text | ナノ

 ただ、体が熱かった。意識を保っていられなかった。一定の振動が、私の体に伝わり、抗うことさえ、許されない。拘束がキツくなり、はぁと耳元で聞こえた息遣い。落としてやるものかと意地になっていた気持ちは簡単に打ち砕かれ、あっさりと意識が暗い湖にぽちゃりと落ちたのだ。
 ふわふわと体が漂っているようだ。至極軽い力でパチリと目が開く。ただ、開けても辺りは暗闇に包まれて、私は手で、目を擦った。気がした。
 手が見えない。そりゃあ真っ暗なのだから、見えなくても可笑しくは無い。しかし、確かに手を動かしたのに、全く感触が働かないようで、スルリと、顔を手が突き抜けた感覚に陥る。それか、そこには私の意識しか漂っていないような…。
 ふと、小さな雪みたいな、ふよふよと漂う淡い光。認識したと思うと直ぐに形が形成される。じいと直視していれば、形成が早まったようで、ゆらゆらと忙しなく揺れ、彼女にも、それが何なのか認識できるようになった。
「猫…」
 光で輪郭はハッキリとはしていないが、空中でてこ招き、尻尾はユラユラと揺れている。
 にゃぁお、と一鳴き。手を伸ばしたが、やはり、それに何時までも届くことは無かった。フッと目の前の猫が鼻で笑った。
『にゃあ、いい感じに同化しているにゃにゃいか』
「どういうこと?」
『ふふふにゃあ〜分からんかにゃ結構おみゃーには期待しているだけどにゃ』
「え?」
『だが今器と心が離れすぎるのは感心しないにゃ。おみゃー、最近情緒不安定だからにゃぁ…。最初の状態からそうなのは仕方ないがにゃ、これ以上は…。歪みが生じると歯車の噛み合わせが上手くいかなくなる。歯車は歪みがあっても、歯が一本折れるだけでも、その機械にとっては致命傷だろう?時計の針が一秒に、一針動くはずが二秒に一針カチリと動く。どうして人々は、それで正確な時間が計れる?あまり自分を拒絶しないことだ。少しくらいおみゃーの気持ちを優先させてもいいんじゃにゃいか?』
 歌うように言うと、最後に鼻で笑う。何時か見た彼の猫を思い出す。あの時も手厳しく罵られた。×××は脳裏に残る猫のままだ、と思いつつ、その言葉に首を傾げた。
「同化とか歪みって何?それに私無理なんかしていないわ」
 例えなのは分かるが、一体何を示しているのだろう。
『にゃあ、頑固な奴は痛い目みにゃきゃにゃ』
「歪みって!?どうなるの!?彼女は…!」
『彼女って誰かにゃ』
「私の器!別人でしょう!?」
 クックッと喉を鳴らす猫がキョトンと動きを止めた。光が一定の輝きで周りを照らした。預かり知らぬ様子に×××は無性に焦った。×××が必死になればなるほど、猫を纏う光が可笑しそうに揺れ始めた。
『にゃはは〜ん。さあにゃ。一体おみゃーはどこが気に入らないのにゃ?違和感を感じるかにゃ?』
「…」
『自分で考えるがいいにゃ。にゃはにゃは、時間は何分経ったかにゃ?それは3分、6分?随分と時間は少ないにゃ、…』
 また再び声が急に遠のく。
「あ!待って!此処から出して!」
『夢は無限だにゃ』
 また、消えてしまうのかと、聞きたいことの答えや、飲み込まれそうな暗闇に恐れを覚えた×××は光に手を伸ばす。可笑しそうに笑う猫は急激に光が萎むように、続いて声も聞こえなくなっていき、×××の不安を増長させる。
「行かないで!」
 最後まで猫は×××の指先を掠らず、必死に呼び止めても消えたそれに、頭がカアアと沸き立つように熱くなった。それが、延ばし続けた指先に熱が灯って、
「×××さん!」
「はっ!」
 目覚めは突然だった。
「大丈夫?熱があるのよまだ寝ていて…」
 耳を擽るさえずるような声。気遣うそれに×××は目を向け、知らない人だと確認する。キラキラと輝き、緩やかにウェーブを描く見事な白金の髪をクルクルと上に纏め、清潔感の漂うナース姿の彼女。×××の手を握っていたようで、手を引くとスルリと抜けた。
「此処は―?まさか…、っ」
 ゆっくりと上体を起こすと。周りは見覚えの無い部屋で、板張りのそこに白いカーテンが眩しい。ゆらゆらと風もなく揺れる。心なしか微かな浮遊感。そして×××は突然、散乱していた要素が一つの塊になった。
「引き返して!私をあの島に帰してよ!」
「落ち着いてっ」
「駄目だ」
「何故っ?」
 ベッドから飛び降りようとする×××を押し留めた彼女をキラリと睨み付ける。何と力の強いことか、×××も半年とは言え、大きな酒樽を荷台に運んだりと、力仕事はしていたが、その細腕にがっしりと掴まれ、びくともしないのは、やはり体が弱っているせいなのか…。
 ナースと彼女の間に入る静かな声。反射的にそこへ目を向ければ、扉の直ぐ隣に長身を寄りかからせ、金髪が目立つ。空色の瞳が、前のめりになっている×××をじと見つめ、腕を組んだまま、厚い唇を開いた。
「海賊に一度さらわれた人間は海賊になるか、捕虜になるかのどちらかしか道は残ってないよい」
「そんなの勝手じゃない!?あなたたちの決まりを私が守る必要がどこにあるの!?」
 冷静な彼の言葉の身勝手さに、×××はカッと頭が熱くなった。寝起きの声は掠れて、苦しそうに喘ぐ。
「船はもう出てる。ログポースは次の島を指しているんだい」
