text | ナノ

「×××!」
 張り上げられた声に肩をビクリと揺らす。インクがぽたりとカウンターに一粒零れた。慌ててスタンドに羽ペンを立てる。
「はっ、あ…、あ!ごめんなさい。呼びました?」
 傾げた首、肩に髪が垂れるのを感じる。
「…うん。どうしたの?ぼぅ、としちゃってさ」
 酒樽を持ち上げ、定位置に置く。私は何時も転がしちゃうなァとぼんやりと思って、額を手の甲で拭う彼を見る。
「いえ、何でも無いんですけど。ほんと、どうしちゃったんでしょう」
 小首を傾げる私は、カウンター越しで帳簿を付けていた。一週間以内に団体が来るのか、サムおじさんの飯屋に何時も以上の酒樽の注文が入っていた。掛けていた眼鏡を外し、目頭を指で揉む。
「あの時からだね…?心労かなァ。少し、休んだら?」
 私の様子を見た彼が数個あるスツールを一脚引きずり、腰を落として、カウンターに肘を乗せた。手袋は取られ、女性のようでは無いけれど、男性にしては華奢な指。再び目を遠くに飛ばしかけた私の視界にひらひらと手が振られた。
「…いえ!私、やりますよ!お手伝いなのに、何もかもシュミットさんに丸投げは責任に関わりますから!」
「じゃあ、お昼は美味しいの食べに行こう?」
 空中を漂った手の平が私の頬を静かに滑ると、どこか違う感じがしつつも、穏やかに笑みを作った。
「はい、ありがとうございます」
 無意識に首を捻る私をシュミットさんが注視している。その表情が何時もの彼から想像出来ないほど、色が無かった。私はそれを見逃す。

 ×××とシュミットはサムの店に訪れていた。店に据えられていた電伝虫が言うには、彼らの飲酒は止まるところを知らないらしい。あんなにストックを用意していたにも関わらず、足りないとか。×××も普段なら一人で樽を、積み荷にして運ぶとは言え、この量では中々難しい事であった。申し訳ないと思いつつ、彼に連絡を取れば、直ぐ、駆けつけた。散々お礼をいい、後にお礼をさせてくれとサムの店に着くまで×××はペコペコと頭を下げた。その度、シュミットの忍び笑いが夜の空に溶ける。
 裏口から酒樽を入れる。サムは額の汗をエプロンで拭いながら×××の名を呼んだ。
「助かるよ!御代は後で良いかい?」
「勿論、樽で勘定致しますから」
 言い終えたと瞬間にサムの声が正に続く。
「本当に悪いねェ!何せ気の良いお客さんだよ!店の在庫を根刮ぎ食らう勢いだ!」
「ふふ、じゃあ、早く出しちゃいましょう」
「ああ…」
 店の席の方から料理を頼む声が飛ぶ、サムは大声でそれに返事をし、中断された会話と店を包む賑やかさに×××は微かに瞠目し、小さく笑った。
「×××ちゃん!悪いんだが、臨時に奴らに酒を運んでくれないか?樽から出りゃどんな形でも飲むさ!」
「え!」
「勿論あとからたんまりお礼をしよう!臨時も兼ねるし、何しろ今おれは結構収入はある。シュミットさんも手伝ってくれるよな?」
 あわわ、と慌て、取り敢えず席で空腹に嘆く彼らの胃袋を宥めにサムは、どこから引っ張り出したのか、腰巻きのエプロンを二人に与え、大急ぎで厨房に入っていった。
 ×××は、シュミットが取り付けた樽から、ジョッキに酒を次々と開けた。また別の樽からは酒のビン。酔いが回って来ると、段々と×××の元へ来るよりも、自分らでボトルを抱え、そのまま飲むか、仲間内で開けるようになり、彼女は料理を運んだりした。
 シュミットは裏口から酒樽を中に運び込むのが終えると、サムが作ったオードブル、海鮮や、島の野菜をふんだんに盛り込んだ料理をテーブルに出していった。何故か一つのテーブルに料理が山のように盛られていたが、そばから消えていくそれに×××は不思議そうな表情を作った。
「ねェお姉ェちゃ〜ん」
 皿洗いを手伝おうとした×××は、シュミットに、手が荒れる、疲れたでしょ?、そして、休んでて!等々言われ、厨房から追い出された所だった。手持ち無沙汰にカウンターに腰掛ける。すぐさま隣に誰かが座った。ガシリ、と肩まで組まれて、×××はその力強さに、前のめりになった。グラスをカウンターから引っ張り出し、彼女に酒を注いだリーゼントの彼は独りでグラス同士をカチンと合わせ、×××に持たせた。
