text | ナノ

 良く晴れた日、こんなのはグランドラインの気候を知っているからこそ珍しいもので、しかし×××は何時も通りに出る太陽に向かって体を伸ばした。
 もう、朝早く起きて、醸造所に行くことも無くなった。甲板に出て、ぶわりと潮の匂いを感じて、直ぐ慣れてしまう。あたり一面に広がる大海原は、穏やかに見えて、思った以上に波が荒くてもそう気付かないのは、×××が乗船しているこの船は、今までに見たことが無いほど大きく、巨大なキャラック船、船首は大きな白鯨。船長が薙刀を携えて立つのを、×××は一度しか見たことが無い。ずいぶん前から体調は優れないようで、特に快調の時以外は船長室に籠もることも多くなったらしい。
 コック長も務めつつ、四番隊隊長でもあるサッチの食事を終えて、×××はのんびりと午前を過ごす。甲板で行われる掃除などは手伝おうとしても断られるため、×××は何時も手持ち無沙汰でゆらゆらと移る波間を見るしか無かった。丁度彼に声を掛けられたのはその時で、×××はらしくなく気分が高揚した。
 ビスタは、自分の隊の訓練を行っているとき、微かな視線がジイ、と注がれるのを感じていた。長男が連れてきた女性は、それはサッチが褒め称えるのは何時もの事だが、それを抜きにしても、彼女は美人に見えた。身なりの良さそうな彼女を、マルコは強制的に連れてきたと言う。事情はまだ聞いていないが、彼女の責める視線を一身受けるのを見ると、彼の不器用さにビスタは同情も湧くが、特別助けようだなんて思わなかった。捕虜を望んだらしい彼女に、何も仕事に従事させないで、時間を持て余させているのを彼は知っていた。
 声を掛ければ快い返事が帰ってきた。趣味の一つに紅茶を入れるのが入っていて、良かったとビスタは思った。ウヴァのミルクティは、円やかで芳醇である。繊細なティーセットは荒々しい海を駆ける航海では直ぐ壊れてしまうことが目に見えていた。だから、無骨なホーロー製の食器にケトルで作ったそれを注ぐ。それでも、上達した濃い紅にミルクで溶かして。×××は一口飲んで、キラキラと目を煌めかせて絶賛した。
「わぁ…っ。私こう見えて紅茶には煩いんですけど、とてもおいしいです!香りも素敵、お上手なんですねェ」
「趣味でな。似合わないかね、海賊が、だと」
 クスリ、と笑って、湯気の向こうに笑顔を浮かべる。持ち上げるカップから漂う芳しい香りに、彼女はまだ感動が衰えない様子でパッと軽やかに笑った。
「いいえ!繊細で素晴らしい趣ですよっ、葉は何処で?」
「ああ、モビーディックで採れたのだ。島で買っても湿気るのでな。おれが勝手に使わせて貰ってる」
「葉が、自家製」
 興味の赴くままに口が動けば、その何もなさげな回答に×××は驚愕にポカリと目と口を開けるのみ。ビスタはここまで感情豊かに表す彼女に気分が良くなったのか、歯を見せて、前の大きく開いた服から覗く、胸板が誇らしげに膨らむ。
「何しろ大所帯だ。食事に出てくる青野菜などは予備になる。ああ、家畜も飼ってるぞ」
「あら…。そうなの。じゃあガーデニングなんかも出来ますかねェ?」
「するか?」
 口に付けていたカップを離した。ぼんやりと呟く彼女の顔に微かな所願の色を読み取った、ビスタの眉が跳ね上がる。間髪入れずに挟んだ言葉。驚きに上がる声。
「ええ!?うぅーん…」
「はは、暇だろう?何も課せられないから」
「あ、ご存知でしたか」
 本当は暇なんですよね、と苦笑いする彼女に、ビスタも苦笑した。彼の脳裏に気難しそうに眉を顰める金髪の彼が浮かぶ。彼女を思ってなのかも知れないが、それを苦痛にさせては元も子も無いだろうと、もう一度苦笑を漏らした。不器用な男だ。
「大丈夫だ。誰も文句は言うまい。使うのはコックか、酔狂な奴らだ。おれみたいにな」
「じゃあ…、」
 彼のおどけに、×××は笑って素敵ねと返しつつ、抑えきれない期待の声を上げるのだった。
