text | ナノ

 ソーサーに置かれた紅茶はもう湯気を出すことを止めた。得体の知れないクザンの冷たい目はツイ、と不意に×××の目の奥を探るように合わされ、×××はその視線から逃げるように斜め下に落とされる。口端を不自然に上げた彼女はやはり恐怖で怯えていた。クザンの口がうっすらと開き、×××はそれを視界から外す。
「嘘、やっぱり×××ちゃんがみんなに知られたくないんだよね。ごめんね。また、頻繁に立ち寄っても良いかな」
 ガラリと、先程までの雰囲気を払拭した様に空中に浮かんだ言葉は×××の耳に届いたようで、ハッ、と彼の方へ向く。その表情はまだ疑うように視線が定まらず、何処へ置けば良いのか決めあぐねているようだ。
「…はい、それはもうご贔屓にして頂ければ。それにクザンさんとして来ていただいても私は全然構いませんので。その…、直ぐに、そういう風には見れませんけど…」
 怖ず怖ずと確認するように静かに言葉を紡ぎ、但しキチンと冗談かも分からない彼の言葉に釘を刺しておく。クスリと漏れた空気はクザンのもので、×××はどれが彼の本心なのか、靄の中で自分がさ迷っているような感覚に陥った。
「あらら、気遣わせちゃったね〜。それとなくアピールしていこうと思ってたのに」
「あは、クザンさん最初っから直球でしたよ」
 最後に和やかに話しを終わらせ、近い内にまた来るから、と曰った彼が来ることはもう無かった。他の海兵も不自然にパタリと止み、×××はどことなく脳裏の片隅に引っかかりを覚え、エレノアにもグリントにもこのことを話すことは無かった。

 それもある日、×××にも気が付かないが、丁度此方へ来て半年が経った頃。バンバンと扉を叩く客に×××は目を見開いた。普段の客ならノックはしないものだし、したとしてもこの様に激しく叩くことも無いだろう。扉が開けられない人なのかと、そう思って、扉に寄り、開いていますよと声を掛けようとする前に荒々しく目の前の扉が開く。海兵の姿に×××は目を瞬いた。
「あの、如何しました?」
「×××だな?お前に薬物所持の疑いが掛かっている。家内捜索をさせてもらおう」
「え!?ちょ、ちょっと待って下さい!私、薬なんかやってませんよ!」
「それは此方で判断しよう。無駄な抵抗は職務妨害として別の件で問題になるぞ」
 さあ、と促され、仕方無く中へ通す。陳列棚の酒瓶を例外なく床に置かれ、店の隅々にまで捜索は及んだ。人の生活空間を暴かれるのは気分が悪い。×××は土足で(勿論どこも土足可)踏み荒らす三人を憎々しげに後ろから睨みつけていた。
 しかし、海軍が想像したものは一向に見つからず、一番位の高そうな、白いコートに堂々と正義を背負うものが×××に高圧的に話しかける。既に彼らの中では重罪人として扱われているようで、×××の顔は不快に歪んだ。
「こんなちっぽけな店に薬一つ見つからない。造り酒屋の癖に売ってるのは薬酒ばかりだ。ん?四方や酒の中に仕込む位朝飯前なのではないか?醸造所に案内してもらおうか」
「あなた達っ!勝手に言いたい放題してくれますけど、もしも冤罪ならどうするつもりよ!酷い侮辱ですね!醸造所には案内しません。あなた達みたいな人如何にも心が汚れているような海軍を、うちの神聖な場所に入れたら美味しいお酒が台無しだわ」
「き、さまっ」
 振り上げられる手に、×××は寧ろ叩けとも思った。何も悪いことを言っているつもりは無い。キッ、と強い視線を外さなければ、一応怯んだものの、勢いが途絶える事はなく、腕は振り切られ、強かに×××の頬を打つ。もちろんの事男の力は強く、×××の体は後方へ傾き、耐えきれずに崩れ落ちた。
「あなた、」
「少将だ、身の程を弁えろ」無視した。
「激情したら直ぐ暴力に訴えるなんて、海軍ってのはみんなそうなのかしら」
「公務執行妨害で良いな?」
 噛みつくように言う海兵は垂れた髪で顔を伺えない×××の手を無遠慮に掴み、引き上げる。痛みに顔をしかめたなんて知る由もない。
「何処にでも連れて行けば?私が無実だって分からせてあげるから」
