text | ナノ

 次の日、×××は疲労か、体の冷えからか、ベッドに臥していた。昨日、×××はベッドに戻った記憶は無い、額に置かれている水を含んだタオルが無くなった感触に、×××は緩やかに目を開いた。
 ×××の視界に入ったのは、あのシュミットだった。彼方も気付いたのだろう、ニコリと笑ってすぐ心配そうな表情をして大丈夫?と言う。続いて、自分は、呼ばれて来たこと。昨日、ちゃんと寝ていなかった事を咎められ、エレノアが向こうでお粥を作っているから待つこと、ちゃんと寝ることをまるで本物の母親のように小言を言い、額に冷えたタオルを置き直すと、洗面器を抱えて、×××の部屋から退出した。
 また暫くするとエレノアが、トレイに一人用の土鍋と、水の入ったガラスのコップ。それに小さなセロファン(風邪薬だろう)。×××は自力でベッドヘッドボードに枕を挟んで背中を預けた。何時もより、彼女の声が籠もって聞こえるように感じた。×××は熱をだしていた。
「×××ちゃん、最近ちゃんと寝ていないんですって?シュミットさんが、何時までも出てこないアナタを心配して連絡をくれたのよ?そしたら×××ちゃん苦しそうにしているんだもの」
 びっくりしちゃったわ。と締めくくり、そして、暖かい内に食べてしまいなさいとれんげを差し出した。きっと早朝、急いでいたのだろう。身だしなみも中途半端で何時も綺麗に纏めてある髪は、後ろで無造作に括られているのみだった。
 一口、湯気のたつ白いそれを口に含み、熱によってか、味を全く感じれないことに×××は落ち込んだ。折角久しぶりに手作りの食事が病人食で、味も分からないのでは、エレノアに何を言えば良いのか分からなかった。
 ×××の暗い表情にエレノアは心配そうに声を掛けた。
「美味しくないかしら?」
「いいえ、ただ、味が分からなくて…、作って下さったのに、ごめんなさい」
「良いのよ!そんなこと気にしてたの?それならたんと食べて薬を飲んじゃいなさいな」
「はい、すみません」
「あらあら、病気で情緒不安定なのかしら?」
 ポツリと呟き、×××はうまく聞き取れなかった。聞き直しても、うやむやに流され、お店があるので一回帰ると言う。不安そうな表情の×××を置いて、エレノアが出て行くと、入れ替わりのようにシュミットが扉をノックした。
 薬を飲もうとした×××が手を止め、はぁいと緩い返事をした。
「あれ、エリーさんは帰ったのかな」
「お店があるって」
「ああ、そっか。あ、片付けておくよ」
「あ、一寸待って…ありがとうございます」
 セロファンを傾け、薬を水で流し込む。加えて二、三口口内を潤すように飲んだ。口端に少し垂れたそれをシュミットが親指で優しく拭う。ハの字に眉を垂らし、小さく笑った。
「そんなに急がなくて良かったのに」
「…はい」
 熱とは変わって、羞恥にほんのりと頬を染める×××の頭をシュミットは一撫でし、トレイを下げに部屋を出て行った。
 彼が居なくなった部屋で×××はもぞもぞとベッドに横になり、居心地の悪いのを紛らわそうと身じろぎした。落ち着いたところで、再びシュミットが手に冷水の入った洗面器をもって訪れる。それを横目にみて×××は小さく謝罪をした。
「良いよ、具合が悪いときは素直に世話をやかれるべきた」
「…」
 甲斐甲斐しく×××の世話をする彼に、×××は申し訳無さそうな表情で、もう一度謝罪しそうになるのをこらえた。
「さ、もう一眠りしたらどうだい?薬の効きも良いだろう?」
「あ、待って…」
「ん?」
「て、手を」
 握っていて欲しいの、と部分は囁くような声だった。エレノアが戻ってくる様子もうかがえず、シュミットまで気を利かせているとしても、×××は独りにされるのを嫌がった。病人にとって、一人きりになるのは、普段からは予想が出来ないほどその人を弱めるらしい。その×××の幼気な様子に、シュミットは僅かに目を見開いた。そして、無言で洗面器をサイドテーブルに置く。チャプンと水面が揺れた。
