が思っている以上に大変で有ることが、一日目にして分かった。特に文明の利器が発達しているわけでもないようなのだ。そう言えば、この船は帆船だったなあ、と帆で影になった手元を見ながら、洗濯板で、随分と使い古された肌着をゴシゴシと洗う。まだまだ終わらなさそうである。傍らに未洗濯の服がそれこそ山のようにあるのを感じて、×××は意識を目の前の服に集中させた。
 しかし、そんな集中も上手く続かなかった。キッカケは、頬を打つ一粒の雨。ハッ、と空に顔を向けると、帆では無く作られた影。そして額に痛い大粒の雨。×××は洗ってしまって、重たくなった洗濯物籠をよいしょ、と持ち上げ、船室に向かおうとする。
「!」
 だが、突然現れた腕にそれを取られ、×××は前につんのめりながら、体制を立て直す。
「お?悪いな!これ、持ってくんだろ?おれやっとくから、×××はまだ洗ってない服持って来いよ」
「え、」
「おいおい、早くしねェと。グランドラインの天気は変わりやすいんだぞ?」
「は、はいっ」
 大きな洗濯籠を小脇に抱えて、突然現れた――エースは、スキップでもしそうな程軽やかに船室への扉を潜っていく。擦れ違うように甲板へ繰り出す強面の海賊たち、慌てている様子を見ると、どうやら×××ものんびりしては居られないようだ。
 手早く後始末をし、×××がバタン、と扉を閉めると、ワアワアと騒がしい外が少し静かになった。
 地下にある洗濯場まで行く。ギシギシと何時もより板の軋みが激しいように思えた。壁に手を付きながら薄暗い所でランプを探す。手をさ迷わせた彼女の手の先、ポ、と火の玉が浮かぶ。
「っきゃああ!」
「うぇ!?あ!、ぶね!」
 驚きに、後ずさると、背後の階段に足を引っ掛ける。あ、と思った時には既に遅く後ろに倒れかけた。それをエースが声を上げながらも、その素早い動きで、彼女の細腰を引き寄せた。しかと自分を抱き留めるエースに、×××は羞恥で頬を赤らめた。露にしている上半身、常人よりも火照っているように感じるのは、頬が熱いからか、×××は胸元から顔を離し、慌てたように周囲に目を配った。
「ああぁ!エースさん!今、今!火が」
「大丈夫か?×××」
 何も無いところを見て、指を指す。
「火の玉が…!」
「ああ、あれ、おれの」
「…へ?」
 しかし、怯えと興奮に声を上げる×××とは打って変わって冷静なエースに、彼女は正気を取り戻すと、少し怪訝そうに彼を見上げた。クスクスと笑うエースは帽子を片手で整えた。×××を安定した床に降ろしつつ、呆然とした×××ににっかりと笑う。
「ホラ、明かりが欲しいんだろ、て思って」
「エースさんって…」
「メラメラの実の能力者。炎人間って訳」「エース…」
「ん?」
 再びポウ、と指先に火を灯す彼に、×××は思考の海に沈み込み、ポロリと口から小さな言葉が零れる。俯いた彼女にエースは片眉を上げ、次を促したが、パッと顔を上げる彼女の表情には意識がハッキリと宿り、先程のぼんやりとした空気は霧散した。
「あ、ごめんなさい。ありがとうございます!…あの、洗濯物、運んでくれてありがとうございます。じゃあ、私残りをやっちゃいますねっ」
 寧ろ、段々と恥ずかしさを覚えたのか、自然と早口になり、床に置いていた洗濯籠を取り上げる。彼の脇を抜けて、今にも扉の向こうに消えていきそうな彼女の背を目に留めたエースは、トト、と彼女の後ろを追い駆けた。
「…あ、おれもやる」
「え、」
「やることねェ…、あ、いややることねェんだ!」
「今、」
 今度はエースが、思考についていかない言葉が飛び出し、×××は、あやふやな口調に、不思議そうに首を傾げた。
「いいから!一人だと大変だろ?特に新人は洗濯をいーっつもやらされるんだ。おれも散々やったぜ?」
 そういって、洗濯室にあっと言う間に入っていき、もう一つ洗濯板を出すと、×××が止める間も与えずに忙しく手を動かした。×××は一瞬瞠目して、静かにしゃがみ込み、同じように汚れた衣服を手に取りながら、小さくありがとうと返し、手を動かした。暗い、室内に仄かな赤が灯る。帽子の下で、影になった黒目が、目の前の女性をチラリと見た。
 口端が綺麗につり上がる。漏れる笑い声は明るい。
「助け合いだ。だからさ、おれが困ってるときは×××が助けてくれよな!」
「あはは。勿論良いですよ〜。でも私に手伝えることなんか少ないと思いますけどね」
「んー、ま、そうかもな!」
 思案顔のエースは、直ぐ笑顔を咲かせ、明るく言った。×××も、それを気にした様子は無く、ニコニコと笑い、手元を働かせる。二人でやるのは、どうやら、良かったらしい。しかもエースは慣れているのか、手際も良く、かつ(意外なことに)丁寧で、×××は殆ど彼にして貰ったようなもので、ペコペコと感謝の意を表した。
 洗濯している内に、外は再び快晴を取り戻した。水を多く含んだ衣服は、船室に持ち込んだ時よりも、随分と重みを増し、×××を苦しめた。
「おいおい、そんなへっぴり腰じゃァ」
「い、大丈夫です!エースさん。この船には女性も居ますよね、その方たちだってこれくらいは持つでしょう?」
 やはり、エースが抱えるのとは違って、随分可愛らしい量なのだが、それでも×××の腕は悲鳴を上げているように重かった。