 後ろ手に纏められ、外へ連れて行かれる。足で開けられる扉に×××は小さく悪態を付いた。グイッと拘束がキツくなり、口を閉ざす。
 その時、今までに聞いたことが無いほど憤っているような、今にも噛みつかんばかりに口端から漏れ出る声が×××の脳内を振動させる。
「その人を離してもらおうか…!」
 海軍は彼を知っているのだろう。一斉に振り返り、驚いたように私の手を拘束する手が震え、周りの二人が目に見えて怯え、声を上げた。
「きさまはっ!ふしちょ…っ!」
 私の真横に長い足が現れる。生じた風が私の髪を後ろに流す。くぐもった悲鳴は海兵から聞こえ、直後身体が地面に叩きつけられる鈍い音がした。見ることは憚られた。
「きゃあっ!」
 影になった瞳が私を貫いた。
 男はもう一人の海兵を蹴り飛ばす。…蹴られるかと思った。怯むように後ろの海兵に背中をぶつける。はらりと髪の房が肩を流れ、視界を狭めた。また男の雰囲気が殺気立ったように思われた。思わず目を逸らす。
 男は視線を×××の後ろに向け、睨みつけた。唯一その場に立つ海兵が、怯えを隠すように声を上げる。
「公務執行妨害だ!何が目的かは知らんがなこの女を助けるのはオススメしないぞ!」
 海兵の喚く言葉を聞く男は訝し気に片眉を器用に引き上げ、特徴的な金髪を揺らした。そして×××の名前を呼ぶ。
「×××?」
 イライラしているのだろうか、固い口調に×××は肩を震わせ、本来ならどこかで聞いたことのあるような声をはねのけた。
「ひっ!わたっ、私こんな人知らない!少将さんっ連れて行って!幾らでも私の無実を証明するから!」
「×××!何言ってるんだい!」
 愕然と、また慌てて上げた声を×××は無視するように少将に寄りかかる。恐怖に震える彼女を少将は手を離し、男から遠ざけるように、背の方へ押し込んだ。少将が男が男と対峙し、取り押さえようと動いた瞬間、男はキツく眉を寄せながら、頭の頂点に少し長めの金髪を揺らして、如何にも煩わしそうにそれを足で凪払い、身体の真ん中を踏み潰す。カエルが潰れたような声、唾を吐き出して気絶した。
 あっという間に海軍の三人が伸される様子に、×××は腰が抜けたようにへなへなとその場にへたり込む。残った金髪の男は慌てて体を支えようとしゃがみ込み、手を伸ばす。パシッと軽い破裂音とともに手を拒絶され、×××が声を上げる。
「触らないで!あなたなんか知らない!何処かへ行ってよ!」
 ピリピリした空気に×××はヒステリックに叫んだ。
 男がジッと私を見たような気がした。視界に見えた無骨な指が、ク、と曲げられ、諦めたように静かに体の横に垂らされる。
 男の一挙一動に体を震わせる私に、刺さる視線を合わせることは出来ない。微かな衣擦れと去っていく、地面を擦る音。
 そろそろと顔を上げ、辺りを伺う。遠くに見える派手な紫のシャツ。金髪に、気だるそうだけれども、あの様な感じはなく、鋭い目。想像してもブルリと体が震えた。
「(…でも、何故私の名前を知ってたのだろう…?)」
 座りながらぼんやりと思った。そう考えると、×××はある一点に辿り着く。
 もしかしたら、もしかしたら、私は唯一の悪者なのかもしれない。海軍の連行を阻止し、あの金髪は私の知り合いなんだ。私の器の。だってそうじゃなきゃあの人が私を知っているはずが無いのだ。あの人は私と知り合いのように、今は思えた。伸ばされた手は、私を支えるためにあったように思える。
「(どうしよう…)」
 取り敢えずへたり込んだ体を持ち上げた。汚れたスカートを叩きつつ、腰に巻いたエプロンを汚す。店の中を見れば、空き巣にも入られたかのように床に酒瓶が転がり、住居空間の二階も同様に荒らされていて、思わず吐き気を覚えた。
 のろのろと片付けながら思う。これは、海軍がまた来るのだろうか…。何時までも帰って来ないかもしれない。いや、帰っても彼らが話せば今度は三人ではなく、もっと大勢で私を捕まえに来るだろう。次は薬という不確実な罪ではなくて、暴行事件として。どうしよう。自首?でも何処へ?此処は駐屯所が無いし、でもそうしたら海軍が来たことも可笑しい、何故私の所へ来た?ぐるぐると不可解な事を巡って私の思考を埋め尽くす。あ、クザンさんに、相談したい。