「…×××」
 ベッドに腰掛け、×××に覆い被さるように上半身を傾け、頭を緩やかに撫でる。片手を彼女の手と指を絡ませるように握れば、火照るように熱を孕んでいた。ほっ、としたように目を細め、そのままとろんとした目をする。今にも寝そうな×××にシュミットはもう一度呼び掛け、徐に顔を近付けた。
「っ、ゃ、め」
 自分の上に影が出来たのを感じ、×××は目を見開いた。目に、微かな欲がチラつき、これからされるであろうことを察した×××はうろたえ、恐怖に、顔を背けた。
 シュミットは×××の拒絶にピタリと体を止め、スッ、と身を引いた。×××からは伺えなかった表情は冷めていて、悲しそうに歪んでいた。自嘲しながら、洗面器を再び抱える。
「君はひどい人だ。おれが君に好意があると知っているのに、」
「…」
 扉に向かう彼に、×××はハッ、として呼び止めようとした。ただ、×××が口を開くと、シュミットは割り込ませまいと言葉を続けた。冷めた声を一転させ、至極柔らかい声で囁く。
「どっちつかずな態度だと勘違いしてしまうね。…」
「ごめ」
「謝らないでよ、惨めな気持ちになる」
「あの、本当に」
「エリーさんを呼んでくる。君は病人なんだ。自分の体を一番に考えるべきさ」
 話しが進んで行くにつれて、お互いが悲しみに眉を顰めた。努めて穏やかな表情を作り、×××を怯えさせないように優しい声。痛々しさが残るそれに、×××は咄嗟に出た行動を後悔し始めていた。
 ああ、優しい彼に私は一体何故この様に辛く当たれたのだろう。この時ほど自分の性格を恨む事は無いだろう。支えてくれる存在が欲しい?そんなの、自分以外に誰が居るの?彼だって、望みの無い相手をするのは苦しい筈なのだ、なのに私は自分が苦しいからって、本当に自分の事ばかり。
 枕元に臥す×××は、静かに出て行く彼を思い、自己嫌悪に苛まれながら光を遮断した。目尻から一筋涙が道を作る。枕に押し付け、消した。
 自然に消えた彼を戻ってきたエレノアが×××に尋ねる。×××はただ申し訳無いから帰って貰ったと言うだけで、エレノアが不思議そうにしていても、それ以上言葉を発することはなかった。
 次の日からは、怠い体に鞭を打って、エレノアの助言も聞かずに早々に店を開けた。隣にシュミットは居なかったが、それも当然だと、×××は自分を笑った。仕入れなどは各店に断りを入れた。流石に大きな酒樽を万全でない状態で運べるとは、自意識過剰にも思えなかったからだ。
 ×××は外は暗く、明かりを灯したものの、静かな店内で新聞を呼んでいた。誰々さんちの酪農園で子牛が生まれた。果樹園では今年も豊作だ。そんな和やかな記事の端っこ、隠れるように、暗い記事があった。目を通し終わった×××が顔を上げたときにはその表情は蒼白で、手は小刻みに震えていた。
「(海兵三人、謎の死)」
 チリリン、
 ×××はバサリと大袈裟に新聞を閉じた。平静を装いながら、顔を上げる。しかし、それも長くは続かなかった。あの、
「クザンさん…」
 かの人の、表情に×××はクラリと頭が揺れる感じがした。それは彼の表情が何時もより険しかったように見えたせいか、×××は取り繕うのも忘れ、暫く硬直した。
 彼女が再び動き出すのは、クザンが一歩踏み出し、厚い唇を歪ませた時だった。
「×××ちゃん…出来れば抵抗しないで付いて来てくれるかな。ああ、あと暫く家を空けるだろうから、大切なものを纏めて」
 彼の言葉を理解した瞬間、×××はスツールを倒す勢いで立ち上がった。震える指で新聞を掴む。小さな記事が見えなくなった。
「わた、私!違います!海兵さんは確かに追い払ったかもしれませんが、」
 狼狽したような声に、クザンは微かに眉を寄せた。
「あららら。ごめんね、それとは別件なのよ」
「え?」
「取り敢えず連行扱いだからね…、さ、荷物を纏めてきなさい。逃げない方が良いよ。捕まるし、罪が重くなるから」
