text | ナノ

 ×××の体調は、船医、ナースの精鋭された技術でみるみるうちに回復していった。乗船して一週間もしない内に完治に至ったことを、×××は既に他人とも言い切れない彼らに感謝の意を伝えた。
「退院おめでとう。これで医務室生活も終わりね」
「本当にありがとうございます。アンリエッタさん、お世話になりました」
 初日、×××をバシリと牽制したナース長の名をアンリエッタと言った。勤務に真面目で知識も技術も豊富な彼女は、厳しいながらも献身的で、×××は非礼を詫び、仲は修繕されていた。にっこりと綺麗に顔を綻ばせたアンリエッタは、手にしていた診察カルテに最後の書き込みをして、垂れた髪を耳にかけ直した。
「良いのよ。さ、荷物を纏めておいて、今責任者を連れてくるから」
「はい」
 出て行くアンリエッタの背を見つめていた×××は、言われたとおりに動こうと思いつつも、枕元に置かれた黒いバッグに、洗濯されて綺麗な自分の衣服しか無いことに気が付いた。ベッドに浅く腰掛ける彼女は、今は患者用の衣服を脱ぎ、既に違う服に着替えていた。アンリエッタが、一着ではどうしようもない、と言って、サイズが近い彼女から譲り受けたものだった。綺麗な彼女らが着るとは思えない質素な私服に、アンリエッタは笑みを零した。私達だって一女海賊なのよ。
 ×××はそれでも綺麗にケアを怠らない彼女らに苦い笑みを浮かべた。今では一概に海賊を拒絶し難い存在が彼女の周りにいたからだ。
 手持ち無沙汰にボーと目の前の扉を眺めていると、それは唐突に訪れた。
 ガチャリと前触れ無く開いた扉の向こうから現れたのは、アンリエッタと…マルコだった。目を向けていた×××はバチリと視線がぶつかと反射のようにそれを避けた。向こうは特に感情を乗せていない表情を保ち、気だるそうな目が彼女を捉えていた。
「隊長。後は頼みますね。×××、マルコ隊長の指示に従ってね」
「は、い」
「行くよい」
 責任者ってこの人か、と意を込めて見上げると、端的に言葉を紡ぐマルコ。それに、×××はまだマルコと、あれからまともに話していないことを思い出していた。全面的にマルコが悪いように思えるのに、×××は早くこの二人の間に流れる雰囲気を改善したいが為に、何故か罪悪感がふつふつと湧き出るのが不思議だった。
「…、では、アンリエッタさん。お世話になりました」
「ふ、もう此処で寝泊まりしないことを願うわ」
 綺麗に顔を歪めた彼女にもう一度ぺこりと礼をし、既に扉の前に待機しているマルコに向かって歩き出した。散歩半後ろに居ることをチラリと後ろに視線を投げ掛けるだけで確認したマルコは、ゆったりと足を踏み出した。
 船室はゆうくりと揺れている。薄暗い板張りに足音が二組微かに響き、ギイと時折足元で木がきしむ音。微かに届く喧騒。無言で足を進める彼の背を見上げる。何処へ向かっているのさえ分からない×××は、唐突に不安に襲われた。
「マルコさん。…一体何処へ向かっていらっしゃるのですか?私を島へ返してはくれないのですか…?」
「少し、黙ってろい」
「…」
 ×××の疑問は、一拍置いて返された言葉の中に含まれていなかった。×××は、止まることの無い目の前の足を見つめ、表情を曇らせた。また少し重くなった空気に、×××は誰でも良いから誰か通りかかってでもくれないかとも考え始めた。
 だが、×××の思っていることも無く、段々と喧騒は遠退くばかりで、マルコが歩みを止めたとき、咄嗟に止まれなかった×××は広い背中に突っ込むように、つんのめった。
「きゃ、ご、ごめんなさい」
「…別に気にすんなよい」
 大きな扉の前で立ち止まったマルコはトン、と背中を揺らすほどでもない位ささやかな衝撃にフ、と微かに頬を緩ませると、雰囲気だけ和らげて、小さく言った。特別怒ることでもない。
「今から、おれのオヤジに会ってもらうよい。今後の報告と確認がしてェ。良いな?」
「あ、…はい」
「よし。オヤジ!おれだ、マルコだよい」
