text | ナノ

 何故か、シュミットの機嫌が頗る悪かった。彼にとっては上手く隠しているつもりだろうが、×××は彼に垣間見えるその苛立ちを見た。何時もなら二回叩く扉を叩くのに、四回だった。
 開店を示すものだった。cloceの掛札をopenにし、×××の声で中に入るのを許された。何時もなら。
 しかし、今日シュミット確認を取らず、そのまま店内に入ってきた。
「×××。お客さんだ。おれが店番をしてくるから、君は彼の相手をしてくればいいよ」
 声がトゲトゲしているのを感じた。理由が不明な点があるが、店の者が客に見せて良い、態度では無かった。
「え、はい。じゃあよろしくお願いします」
 外に客が居るなら、待たせるわけにもいかない。たまに話がしたいと、一時的な店仕舞いをして店を閉じることはあるが、彼がいるなら、×××は自分が外へ出て、どこか近くの喫茶店で話すのも良いかと思った。
 入り口を開け、支えている彼を通りすぎる際、耳元で囁く声が聞こえた。
「後で、話しをしよう」
「え?」
 ×××が不思議そうに顔を仰ぐと、柔らかく背中を押し出されていた。
「じゃ、店番は任せて、いってらっしゃい」
 にこにこと笑顔を見せて、手を振っている。×××も小首を傾げて、振り返した。扉が閉まる音で、×××は客が彼女を待っているのを思い出した。手を慌てて取り押さえ、後ろを向く。
「すみません!お待たせしました…、マルコさん!」
「仲が、良いんだねい?彼は従業員かい?」
 こちらも、雰囲気が固い。だが、×××は気が付かない。長らく共にいたシュミットと、彼では、まだそこまで推し量れなかった。
「え?ああ、お見苦しい所をすみません」
「別に良いんだよい。今は休憩なんだろい?」
「はあ、そうですよね」
「…敬語なんか止めちまえ、おまえさんには似合わねェ。ほら、行くよい」
 少し、雑な良い方でも、引っかかりを覚えない×××は、素直に頷く。ふい、と目を背けられ、小さく言う。×××が肯定に頷けば、己に近付く彼女を気持ちねめつけるように、マルコは鋭く言い、さっさと歩いていく。
「え、はい。でも、目上の方ですし」
「…そうかい」
 彼の斜め後ろを歩きつつ、×××は控え目に主張した。どこか、懐かしい雰囲気を持つ彼に、己に喋り掛ける際のあの親しげな調子も、×××は彼女に関係があるのかもしれないと言う内心を抱えながら、しかし素直に頷くほど、以前の彼女を演じれるほど図々しくも無かった。
 その後、マルコも×××も黙り込み、彼が進むままに付いて歩けば、何時かあの長身の彼と来た喫茶店へ入っていく。街の中でも大きいそれは旅の人にとって、入りやすく、見つけやすいのだろう。
 テーブルに薦められ、やってきた紅茶をストレートのまま飲む。一口含み、嚥下したところで、コーヒーをまだソーサーに置いたままのマルコに目を留めた。
「×××は…紅茶が好きなんだねェ」
「はい、私、ここも好きで良く来るんです。マルコさん、飲まないんですか?」
 しみじみと言う彼に×××はにこりと微笑んだ。
「ああ、猫舌でねェ。一番美味い時に飲めねェのは辛いよい」
 時折ふぅ、と息を吹きかけ、カップを口元まで持っていく。その度にカップはソーサーに軽い音を立てながら戻された。
「猫舌…。」
「こればっかりはどうしようもねェからない」
 苦笑。×××がポツリと漏らした言葉を拾う。呆れたように聞こえたかもしれないが、×××は少々感慨深くなっていただけで、キャラメル色の液体をゆらりとたゆたわせ、ソーサーに戻して、ため息をついた。
「はあ、やっぱりマルコさんって似てますね」
 ゆるりと作られた笑みはとても自然で、マルコは聞かずには居られなかった。誰が彼女にこのような表情をさせるのか、知りたかった。
「誰にだい?差し支えなけりゃ話して欲しいねい」
「あ、つい先日も言ったんですけど…。前、猫がいて…その子もマルコって言うんですけど、トラ猫で…」
 少しずつ進めた話しは、マルコの訝しそうに顰められた眉と、低い声で遮られた。
