text | ナノ

 その人が、通い始めて、あっと言う間に常連客になるのは当然のこと、もう一ヶ月にもなっていた。最初から目立つ人だった。何時も変わらないのはモコモコの帽子、目に影を作り、窺える濃い隈。人によって出やすい人もいるけれど、彼のそれは思わず心配する程濃く、まるで二、三日はゆうに寝ていないのではないか、と心配させる。薄い体、肌をあまり見せない服装。しかしチラリと見えた腕を覆う派手なタトゥー。そう言えば、鋭い目は、時折恐ろしいまでの威圧感を纏うときがあった。
 しかし、その時こそ驚きで、微かに動揺はしたものの、接客業に差別は要らない。それに今は大海賊時代で、グランドラインに存在するこの島は、少なからず治安は悪いのだ。今更それをどうこうなど言わない。
 キュッキュと、客が来ないときはグラスを磨くのに精を出している。開店後暫くは何時もの事で、あまり気にしたことはない。だから、まだ仄かに明るい内に、店のベルが鳴るのは、とても珍しい事だった。
「あら、早いですね」
「ウォトカをロックで」
「畏まりました」
 来て早々に強いのを流し込むのは、余り良いこととは言えないが、お客様の注文に茶々を入れるのは余り賢いとは言えない。ニコリと微笑んで、慣れた手付きで注文通り作ると、からりと氷が軽い音を奏でた。
「ウォトカのモスコフスカヤ。一番頭に突き刺さる味よ。…今日ぱどうしました?」
 口端を持ち上げ、ニヤリと笑う。丁度今日手に入れたばかりで、遠くから来ただけあり、また、グランドラインの島、ということもあって、少々値が張る。だが、彼女なりの拘りが、それを店に入れるまでの工程になった。
 後ろの壁面一面の陳列棚には、酒、それにピカピカに磨き上げられたグラス。開店して、未だ客がぽつりと一人しかいない。カウンターに肘を付き、にっこりと笑う。
「…」
「ああ、そう言えば、今朝ニュースに懸賞金が掛かった新手が上陸したらしいわ」
 チラリと彼女を見る影が作られた目元は隈が濃く、丸で何か病気でも患っているのかと勘違いされかねない酷さだった。特に口を開くことなくただグラスを持ち上げ、静かに傾ける。
「分かってるなら聞くな」
「あら、そうなの?本当に?」
 忌々しげに顰められた眉に目を留めた彼女は目元に悪戯っぽい笑み、興味津々に身を乗り出し、胸元を強調すれぱ、嫌そうに顔をしかめる男。
「うっせェなァ、客が居ねェからって」
「違うわ、アナタが早いのよ」
「なよっちィ女のバーに何か誰がくるかよ」
「まず一人がアナタね」
「チッ」
 一気に扇ぐと、ケッと喉を鳴らす。艶めかしく寄せられた眉に、欲を見いだすも、そんな風に飲めば、喉が焼ける事くらい分かるのに、と冷めた感情も湧いた。
 男というのは激情家が多いのか、と考え、否定する。何時でも女に指摘、論破されるのは気に入らないのだ。そう思えば、心にゆとりが持て、優しさに気遣う言葉も出るものだ。
「イライラするのは良くないわ」
「もっと注げ」
「アクアヴィットは如何?北の海なんでしょう?」
「ああ…」
 優しく囁く言葉に、男は低く唸った。カン、とグラスをカウンターに下ろす。実はアクアヴィットは商品では無く、彼女の常備酒だった。アクアヴィット、マラスキーノ、ライムジュースをそれぞれ1対1づつシェイカーへ注ぎ、慣れた手付きでシェークする。この動作に惚れてなったものだ。毎日暇さえあれば振っていたのも、記憶に新しく、微かな笑みを浮かべる。氷の入ったオールド・ファッションド・グラスにそれを注ぎ、また彼の前にス、と差し出した。
 一口、口に含み、素直な感想を漏らした彼に微笑んで、彼女はまだ彼しか居ない店内を見渡し、またカウンターに肘を突く。
「で?」
「まだ聞くのかよ」
 呆れたような薄笑いに、肩を竦めるだけである。