 今後の、と言ったところで、×××は先程彼が黙れと言った意味を悟り、素直に頷いた。すれば、マルコは軽い意気込みをし、元々大きく作られている船のそれらより、また一回り大きな扉を叩きつつ声を上げた。直後、低い声が聞こえる。何だか地面が揺らぎそうな程重厚な笑い声が×××の鼓膜を揺らした。
 行くよい。と簡潔な言葉と共にマルコが、自分の二倍以上ありそうな扉を片手で開けた。彼の後ろをついて行く×××には、中の人物が見えないと思われた。
「(大きい人…)」
 マルコの向こう側、影に隠れることなど出来なさそうな巨体が、彼専用の椅子にどっしりと構えている。傍らに点滴の機材やら、鼻にチューブを付けて、病人であることは確かなのに、手には巨大な杯で酒を煽っていた。彼越しに見えた初老の彼は、年齢を感じさせない笑みを×××に投げかけた。ニヤリと表現して良いくらいだった。
「オヤジ、わざわざすまねェ。おれの都合で」
「グラララ!良いぜェ!何せおれは今機嫌が良いからな、こんな別嬪さんを連れてくるんだ!」
 言葉少なに遣り取りされる内容に核心は無く、×××には計り知れなかった。空気を揺るがす彼の音吐朗々な笑いに×××は刮目するのみで、その後、気まずそうに手を首の後ろを撫でさすりながら、×××を呼ぶ。
 人に人を紹介するのに慣れていないマルコは取り敢えず一番伝えたいことを言う。オヤジことニューゲートはグラグラと笑い、×××はそれをマルコの背と交互に見やり、ぺこりと頭を下げた。
「あー、…×××。オヤジだ。エドワード・ニューゲートっつう。おれが心底敬愛してる船長だ」
「わざわざご丁寧に…。エドワードさん。初めまして、×××と言います。この度は…」
「待て待て、グラララ!×××と言ったかァ?此処は海賊船だぜ。誰も礼儀なんか知ったもんじゃねェ。堅苦しいのは止めにしようや」
 大きな手を緩慢に降り、×××の続く言葉を押し止めた。杯からチャプリとお酒が飛び上がる。海賊船だと明言する際にのみ、本来の威圧感を携えて(でもそれは本気の少しも出していないのだろう)、×××は背にゾワリと粟立つのを感じた。
「いえ、それでも」
「グララ…。おいマルコそれで何の報告だ?」
 それでも引かない彼女に、ニューゲートは、心の中で気の強い女だと呟いた。飲む際に顎に垂れた酒をグイと指で拭う。
 ×××から目を逸らし、ニューゲートが次に視線を送るのは、彼女を前に押し出した金髪の彼で、顎でしゃくりながら返答を促した。淡々と返すマルコ。
「ああ、×××をこの船に乗せようと思ってんだよい。おれが一方的に気に入っちまってな、良いよな?」
「え!」
 勢い良く後ろに振り向く×××。少し遅れて髪が肩に落ちる。
「グララ!良いぜ好きにしろ。馬鹿息子が初めて連れてきた女だ」
「え!っ一寸待ってください!私、ちゃんと帰る島があるんです!それに私は海賊にはなりませんしっ」
 少しも間を置かずに快い返事をするニューゲートに、×××はまた髪を広げて、前に向き直った。とんとん拍子に話しが本人を挟まず終わりそうなのに、×××が無理矢理割り込む。報告と確認と言ってもこれは酷い。×××は不本意な結果に眉を寄せた。
「おう、×××。海賊に連れてこられた奴に拒否権はねェそれが力も影響力もねェ一般人なら尚更だ。普通なら捕虜として扱われるべきか?マルコはそれをしねェっつってんだ。良いじゃねェか」
「それって、彼の何になれって仰っているんですか?」
 自由だぜ、と宣うニューゲートに、×××はピクピクと口端を痙攣させた。全くもってお話しにならない。自分は猫か犬なのか、あのゴールドの毛並みの猫の方がよっぽど自由に生きていたと思った。
 ×××が静かに怒りをたぎらせているのに、後ろに居るマルコの纏う雰囲気は随分と穏やかで、×××の肩に手を置いた。ニューゲートが暫し前から可笑しそうに笑っている。
「おれの所有物で良いだろい?」
「私は島には帰れないの?」
「よい」
 顎髭をさする彼に、良い返事を貰えるとは思わなかった×××は、意識とは反して綺麗に微笑んだ。肩に乗る武骨な手をバシリとはたき落とす。