 促すように優しく声を取り繕う。どうやら、×××が動揺しているのが、自分の雰囲気が硬いためだと辛うじて気付いたからか、しかし、×××は前回と別件と言われた時点で、怯えた様子は無くなった。今度は純粋な疑問を持った。一体私の何が海軍に目を付けられる原因になったのだろう。ただ、それは彼に尋ねても答えは出てこないと思った。ただ素直に従うしか×××に術は無いように見えた。×××から見るに、クザンという男はどこか緩い雰囲気を纏うものの、仕事に関しては妥協を許さない節があると踏んでいた。
「…は、い」
「さて、と」
 結局、持つモノは唯一この黒いバックのみで、他は何も、無かった。クザンが、チラリとそれを見たが、何も言わず、カウンターから、膝に手をつきながら立ち上がった。×××の二倍はあるのではないか、そう思わせるほどの身長に威圧感を纏わせ、彼女の横につく。そのまま、外へ出る。
「え?きゃっ!い、痛いっ」
 ×××の二の腕はクザンの大きな手で拘束されていた。痛みに顔をしかめる×××に、クザンは冷たい息を吐いた。視線は道の向こうへ向けられていた。
「静かに、君が犯罪者だなんてみんなには知られたくないでしょうよ」
「…」
 黒いバックの取っ手をギュウと握る。彼に冷たく当たられていることよりも、そのセリフに×××はうなだれた。
 その時だ、あの声が彼女の鼓膜を震わせたのは。
「×××…?」
「っあ、あ。マルコさん」
 驚いた×××がぱっと顔を上げ、マルコを目に留める。だが、彼の方はその上を見ているようで、憤りを隠さない表情でもって彼、クザンを睨みつけていた。
「てめェ、青雉まで出てきやがって、一体×××が何したって言うんだい!手を離せよい」
 ×××の言葉には返さず放たれた怒声に、×××は怯むように体をビクつかせた。クザンによる腕の拘束は既に力を失っていたようで、スルリと抜ける。
「…あーらら、どうしようかねェ。取り敢えず、×××ちゃん大人しくしておくんだよ」
 クザンが両手を軽く上げ、のんびりと返すが、表情は苦々しく歪んでいて、微かな緊張を含んでいるように見えた。×××はそんな様子を仰ぎ見、少しの躊躇いを持って、静かに返事をした。ここで逆らっても、どうにもならないことくらいは、弁えていた。
「はい」
「×××、見計らってこっちに来いよい!」
 クザンは微かに微笑んで、小さく頷き、目の前の人物に対峙したが、ただ、彼女の返事を良く思わなかった一人は眉間に皺を追加させ、意識は目の前の長身の男に向けられつつも声を張り上げた。
「逃げたら、また罪が重くなるよ」
「…あれはおれが手ェ出したんだ。×××は、関係、ねェ、だろい!」
 唐突に始まったそれに×××は目を丸くした。クザンの冷たい凍てついた言葉に、×××はピシリと体を強ばらせたが、×××に向けられた言葉に反応するのは金髪の男で、暗く、目を光らせると、そのままクザンの懐にめがけ強靭な一陣を放とうとした。
 止めようとする動作は予測済みなのか、寸前で、横に飛び退き、腰布をはためかせ、彼の頭部にその長い一撃が喰らわされた。
「きゃあああ!」
 ×××が悲鳴を上げたのも無理は無かった。それも、クザンの状態が状態で、なんと側頭部がマルコの一撃によって打ち砕かれていた。
 しかし、よく見れば、それは氷に変化していて、バリバリ、と砕ける音がしたと思えば、無傷のクザンがマルコの背後に居、手の平から突き出した氷の矢が、彼を狙う。
 背中に青い炎を纏わせ、逸れを飲み込むと、垂直に飛び上がり、その勢いで、踵で顎を打ち、続いて溝打ちを凪払う。ぐ、と低く唸るのはどちらか、地面に落ちる前に体を回転させ、膝をつくマルコは脇腹に手を添え、青い炎で包んだ。吹き飛んだクザンは、通りから逸れた小道の中に足を付き、両壁に氷の膜を張る。次の攻撃の予備動作に入っていた。
 だが、マルコは既に逸れを見ていなかった。店の前に、腰を抜かして座り込む×××を腕ですくい上げると、そのまま、走り出した。
「きゃあ!!」
<-- -->

戻る