「あ、ありがとうございます」
「ん〜ん、はいはい飲んでェ」
「いただきます」
 少し、傾け、ほんの少しだけ口内を潤した。飲ませたいのかと思ったが、形式だけだったようで、×××が彼のグラスに注ぐよりも、ひとりでビンを抱えて次々と杯を開けるのが好きらしい彼は、その後も飲み続け、×××が一杯あける頃にはその三四倍は飲み干していた。
「夜空にも輝くことを止まらない黒真珠のような艶髪をお持ちになるお姉さん、是非今宵にサッチという、美しいアナタに群がる醜男を覚えておいて下さいませんか」
「…」
 随分酔っているのだろう、×××が彼の言葉に唖然とし、彼の名前がサッチという人だと理解するまで、彼は普通なら返答を求めるだろうところをせずに、ペラペラと喋るものだから、×××は自分の名を名乗るために、強引に話しに割り込むしか無かった。
「…でな!そのマ―」
「あの!サッチさん。私も名乗らせて下さいませんか」
「ああ、そのサクランボ色の唇からどんな綺麗な音が紡ぎ出されるのだろうか」
 話の変わり身がその早いこと。×××は呆れた内心を隠すように口端を釣り上げ、笑みを作る。
「はァ、私×××て言います。お酒飲んで下さって本当に嬉しいです。以後お見知り置きを」
「はっはァ!×××ちゃんて言うのかァ!君によく似合って綺麗な響きだ」
 ええ、ええ、と相槌を打ちながら、彼の結構独り善がりな話しを聞いてやる。それでも彼の周りには聴衆が増え、×××は少なからず感心の意を込めて笑みを絶やさなかった。
 背後で、扉を閉める音が辛うじて聞こえた。×××はそれを、貸し切りだから普通のお客さんは入ってはいけないのに、という気持ちから、彼らの仲間かと辛うじて思い直し、振り向くことを止まった。
 そしていきなり隣に座っていた彼の腕が何処かへ消える。少し引っ張られたように横に体がずれ、×××は流石にびっくりして隣を仰ぎ見る。金髪。
 ハッ、と口の中の空気が引っ込む。次の瞬間には×××の顔は伏せられ、髪が視界を遮った。
「サッァチ!てめェ、止めろ、困ってんだろうが!…大丈夫かよい?此処の店員だろ?ウチのばかが世話かけたねェ」
 いらだつ声が急に取り繕ったようになり、いえ、と小さく言う。生憎サッチの大袈裟に痛がる声が逸れを阻んだが、彼には聞こえたらしくて、小さくごめんよい、と言い、先程までサッチが座っていた席に今度は金髪の彼が座る。あの時に放っていた雰囲気とは違って、ぶっきらぼうに見えて、何処か優しさを包んだような感じ。×××は前回の彼は、私に危害を加えようとはしなかった事を懸命に強く心に思い出し、微かに震える指先に気合いを入れた。そうすることであのような対応で返した自分を思い出し、一層罪悪感に濡れた。
 やはり、その声に聞き覚えが、というより、どこかで聞いたような声だと×××は思った。横で、静かに飲む彼をチラリと見ても、全然記憶に無いのに…。そんな彼女の、何度も確認するような視線に気がついたのか、向こうの空色の目が、チラリと視線が一瞬×××に向けられた。その目が戻され、一拍おいて顔ごと向けられる。その勢いの良さに×××はびくりと身を引いた。
「あ、…すまないねい」
「いえっ、あの!…この前は、あー、すみませんでした…あの、勝手に」
 これを逃せば、また自分は顔を下げてしまう、と思った×××は、語尾が下がりながらも、何とかこの間の非礼を詫びる、続けようと、彼の顔色を窺うと、なんだかよくわからない表情をしていた。ただ、寄せられた眉に×××は怯んで、しかし、直ぐに金髪の彼は言葉を被せた。だから、段別不自然では無かった。
「おれが悪いんだからよ、勝手な事しちまって悪いなぃ」
「あの、でも、私凄く失礼な事しましたし、謝らせて下さい」
「はァ、そうかい」
「それですみませんが、お名前を伺っても…」
 暫く、×××の目を見つめる。しつこく纏わりつくそれは突然終わった。フ、と笑って、小さく言う。目尻に皺のできる優しい笑みだった。
「ああ、おれはマルコだよい。おまえさんは」
「なァなァ、マルコって×××ちゃんと面識合ったの?仲良さげに話しちゃってさァずりィよ。そこ座ってたのはおれなんだぜェ?」