「ん?そりゃモビーに居ればみんな平等だけどな。例外もあるぜ?見張りとか。あ、今日はおれだ。いっつも寝ちまうから、マルコにめたくそに怒られるんだ、怖いぜ〜?ヒュー、見てやがる。おーいマルコ!」
 洗濯籠を一度甲板に置き、×××のに手を伸ばそうとしたエースは一度動きを止めて、×××をチラリとみた。そしてニヤリと笑って、大きく手を振り上げる。
「あ!エース!てめェこの間の後始末してねェだろ!」
「げ!」
「やっぱりやることあったんじゃないですか!もう、私の方は大丈夫ですよ?ありがたかったですけど、ご自分の事、優先させて下さいね?」
 マルコの怒鳴り声に、×××はパッと後ろに振り向いたが、その内容に、また素早くエースへ咎めるような目を向けた。年上二人から白い目を受けても、エースはにこにこと笑って、軽く謝罪の意を示しただけだった。しかし、近付いてきたマルコの口が再び開くのを見て、微かに笑顔が強張る。
「うーん悪ィな!頑張れよ!」
「はいエースさんも!」
「さっきみたいにエースって呼んで良いぜ〜」
「え、」
 大きく腕を振り上げ、足早に遠ざかりながらも、×××に呼び掛けるエースに、彼女は小さく振り返し、彼の発言に怯んだ声を漏らした。
「×××」
「はい?」
 近付いてきたマルコに背後から呼ばれ、×××はくるりと体を反転させた。彼の眉間の皺は、通常装備なのか、うっすらと寄せられて、無くなることが無い。
「一人じゃ大変だろい?おれも持つ」
「大丈夫ですよ?」
「やることねェんだい」
 不機嫌そうに吐かれた言葉に、×××はやんわりと断った。嫌々そうな態度に、無理をして頼まれなくても良いと思った。
 すると、彼はその言葉を無視して、洗濯籠を抱え、×××の分も、引ったくるように片腕に抱えた。
「…、エースさんと同じ事言うんですね」
 彼の強引な動作に、×××は暫し驚きと、少し軽蔑を含めて、彼の背中を見上げた。ただ、言葉にはほんの少しの関心も含まれていた。
「は、…アイツ――、そうかよい。それで、どうだ慣れてきたか?」
「そうですねェ…。慣れざるを得ない部分もありますから」
「…悪ィな。だが、後悔はしてねェ」
 トン、と洗濯籠を甲板に置き、マルコは、空色の瞳を、×××の目に映した。真摯な視線から逃げるように、×××は拾い上げた服の皺を伸ばし、物干しロープに引っかけることに熱中しているように見せた。
「謝られると…、赦さなきゃいけなくなりますよ」
「…」
「連絡が取りたいんです。彼らに無事だっていう」
 わざと、明るく繕った声は、微かに震えていた。マルコは黙り込み、×××と同じ様に、並んで服を干し始めた。周りの喧騒が遠く聞こえた。どうやら本日は四番隊の実践演習のようで、隊長の天を突くような明るい声が響いた。マルコはチラリと視線を其方に移し、彼女も同じ方向を向いていることに気づくと、次の瞬間には視線が絡み合い、マルコは自然と笑みが漏れた。答えるように控え目な笑顔。
 それだけで、彼の心は決まった。
「…考えておこう」
 海賊船から手紙を出すならば…。ニュースクーを使うか。いや、あれは一応世界政府の使いだ。検問していないとは断言出来ない。彼女が追われる理由が分からずとも、今は暫く海賊船の居場所は特定されたくないし、彼女の関係者がバレてしまうと、その周辺にも被害が及ぶかもしれない。彼らは正義を掲げて普通に道徳を外れて行動を起こす節がある。
 手は、洗濯物を干すという平凡な動作をしつつも、彼の頭の中はクルクルと同じ疑問が回っていた。
「ええ、では!干しちゃいましょうか!」
「ああ、今の内だねい」
 しかし、彼女の希望が見えた様な、笑顔を潰すことなど、マルコには出来なかった。
 直ぐに答えは出た。いっそ自分が届けに行けばいい。何のための翼がある?マルコは、服の皺を伸ばしつつ、白くはためく綺麗になった肌着を睨みつけた。
「グランドラインの天気は変わりやすいんですよねェ。不思議」
「仕方ねェこったなァ。」
 マルコの心など知らない×××は、遠く、青い海を見つめ、しみじみと言った。マルコに対する嫌悪感などは収束に向かっていて、やはり島を思い出すものの、不思議と帰りたい欲求は日々弱まっていくようだった。まるで彼が話した世界そのものだ、という言葉は胸にしまい込み、同じ名を持つ、背の高い彼を見上げた。弓なりに特徴的な眉を持つ彼の目元は穏やかに緩められ、愛おしそうに言葉を紡ぐ。
 海を慈しむ彼の表情を目の当たりにした×××は、彼の穏やかな表情を見なかった事にした。何事も無かったかのように洗濯物を扱う。マルコも段別気にした様子は無く、自然と会話は終息した。
 しかし、二人の間の空気は以前より少々違ったように見えた。
 帰ることが出来なくとも、島の者に、自分の無事を伝えられる。それだけで彼女の心持ちは違ったように思えたのか、それとも、違う何かがあったのか。それは誰にも分からないところである。

最低限の約束
満足には程遠い、譲歩案でも。
それで構わなかった。
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