 彼にも知られていない新しい楽しみを見つけた×××は今日も、船尾の方に構えているガラス室に赴いた。傍らに黒い学生鞄を置き、慣れた手付きで羽ペンを滑らせた。トントンと指で腕を叩き、頭を捻る。微かな扉の開く音に、集中は解かれ、×××は振り返った。
「あ、今日はイゾウさん」
「おや、×××かい。どうしたんだい?」
「お借りしているんです。唯一の趣味って言うんですか?イゾウさんはどうしました?」
 にこりと控え目に笑った×××は膝を叩いて立ち上がる。久し振りにずうっと低い体制を取ったからか、脹ら脛が痛み、背骨の関節が小気味よくパキリと鳴った。
「ああ、キセルのさね。葉が底をついてねェ」
「あら、煙管を」
 微かな驚きの声を上げる。×××が物珍しさに彼に近づくと、イゾウはそんな彼女の様子をチラリと一瞥した。
「そういや、×××は何処出身だい?見たところ和の国かと思うが」
「イゾウさんと同じな筈ですよ」
「だよなァ」
 顔の造りが似てるよなァ、と呟く。手は煙管の葉を摘んで止まらない。煙管の葉を暫く観察し、今度はイゾウの様子を見つめた×××はあ、と何かを思い付き、また控え目に口を開く。
「あの、イゾウさん。イゾウさんはこの字知ってますか?」
 手にしていた、紙を彼に差し出す。ん?と疑問の声を上げて、それを受け取った彼は、細やかな字で埋められた文字列に目を泳がせて、合点がいったように、寄せた眉間の皺が綺麗に無くなる。
「…、ああ!懐かしいね」
「え?」
 うんうん、と顔を綻ばせて、×××にそれを返す。内容を読めた様子は無く、×××は不可解な返事に首を傾げた。
「今は使われてねェのさ。アンタ知ってるだろ?言語の統一だよ。その字を知ってるのは海軍だけさねェ…おれも少しは知ってるが…アンタが書いたのかい?あんまり和の国の文字は使いなさんな」
「…」
 どうやら、彼女の使っていた、馴染み深い言語は廃れていた。彼が、もしも知っていれば、今まで培ってきた研究資料についても聞きたかった事が山のようにあった。時代錯誤は随所にあれど此処まで似ている世界ならば、植物に関してもそうだと思ったからだ。だが、彼がこうでは、きっと祖国に関しては期待は出来なさそうだ。和の国の言葉で掛かれた文献は姿を消しているだろう。言葉狩り、のようなものか、イゾウは×××の表情を伺うついでにもう一度手中のそれに目を落としたが、既に彼の中の母国語はすっかり横文字のあれに成り代わっていた。
「こんなに読めねェなァ」
 それこそ、海軍が背負う正義位ならば…。その言葉は飲み込まれ、声になることは無かった。
「そうですよね、ありがとうございます…」
 ごめんなと言う彼を責めることは出来ない。×××の中でも、随分と諦めはついていた。寧ろ、言葉が通じているだけでも有り難く、彼女はこのモビーディック号でほんの微かな既視感を抱いていた。何処かで彼らを知る機会があったような気がしているのだ。それはあり得ないことだと、深い思考に陥る前に振り払ってしまうのだが。
 努めて笑顔で彼を見送ると、×××は気合いを入れるようによし、と意気込んだ。状況が万全とは言えないが、希望が全く無くなった訳では無い。ネガティブになりがちな彼女を奮い立たせたのは、目の前に広がる大海原。
「(きっと、あなたはいるんでしょ?今見えないだけ、あなた最愛のオヤジ殿も具合が悪いのよ…?――マルコ)」
 今は小さな葉を見て、×××は黒い学生鞄に、今は無き字が綴られた紙をしまい込む。誰にも知られない方が良い。イゾウならば、祖国を思い出せるから、咎めは少なかったが、他人が見れば、海軍の機密事項が載った怪しいモノだ。それは紙だけには止まらない、人物にまで及ぶ危険分子になって。
 大量にある髪束の中一枚、古い彼女のレポートが消えている。きっとどこかに落としたのだろうと思った乗船の際の一時、彼女はそれを思い出すことは無かった。