 二人の間に挟まるよう、明るい声。マルコと×××の肩をそれぞれ抱き、マルコの耳元でその酒臭い声を漏らす。そんな彼の様子に、普通なら酒臭いだのなんだので弾き飛ばす様子はみられず、マルコはゆっくりと目を見開いて言った。開いた口から心情が零れる。
「おめェ…、×××って、」
「あ、ご存知でしたかと…、呼んでいましたよね?」
 呆然と×××の顔を見つめるマルコを。彼の様子に違和感を感じ、サッチの腕につぶされかかった肩を上げ、彼の顔を仰ぎ見た。
「あれ、おれ無視?」
「ごめんなさい、サッチさん。マルコさんとはその、顔見知りで」
「サッチ、てめェどっか行ってろよい。邪魔だ」
 キョロキョロと二人を見る彼に、対応は極端なものだった。ぱっ、と二人から離れ、店の中央へ向く。両手を広げ、叫んだ。
「ひっでェの!なァ!みんなァ!マルコが美人を独り占めにすんだせ!許せるか!」
 許せなーい!と大合唱。そのままコールのようになり、サッチは二人に目もくれず、騒ぎの中に突っ込んでいった。わあわあと、サッチ様の一気を見せてやる!と叫喚し、周りが歓声を上げる。×××はそれを見送り、マルコの溜め息で、カウンター席に座り直した。
「あの酔っ払いが…」
「あ、あはは。賑やかですよね」
「うるせェくらいだよい」
 舌打ちをするのではないかと×××が思うくらい、マルコの口は歪められて、その苛立ちを隠すように酒を一気に煽った。そこだけ静かな沈黙が落ち、×××はふと気がついた点を見つけた。あの子に似ている。
「…あの、その語尾って、マルコさんだけですよねェ?」
「あ?変かい?そりゃおれだけだろうけどよ。こんなんは」
 片眉を上げる仕草は、少し間違えれば強面の男が、女性を脅しているようにも見える。雰囲気がなんでも無いので、誰も騒ぐ事もなく、流れる。
「変とかじゃなくてっ、他にそんな語尾を付けて喋る子がいたんです。もしかしたらご存知かなって。彼、結構有名らしいから…って、まあ今は居ないんですけど…」
 ×××は手をブラブラと動かした。ジェスチャーで、小さく楕円を作り、これくらいと示す。丁度、中型の猫が膝で丸くなったようで、マルコは目を細めた。
 懐かしさに緩む×××の顔が、暗く一変し、手が膝上に戻るのをマルコはじっと見つめた。
「…そうかい」
「それに、彼が持ってた世界観がとても似ているんです。ここに」
「似てる?」
「あ!え、と。ごめんなさい。夢の話なんかしちゃって…。」
 マルコの訝しげな声。すこし、語気が強まり、×××は自分の失言を、不自然にならない程度の空白と、言葉で補う。
「夢…。はっ、そうかい。夢か」
 青い目が、ビー玉のように、何も含まない光を宿し、くしゃり、と見えなくなる。グラスを握る手が強まり、指で何度も縁をなぞった。片手が目元を覆い隠し、表情が見えなくなる。笑っているのか、泣いているのか。×××はそんな狼狽したような彼の様子に目を瞬いた。
「あの、どうしました?」
 その問いには答えなかった。
「なァ、×××また会えねェかい?」
 にこり、と笑うマルコが言う。×××はそれが、出会った当初のエレノアとグリントと酷似しているように思えた。だから、少し返事をするのに時間を要した。
「私は構いませんけど。大丈夫ですか?旅の方ですよね?」
「ああ、一週間くらい居るからない」
 サラリと言い、始終笑みを浮かべるマルコ。×××の懸念などには、露ほども気付いていなさそうな様子。
「ええ、じゃあどこで…」
「店に行く。その時に色々話しをしたいねェ。待っててくれるかい?」
「ええ」
「じゃ、決まりだ」
 ありがとよいと呟き、席を立つ。あっという間に店から去ろうとする彼に、×××は引き止める言葉を投げ掛けようとした。
 その時、シュミットが彼女の目の前に現れる。彼の話しを相槌を打って流し、最中に扉の方を見れば、もうあの長身で独特な金糸の揺れる彼は見当たらなかった。

幻想曲
風の前の塵に同じ。
頼りの言の葉は枯れて
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