「…それなら、捕虜の方が良いわ。私、あなたの慰み者になんかなりませんから」
「グラララ!気の強ェ女は嫌いじゃないぜ!良い女海賊になれそうだ」
「海賊にもなりません!」
 今度はニューゲートだけに止まらず、マルコまで、微かに瞠目すると、顎に触れていた手で口元を覆い、声もなく笑った。目が笑っているのを見た×××は余計に怒りが逆撫でされて、またニコリと青筋を立てながら微笑んだ。
「マルコさん。私はどこに行けば宜しいですか?倉庫?物置部屋?なんなら牢屋で良いわ。兎に角あなたと一緒は嫌」
「クッ、残念だよい。おれの部屋の隣だ。生憎それのどれでもねェない」
「…」
「グラララ!!ホラ行っちまえ!紹介は夕飯の時で良いだろうが!」
 キロリとマルコを睨みあげれば、彼は喉の奥で笑うのみで、×××が顔を歪めれば、彼の笑いに重ねて空気を揺るがす声が追加された。
 グラグラと笑い声を上げる、ニューゲートが大きな手をしっしと振った。×××はぺこりと最後にも一礼をしたが、それは入室とは違って、少し睨むような目は隠せなかった。隠す気が無かったのもあるが、幸いニューゲートはそれにニヤリと笑って見送っただけで、扉が閉まった。
「おめェさんにも何時か分かるよい。此処が第二の故郷になる」
「なりません」
 最初よりも声に柔らかみを帯びたマルコの言葉に、×××はバシリと即答してみせた。マルコは×××の前を歩きながら、隠れて表情を緩ませ、直ぐに真面目な顔を取り繕った。
「…なァんであの島に居た?大学は?×××も異世界に来ちまったのかい?」
「今は大学院生よ。助教授になる予定。それもこれもみんなパァですけど」
 気だるげな口調に、マルコがチラリと後ろを伺った。先程の話しを引きずっているのか、それともこの話の内容が彼女をそうさせているのか、マルコは分からなかった。×××は若干俯き加減で、長身の彼が、彼女の表情を望むことは出来なかった。
「何でだ?」
「あなたには関係無い話よ。あ、アノ子は?マルコ…。ああ、違うわ猫の方。マルコに会いたいんですけど、今は何処に?」
 だから、少し突っ込んで聞いてみた。そうしてみると、少し眉間に眉根を寄せた×××がマルコを見上げた。彼は彼女の苛立ちでは無く寄せられたそれに覚えは無かった。彼女が大学に行っていた時はニコニコ何時も笑っていた記憶が今も新しい。だから自分が聞いた事に不快感を感じているだけだと感じた。
 ×××の口調が穏やかになり、尋ねられた事に、今度はマルコが眉根を寄せた。
 スッ、と顔を背け、早足に歩き出す。マルコは自分だと、言いたい。だが、それは以前行って、大変に彼女を憤慨させた。マルコは暫し無言で足を進めた。
「…居ねェよい」
「そう」
 この沈黙は彼女に自由に解釈させようと、結局下手な嘘を繕うことは諦めた。返事は簡潔で、そこから見えない彼女の表情を探るのは難しい。マルコは静かに唇を濡らした。
「会いてェか?」
「そりゃァ、だって…。いいえ、何でもありません。此方が私で宜しいですか?」
 扉が二つ存在する真ん中、壁に背を預けたマルコは肩眉を上げた。完全な興味だった。腕を組むマルコを見上げる×××は両肩を竦めるが、特に明言はしなかった。何かを振り切るように頭を振って、目だけ、扉の一つに向けて呟いた。
「そうさね。不都合があったら隣だからない」
 コクリと頭を落とし、少し反動を付けつつ、マルコは壁から背を離した。そのまま×××の隣の扉のノブに手を掛け、入ろうとした所で、またぼそりと聞こえる程度の声で呟く×××。
「不都合って、此処に居ることですけど?どうにかしてくれるの?」
「ははっ、じゃ夕食時になったら呼ぶよい」
 マルコは一度、同じ様に扉を開け、不本意気な彼女の表情を見て、微かにブルーの目を丸く見せた。そしてひらりと武骨な手を振る。×××はそれを無視し、パタリと同時に閉じる扉。

君と模索する10のこと
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