text | ナノ

 雨の振る日だった。冬で、もう少し寒ければ雪になるような。大学の講義、卒業研究をこなし、バイトが終わる七時。今日は特別疲れたな、と感じて、学生に優しい団地住宅の一角、歩いて五分もすればある二十四時間営業のコンビニで、ご飯と雑誌、アルコール飲料をメインに購入する。ガサリとなるビニール袋を傘と共に持つ。そのまま一人暮らしをしているアパートに帰れたら良かった。
 アパートのすぐ手前、影になって元より黒いゴミ袋が落ちている。
(ゴミ?)
 ゴミ捨て場はアパートの裏なのに、と思った所で違和感を感じた。
「え!(ゴミじゃない!)」
 普通の日本家屋の縁側にでも居そうな中型の猫。随分と薄汚れて、何時から居たのか、雨にぐっしょりと濡れてぐったりと道端に落ちている。私は思わず駆け寄った。服が汚れるのも構わず、いや、少しは抵抗があったが、その猫を抱き上げる。近くでぬるりと手に残る感触。本能が私を動かした。
(手当てしないと!)
 鍵を凍えた手で外し、ブーツを脱ぐ。パチパチと至る所の電気を付け、すぐさまお風呂にお湯を張るよう自動湯銭のボタンを押す。
 コンビニの袋や学校のものが入ったバッグを投げ捨てる。
「死なないで」
 部屋の暖房をつける。猫は、温度を最大にしたコタツ布団を被せるうにして、先代の猫が使用していた小さなソファに何重にも重ねられたタオルにくるまって、鼻だけ見えていた。
 風呂がたまる間、私は猫を何度もチラチラ確信しながら、汚れた服を洗濯機に放り込み、着替え、取り敢えず、先代の猫が使用していた物を引っ張り出していた。
 張られたお風呂のお湯を桶に汲みながらその体を綺麗にして、確認すると、重傷などは無く、酷い所で前足の付け根から背中にかけて長い切り傷があることだった。主な出血はそれで、広くも浅い傷を消毒し、ガーゼを当て、包帯で押さえる。他小さい傷にも消毒をして、ぐったりと清潔なタオルにくるまれる猫を見た。
 脈は弱々しくもあり、ひとまずホッとする。私は漸く落ち着くと取り敢えずご飯をと、冷えてしまったお弁当を暖めなおして、少し旨味の落ちた夕食を終えた。
「生きて、ねこちゃん」
 頭をタオル越しに撫でる。猫は洗って初めて分かったのだが、とてもまろやかなクリーム色に少し濃いオレンジのトラ猫だった。目の回りにメガネのフレームみたいな、独特な模様を持ち、性別はオスであった。撫で続けること何分たっただろうか、クルルと微かな喉を震わす声。私はゆっくりと撫でるのを止めず、少しずつタオルを剥いでいった。瞬膜を張る目が、動く手の刺激に反応してピルピルと震える。
「大丈夫、目を開けて、もう少しだよ」
 死なないで、と心の中で強く叫ぶ。生きようと震撼する小さな命が燃え尽きてしまわぬよう、優しく包むように手の温もりを与え続けた。
「ン…ニァ」
 ねこちゃんっ、思わず声を上げてしまった。ビクッ、と大きく反応した体にごめん、大きかったよね!と素早く囁いた。大きく見開いた目が、一瞬でキュッと瞳孔を細め、青いスカイブルーの色がとても目立つ。ビー玉みたい、綺麗な空色だね、と呟くと、声に反応したのか、バッ、とバネのように身を翻そうとしてニギャ!と痛々しい叫びと共にタオルともつれて、動かなくなった。
「動いちゃ駄目だよ!傷が開いちゃう。ね、お水持ってくるから、暴れないでね」
 これ以上下手に刺激しないよう、緩慢な動作で立ち上がり、ソーサーに水道水を入れる。猫の前に再び座り、濡らした指を鼻面にくっつけた。目を細めてそれを受けた猫がペロペロと水分をとっていく。何回か繰り返し、頭を撫でた。体はやはり痛むのか首をすくめ、目をサッと閉じるものの、強く抵抗を示す訳でも無かった。
「ねこちゃん、君、どうしてあんな状態で倒れてたの?心配したんだから。ギリギリだったよ、キット」
 ミャーとか細く、長く鳴く。ふと頭に英語が流れた。
「…?」
 ラジオなんか付けてた?私は真っ先にそう考えた。ラジオで英会話の放送は大学受験の為にと聞いていた習慣が今も残って、大学生になった今でも趣味の範囲で嗜んでいた。だから、癖になっていたようにサラリと英語で返してしまった。
『何って、日本語よ、リトルポーイ。ねこちゃんが元気に跳ね回るものだから、ピックリしたの、怪我してるのに、よ?』
 そして、ラジオを止めようとよいしょと立ち上がり、見てみるとラジオはついていなかった。
『聞き間違い?』
  そして、ソファとタオルに埋もれるトラ猫をソッと持ち上げる。動揺か、傷が痛むのか緩く爪を立てられながら抱える。
『さ、寝ましょ?ねこちゃん、もう真夜中よ、一緒に寝てあげる。もう冬だし、冷えるから、ね?』
 くたりと頭を預けられる。にゃいにゃいと小さく鳴く声は肯定を示したようで、にこりと微笑んだ。
 暖かくしておいた羽毛布団に滑り込み、猫を胸元で包むように寝かす。意識が落ちていく中で、そういえば、名前、言って無かったとか、ねこちゃんの名前ってついているのかなとか、取り留めの無い事をぼんやりと思った。

小さな歯車が序章を奏で始める
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