「引き返せば良いじゃない!」
「ログポースを無視すれば遭難するぞい」 次々と出る×××を否定する言葉に、彼女は怯むように息を吸ったが、上手くいかずにげほげほとむせ込んだ。ナースの、×××を押し留める力が増した。小さく落ち着いてとの牽制が掛けられる。
 マルコはそれに肩眉を綺麗に跳ね上げたが、特に言葉にはせず、×××の次の言葉を待った。
「そんなこと!大体ログポ―」
「隊長!興奮させないで下さい!×××さんは病人です!そして此処は医療室です!何人たりとも此処ではナース長の意見を聞いて頂きます」
 ナースの我慢が切れたのか、ギッと凄まじい形相でマルコを睨み付け、続いて彼女を睨む。高らかに宣言するナースに、反論できる者は居らず、丁度薬を追加しようと機材を運んできたこれまた美人のナースが彼女の激情っぷりに肩を竦め、サササッと用意するとあっと言う間に下がっていった。
 ナース長の言葉で正気に戻った×××は、怯えて縮こまったナースにぺこりと形式だけ挨拶して、ナース長を押していた力を無くすと、静かに微笑んだ。
「私、大丈夫です。ただの病み上がりでもう治ってますから」
「ああ?」
 真っ赤な頬を緩めても、全く説得力のないそれに扉付近から不服そうな声が挙がる。
「×××さん、あなたも。ここの船員で無かろうと、病人が居れば唯一は医者です。あなたは横になりなさい」
 ナース長が我が儘な子供を扱うような、困った表情で言い、肩を軽く押した。×××はそんなこと無いと、マルコを真摯に見つめても、何の色も付いていない目で見つめられ、マルコは組んでいた手を解くと、軽く両手を上げた。
「結論だよい。×××は降ろせねェ。どっちにしろだい」
「っ!人でなし!」
「言っとくが!おめェは助けてもらってんだい!あのまままじゃ今頃―っくそ!」
 悔しそうに顔を歪めた×××は、扉の向こうに消えようとしたマルコの背中に罵声を叩きつけた。
 一瞬止まった背中が、驚くほど早く振り向いた。顔には怒りが、そして感情のまままに言い切るかと思われたそれは途中で顔が悔しそうに歪んで、やるせない思いを内包して、荒々しく扉は閉ざされた。まるで、今の彼と彼女の距離のように、頑なで断絶していた。
 ×××とて、怒りは心頭で、プルプルと握り締めた指の関節は白く、シーツに皺を作った。
 ナース長が、無言で彼女の点滴を換え、結合部から薬を追加する。フ、と溜め息が落とされ、ゆるゆると×××は顔を上げた。美しい顔が、呆れたように彼女を見下げている。
「―で、落ち着いた?あなた、自分勝手よ。病人なのに。言っときますけど、ぶり返してるの。熱も酷いし、今も辛いでしょ?医療室で病状悪化だなんて、私に対する侮辱ね。まず体調を万全にしなさい。話しはそれからよ。まだ一般人なんだから何でも彼に訴えれば良いわ」
「っ」
 淡々と言い終えた彼女はとうとう力が抜けきった×××の肩をベッドへ押し込み、最後に安静にするようを訴え、扉の開いて閉まる音が一回づつ聞こえた。
 ×××はベッドに臥せ、顔を枕に押し付けた。点滴の刺さる所が今になって痛い。
「(勝手に連れてこられたのは私なのにっ!何故こんな辛辣に当たられなきゃいけないの!?)」
 ×××の脳裏には、エレノア、グリント、シュミット、…そしてあの光る猫。
 ×××が居なければ、エレノアやグリントはきっと彼女を思って心配するだろう。何たって、再び海賊が関わってきているのだから。それに関してはシュミットから聞く。彼は今回の目撃者と言っても過言ではない。
 だが、×××は思うところがあった。今思い出しても苦々しいマルコは何故、クザンから自分を連れ出すのだ?海軍と海賊がお互いに敵視しているのは分かるが、そこに入ってくる×××をわざわざマルコが目掛ける必要は全く無い。それに、×××はあんなにも嫌がったのに。実力執行の不可抗力だ。
 ×××は確かに帰りたかった。それが彼女にとって仮初めの止まり木だったとしても、既にそこが心地良く、離れがたい場所になっていたことも確かで、最近のごちゃごちゃした出来事も、ゆっくりと修復されていく筈だった。だから、今回のクザンのことに関しても、問題があるならば文句は無かった。二回ともそれを第三者から邪魔をされただけなのだ。
 マルコと言う人物は一体私を何だと思っているのだろう。×××の最終的に辿り着く思考はそれで、考えれば考えるほど不透明で分からなくなっていくように感じた。猫マルコと関係のありそうな節があったが、肝心のその子は未だ見ない。あんなに可愛がっていたのだから、すっ飛んで来ても良いくらいなのに…。
 不服そうに呟く彼女の言葉を拾ってくれる人物は居らず、真っ白い清潔なシーツに飲み込まれた。懐かしさに思いを馳せる彼女は、一瞬の間、現実から背を向け、静かに瞼を落としていった。ゆぅっくりと揺れる船は、気持ち悪さより、心地よさを×××に与えた。ぎゅうと抱きしめられた枕は今は可愛がっていたあの子に代用され、怒りを忘れ、穏やかな気持ちで、意識を暗闇に投じた。
 耳の遠くで、猫の鳴き声が、聞こえた気がした。
『時間は短く、夢は無限、だにゃ。にゃっはっはっは』

間奏曲
<-- -->

戻る