「あ?おめェさん、夢って言ってたじゃねェかよい」
「え!?あ!そ、そうです。夢…」
「ほォ…。…で語尾がおれみてェなんだろい?」
「えぇ、ってこんな事言いましたっけ?」
 ×××が誤魔化すように手をパタパタと揺らし、発せられた彼の声にすんなりと同意を示す。直後、はて、自分は彼にそんなこと言ったかしらと思い直した。その答えはマルコが自分で出す。
「いいや」
「…」
 サラリと告げられる言葉。×××は一瞬手を止め、静かにマルコと目を合わせた。静かに下ろされる手は警戒を表しているようにも見えた。
「不思議だろい?」
「…ええ、本当に」
 ジロジロと視線を這わせ、不躾に彼を観察する。やっと、飲めるほど温くなったのか、カップに口をつける彼の片眉が、器用に上げられる。
「おれがマルコだからない」
 ×××の目を見つめながら吐き出される言葉は、静かで、嘘を言っているようにも見えなくて、しかし、×××にとっては受け入れがたいもので、反応が遅れた。
「…え!?ちょ、っと待って下さい!マルコは猫ですよ!マルコさんじゃありませんよ」
「彼は、白ひげ海賊団一番隊隊長だろい?おれも白ひげ海賊団一番隊隊長のマルコだがねい」
 確かに雰囲気は似ているように思えた。しかし、完全に相違する点が存在し、×××は声を上げる。マルコは×××が知り得て、まだ明らかにしていない情報を漏らした。自分が、彼女の言うモノであると、早急に決定づけたかった。
「でも、彼は凄く有名で…」
「おれは有名さ」
 何時までもカップを両手に握りしめ、執拗に黄金色の飲み物を見つめる。話すときくらい目を見ろとマルコが言えば、睨むように視線を投げかけた×××は、口調も固く、どこか怒っているようにみえた。
「でもあなた、別に行く先々で注目を浴びているようにも思えないですよ」
「そりゃ、海軍基地もねェし、この島が少し世間知らずなだけさなァ」
 思わぬ彼女の言葉にマルコはいらいらと苛立つ表情を隠しきれなかった。何故、こんなに疑り深いのだろう。マルコとて、最初は彼女をあの×××だと測りかねていたし、彼女の言動から、やっと今日確信出来たのだから、彼女も戸惑う点があるかもしれないが、此処まで頑なに拒絶する必要も無いだろうと苛立つ脳内の片隅に冷静なマルコが考える。
 だからか、こんな態度を取り、マルコが想像していた返答は来なかった。
「酷い、そんなことマルコは言わないわ!あなた、本当は誰よ?マルコは?マルコはここの世界の海賊猫なのよ?とっても有名で強いんだから!」
 以前ならば、穏やかに宥めながら、マルコを優しく撫でてくれた。猫のような扱いをして欲しいとは流石に思わなかったが、こんな風な態度を取られるとも思わなかった。ただ冷たい視線に、マルコの繕った薄笑いは剥がれ、目が剣呑な色を放つ。彼を完全否定する姿勢を保つ彼女に、流石にマルコも声を上げた。
「おれがその猫のマルコだってェ言ってるじゃねェかい!」
「あなたは人間です!」
 間髪入れず、×××が怒鳴り返す。ただ、声は押さえられていたため、二人に注目する客は少なく、店員が来る様子も見えない。
「そりゃっ、おめェさんの世界では猫の姿だっただけで…」
 段々と×××の中で、彼の猫に扮した誰か、という認識になっているのを意識下で感じ取ったマルコは自然と声が焦ったようになった。それが余計×××の不信感を煽ることなど、マルコは気が付かなかった。
「大体!マルコはそんな事一言だって…分かった。あなたマルコを知ってますね?だからそんなに詳しいんですよね?」
「おれがマルコだから」
 途中でハッと何かを閃いた×××は、依然険しい表情で声を潜めた。それに彼は狼狽を滲ませながら、嘆くように言った。今だけ、彼女がまるで別人のように感じた。
「止めて下さい!彼女の知り合いかと思った私が、馬鹿じゃないかと思いますよ!あなた、何のつもりでマルコを偽っているんですか?」
「…×××」