 ナース等が使用するシャワー室を借りて、すっきりした×××が、しんなりとボリュームを無くした髪を背の方で跳ねさせながら、自室へと戻ろうとする。
「マルコ、…さん」
 彼女が思わず口に出た言葉は、確かに薄暗い中でも輝く金色の髪が揺れることで届いたのだと分かる。
「あぁ、×××かよい。おめェさんどうした?…まさか、海にでも落ちたのかい?」
 側に歩みを進めたマルコは、×××の姿をハッキリと認めると、次には目を窄め、怪訝そうに低く声を上げた。
「え?違いますよ。シャワーを頂いてきただけです」
「そうかよい」
 納得していないのか、暫時、思考に沈む彼を×××は見上げて、何も言わない彼に少し面倒そうに促す。
「行っても宜しいですか?」
 顔を上げるマルコは片眉を跳ね上げ、顎を撫でさする手をゆっくりと下ろした。
「あ?…おめェさんに、…洗濯だ。×××には洗濯をして貰う。明日からだ、指定場所に行きゃ分かるよい。分かったな?」
「は、何故?」
「したくなかったのかい?おめェさんは捕虜になったんだろ?」
 ×××がしたい、と言ったときには否定の言葉しか吐かなかったのに、と脳裏を掠めるが、草花を見て、一日を過ごす訳にもいかない。何しろ別に嫌ではないのだ。ただ彼の口調が自分を見下すような態度が何時も気に障るだけで。
「分かりました」
「じゃ、飯だ。行くよい」
「…はい」
 今は慣れていないだけで、その内気にならなくなる、と自分に暗示を駆ける。目の前の金色があの子だったら。×××はそう頭の中で考え、直ぐに自分を苛める。島の彼らが恋しくなった。
 細身なように見えて、しかしこの船の中では華奢な方に区分される彼の背。×××には広く見えた。日も随分落ち、船室も暗く影が落ちている。食堂に行くために一度甲板に出ると、空は藍色に染まって、空には、既に星が見え始めていた。満月でも目立つ星星は以前のように明るい街が無いから。思わず見とれて、北斗七星を見つける。ああ、変わらないと×××は目を細めた。
 前を進む彼の足が止まる。甲板の軋む音が不自然に止まったのを、彼は良く聞いていた。
「何してんだい?」
「星を見てるの、明るくて綺麗」
「…おれには分からねェな。目が悪いもんで」
「海賊なのに?」
「そういう奴もいるよい」
「そう」
 キラリと星を瞳で反射するそれに、×××はとても彼が見えていないとは思えない。あなたの目には今、一等明るいアークツルスが輝いているのよ。その傍らにスピカを対にして。こんなにも光り輝く星を見れないのは、勿体無いことだと思った。
「おめェさんとこは、夜でも周りばっかり明るかったない」
「…え?」
 一緒に立ち止まり、空を見上げるマルコが、ぼんやりと思考に意識を馳せながら、穏やかに言った。×××が、徐に彼に焦点を合わせる。
「あ?外灯が眩しいんだよい」
「そ、う?」
 マルコの言う人工的な光と、彼女が考えたランタンの明かりの間には大きな隔たりがあり、×××としては、星が良く見えないほど明るいとなると、元の世界を思い出させた。しかし、マルコが知っているはずも無い。だから、不思議そうに首を傾げる×××。
「?」
 マルコも同様に首を傾げた。空色の瞳は、周りの暗さの中でも、その色を失っていなかった。自然と見つめ合う(怪訝そうに)二人に、一つの人影が増える。
「なァ、そろそろ入ってもらっても構わんかね?」
 カイゼル髭を小指、薬指を立て、親指と人指し指で挟み、整えるように撫でる彼に促され、二人はパッとお互いが一歩離れた。その間を通り抜ける。彼が食堂に入ることで、×××の髪を柔らかな光が一瞬照らす。
「行くか」
「、はい」
 ビスタに遅れて、二人同時に食堂へ行く。扉を開けた直後からかわれるのは必須で、×××はまたムッとした表情を見せるのだった。

ぴったりの距離
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