「だってアナタしか居ないんだもの」
「小遣い稼ぎをしくっただけだ」
「あら、賞金稼ぎ?」
 笑みを浮かべたままなのは、彼女の作ったカクテルを気に入ったのか、それとも故郷を思い出したのか、はたまた賞金首を易々と見逃した自分への嘲笑か。先よりも幾分か雰囲気が解れた彼は、彼女の戯れ言にも、少し眉を顰め、鼻で笑い飛ばした。
「手配書見てんのか?」
「そうね、海賊だったわ」
 そう、彼は海賊だった。もう賞金首の額も馬鹿に出来ないくらいの大金で、二つ名など、死の外科医となんとも大層な名を持ち、ノースブルーのルーキー、トラファルガー・ローと言った。にっこりと笑みを携えて、彼を見ると、ふざけたそれにうんざりしたような表情。吐く息は熱い。
「…てめェ」
 口説く気にもなんねェと小さく溜息に乗せられた呟きは彼女に届いただろうか、カウンター席を立ち上がり、これからの予定を思い出すローは、彼女に見えない角度で顔をしかめた。
「あら、もうお帰り?」
「此処で世間話するより静かに飲みてェんだ」
「では、お会計は…」
「おい…」
 告げられた金額に法外だ、と無法者が声を上げる。それに対して私の秘蔵酒だったのよと始まり、その後もその酒のルーツの話に展開しようと意気込んだ所で目を見開いていたローが悔しそうに口端を歪めた。
「ち、宝払いだ」
 トラファルガーと言う者は、不確定な未来を決定付ける言動はしなかった。医者というのに、絶対は無かったし、それは常人に対しても当てはまることで、元々あやふやな言動を嫌いとする彼はそのような言葉を発するのは初めてで、言った後、自分も驚いたようで、微かに瞠目するも、彼女は気付かない。ただ、今すぐ払えと、眉を顰めるのみ。
「止めてよ、この島を出たら何時払いに来るっていうの?」
「この海を支配する座に落ち着いたらな」
「海賊王ってわけ?」
「言わせるなよ」
 ポンポンと飛び出す素面でなら考えられない言葉ばかりが口をついて出てくる。そこでローは自分はもしや酔っているのではないかと自問した。直ぐに自分の可能性を否定することになった。
 彼女は、目の前の男を見上げる。不可抗力だった。彼女の顎は痛いくらいに掴まれて、グイと引き上げられていた。ローは、自信ありげに歪ませた口端、それは彼女のもう目の前で、隈が目立って気にしなかった彼の瞳は深海になる丁度手前のような、微かに光が届いている深い青色で、思わず見とれた。
 少し、意地悪な気持ちが湧いた。この男が若干必死に見えるのは、何故だろうか。そして、そんな様子を見てしまうと、からかってやりたくなるのだ。ニヤリと、微かな婀娜さを醸し出し、フゥと息を吹き付ける。
「…大体、アナタ達海賊が約束なんて守るのかしら」
 チリンと来店を告げる音。目の前の男をあしらわなければ、いらっしゃいませ、と紡ごうとした口を空気ごと奪われる。
「海賊王になって、初めて略奪するのはお前だ×××。待ってろよ」
 ×××が目を見開いた時にはもう解放され、目の前の隈男は唇を潤すように一舐めした。それが彼女を羞恥を煽ると思ったのか、入ってきた老紳士を見下すように見ながらすれ違い、自称未来の海賊王は出て行ったわけで、×××は自然と口端が上がる。
「トラファルガー・ロー。ふふ、楽しみにしてるわ」
 その呟きが、カウンター席、彼と同じ所に座る老紳士の眉をピクリと動かす。何でもないですよ、と通常に戻った彼女は心持ち上機嫌で注文を取り、シェイカーを振る。そして変わっていないようで、変わった一夜が更けていく。
 暫くして、彼が島を出た事を知る。何故か気分が高揚した。

華美なひと

11/06/30
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