「それもマルコから聞いたんでしょう?」「おめェさん一体何をそんなにヒステリックに喚き立てるんだよい?彼女って誰だい?」 混乱しているのは×××だけでなく、マルコもだった。実直な思いを崩さない彼女は、吐き捨てる言葉を自制出来なかった。マルコは彼女の発言に、あからさまに首を傾げる言葉を聞いた。苛立っていたことも一端を担いだのだろう。少々乱暴な言葉遣いは完全に×××の機嫌を損ねることとなった。
「何ですって?…あなたには関係ありません!…気分が悪くなりましたので、お暇させていただきます。ご心配なく、お会計は私がしておきますから」
 お互い既に冷静な会話をできる状態では無かった。時間を置く、というよりは、関係の全てを断ち切る言い方にマルコは立ち上がろうとして、長い足がテーブルの裏に当たった。
「×××!待てよい!」
「その名を呼ばないで下さい!」
 けたたましい音に負けない声で×××が鋭く叫び、その騒々しさに店内の殆どが彼らに注目した。×××を知るものが彼女の憤りように驚き、目を見開いた。
 怒りに打ち振るえる×××に声を掛ける一人は、彼女にぺこりと頭を下げられただけで、稀に見ない彼女の雰囲気に周りは原因の男に目をやった。此方は怒りに眉間に渓谷を作り、細い目が糸のようになり、その恐ろしさに、客は不自然に通常を装った。観察力のあるものは、その男の表情に、悲しみや、悔しさを読み取っていた。ただそれが彼女の間に何があったかまでは把握出来なかったが。

 酒屋に戻った×××はシュミットに捕まった。昼休みであったので、店が一時closeを掲げるのは、何ら不思議な事では無かった。
 closeの掛かった扉を開くと、少し驚いたような表情のシュミットと目が合った。
「どうしたの?」
 きょとり、と何も存じぬといった態度のシュミットが×××に声を掛ける。何時もとは違う雰囲気の×××に、気が付かない筈がないのに。
「え、何も無かったですよ」
 にこりと形だけの笑み。
「ヘェ、あの男性とは楽しくお話しは出来た?」
 わざと明るく、軽い口調で皮肉を交えたシュミットの言葉に、×××は意気消沈していた気持ちがぐわりと怒りが沸き上がるのを感じた。
「それを聞いてどうするの」
「ごめん」
 苛々と胸の芯が燃えるように熱い。×××はつんけんとして、関係のないシュミットを睨み付けた。驚いたように目を見開き、シュミットは初めて見せた彼女の様子にただぽろりと謝罪の言葉しか出なかった。あの男との関係に苛立っていた自分を一時的に忘れた。意地悪な自分がなりを潜め、×××を気遣うようにハの字に垂れた眉を見て、×××はくしゃりと顔を歪ませ、後ろ手で扉の取っ手に軽く寄りかかり、顔を俯かせた。
「ごめんなさい。今、私、とても嫌な奴ですから、今日はもう、上がって下さい」
「分かった。×××、明日も普通通り来るよ?」
「はい。一日で直しますから…、ごめんなさい」
 そろそろと×××を気遣うシュミットに、×××は再び意気消沈し、うなだれた。シュミットの帰り際、頭部を撫でる彼の手は拒まなかった。
 ×××は疲れていた。自分そっくりの器に入った精神は、寄りどころが無かった。常に以前の彼女を思い出さなければいけなかった。彼女がやりたい研究もあまり進んでは居なかった。日本語で書かれたそれを英語圏のこの島が理解することは難儀で、これもまた彼女の助けになる者は居なかった。
 彼に会ったとき、マルコと名を知った時、×××は何時かの猫を思い出した。そして己があの猫だと宣う彼に×××の支えがポッキリと折れた気がした。受け入れがたい事態だった。猫であるのだ。今もそれを信じている。ただ、この世界に彼が居ることは確かなのかもしれない。それでも彼が何故マルコであるのを主張する目的を測りかねていた。
 カウンター席に腰掛ける×××の表情は暗く、片手で髪をくしゃりと掴んだ。

狂詩曲
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