 クザンさんの目を思い出し、次いで、あの金髪がポッ、と脳裏に浮かぶ。あの男性に、また会えるだろうか。もし私と知り合いなら、キチンと説明したい。謝りたい。私の記憶にあのような声を聞いた事があるように思えて、器の私の記憶の欠片が、残っているのかな。そしたら、本当に私が悪者だなあ…。
 鬱々と思考が暗くなっていく。ベッドの枕元の方に大学用に使っていた、随分擦れて使い込まれたそれを立てかける。パス、と枕に顔を埋め、はあ、と熱いため息をついた。
「×××さーん?」
 小さく、控え目に私に届く声、一瞬、佐武君を思い出し、あ、シュミットさんだ、と思い返した。
「はーい」
 パタパタとスカートを叩くが、矢張り少し土っぽい。あ、園芸用のエプロンを付ければ可笑しくないかな、と思って、しかしそれは一階の裏口にあることを思い出した。
「×××さん、どうしたの?お店開いてるのに君が居ないと危ないよ」
 ああ、どんどん声が近くなってくる。服の汚れなんかもう忘れて、急いで部屋から出た。丁度階段の中間にある踊場に彼はいて、不思議そうに首を傾げた。
「ごめんなさい、一寸服が汚れちゃって」
「…えっと、どうして?」
「え?あ、」
 珍しく口ごもる×××に、シュミットは一瞬真面目な表情をして、にこりと笑った。
「×××さん、一回着替えなよ。おれが店番をやってるからさ」
「ごめんなさい」
「どういたしまして」
「あ、ありがとう御座います」
「うん、ほら、良いよ部屋に戻って」
 シュミットは、後ろ手に手を上げ、階段を緩慢に降りていく。
 そう言えば、アノ子に警戒しろって言われてたんだ、だから、言い訳も考えずに飛び出して…、とまで考え、急に気恥ずかしくなって部屋に飛び込んだ。私はシュミットさんにまで何をやっているのだろう。
 手早く着替えて下に降りると、シュミットは、新聞から目を覗かせ、バサリと閉じた。此処に座ってと促され、彼と向かい合わせに座る。
「ねえ、どうしたの、何かあったんだよね?」
「…」
「顔色が悪いよ。おれじゃ駄目ならエリーさんかグリードさんを呼ぼうか?」
「駄目!」
「…、店は閉店にしておいたよ」
 その一言が、私の口を割るきっかけになった。
「…聞いて、私、何か疑われてるみたい、それで―」
 海軍、それと金髪の男性の話しをした。但し、向こうがこっちを知ってるとかではなく、助けてくれたつもりだろうが、暴行事件に発展しないか、そんな話しを。
 暫くシュミットは腕を組みながら唸り、私の目を見つめた。
「君が、彼らに暴力を働いた訳ではないし、ちゃんと無罪になるよ。それにこの島は世界政府に属して無いのだから、海軍の管轄外だ。それは可笑しな話しだね。普通に対応すれば、君が捕まることはないよ。」
 本当にそうか、と小さく呟く私にシュミットはおれの目を見て、と囁く。
「大丈夫だ。これからおれが×××さん側に居るようにする。それじゃ安心出来ない?」
「でも悪いし…」
「おれ、好きな女性は笑顔でいて欲しい。それに金髪の男がまた君の前に現れるかもしれない」
 私が彼に会いたいなんて、シュミットには言えない。真剣に私の身を案じる彼に、私は眉を下げながら微笑んだ。
「ええ、ありがとう。側に、居てくれる?」
「勿論さ、…抱きしめて良い?」
 おどけて両手を広げる彼に、私は是と返し、ぎゅう、と両腕が私を包む。静かに胸に頬を預けて、目を閉じた。
「×××…」
 小さく、シュミットが囁く。×××はそれに答えられないのを知りながら、甘える自分に嫌気が差した。いっそ、忘れてしまえれば、どれだけ楽だろう。まだ、あの小さな夜を思い出して、×××はシュミットの胸に頬擦りした。頼れる誰かが欲しかった。

小夜曲
君を想う
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