text | ナノ

 ×××の毎日はそれは非常にゆったりと、忙しく流れた。以前、エレノアが言ったような、島一番の酒は無くとも、実に1ヶ月もしない内から営業を再開した×××の酒を、親しみを込めて求める地元のお客は多く、常に×××には少しの慰めと、多大な労いの言葉に励まされ続けた。何かを言われる度、×××の表情は全てを受け入れないまでも、嬉しそうにはにかむことも忘れなかった。そんな健気な様子に島の住人は胸をほっこりと暖められ、満足した顔で帰って行くのだった。
 これはそんな彼女の日常に一人の男性が加わる。
 平日の昼間、×××はもう2ヶ月前から親代わりの、中年夫婦の喫茶店にて昼食を取っていた。昼を終えてからは、×××にとって日常となった毎日の様子を話すのがまた日課となり、エレノアとグリントはにこにこと微笑みながら聞く。その最中に来客を伝えるベルがチリチリと可愛らしく鳴る。自然と会話は終息し、×××は口を潤すために紅茶を一口、口に含んだ。
 入ってきたお客は、×××の隣、空席を一つ挟んでカウンター席に腰を下ろした。その様子に×××は何気なく目をやり、その人が男性で、ここ最近店にわざわざ顔を出して買い求めている個人客である事に気がついた。丁度向こうも×××に気づき、あ、と驚きつつもにっこりと微笑む。×××も口端を上げながら会釈を返し、男が話すのを待った。
「×××さん、ですよね?おれ、シュミットって言います。あの!何時も×××さんのお酒を買いに行ってます!偶然ですね。あ!おれの事、顔覚えてますか?」
 ペラペラと軽快に喋り、あっと手を打って、伺うように×××を見る。そのくるくると変わる表情と、フレンドリーな彼に誘われて、×××は小さく笑みを作りながら、覚えてますよ。とだけ返した。
「嬉しいなあ!おれ、×××さんのお酒好きで、再開して本当に良かったって思ってるんです。最近、調子はどうですか?」
 ×××の短い返しにもシュミットは嬉しそうにそう返し、紅茶を飲みながら、また身振り手振り話す。どうやら随分なお喋りで、カウンターの向こうからエレノアの少女のような笑い声がクスクスと漏れ、すぐ後に二人の前に姿を表した。その手にはカップを持ち、自分も休憩に入るようだった。×××がシュミットに返事をする前に、シュミットはエレノアにも(エリーさん!お疲れ様です。どうぞ、此方にいらして下さい。×××さんが、今丁度いらしてて、おれと話してた所なんです)話しかけていた。
 クスクスと笑うエレノアに、×××は話し出そうか、口を開いたままで止まった。シュミットが×××を見、促したところで、×××はエレノアに断りを入れながら口を開いた。
「ご心配ありがとうございます。最近はやっと感覚が戻ってきたのか、薬酒の方にも手をつけようかと思いまして、シュミットさんくらいの若い層ではなく、お酒を諦めた壮年の方にも飲みやすいものを提供できたら幸いだと思っております。勿論シュミットさんでも飲んで悪いものではないので…ぜひ」
 にこりと商売用の挨拶を言い切る×××にシュミットはにぱ、と満面の笑みを浮かべて、紅茶を啜る。
「×××さん、格好いいなあ〜。うんうん、×××さんとはまた別の形でお付き合いしていきたいよ。あ!早速だけど今週末は空いてる?」
 カチャリとソーサーにカップを戻したのは×××のカウンターに置かれた手を握るためだった。×××は固まり、エレノアは目を何時もよりまん丸くさせ、キラキラと煌めく。
「まあ、シュミットさんておもしろい方ね。×××、あなた息抜きも必要よ。シュミットさんとデートしたら?」
 名案とばかりに軽快に奏でられた手に、シュミットが笑顔で同意を示す。
「え?あ、」
 言い惑う×××にシュミットは肯定の方向で話しを進める。
「おれね、オススメのところがあるんだ。どう?島でもかなり穴場にのとこを紹介するよ?何だったらおれの友人も呼んでダブルデートも出来るし」
「え?え?」
 こんな形でお喋りでちょっぴり強引なシュミットさんとは何だかんだ仲良くなり、友人以上恋人未満な、とても快く、気持ちいい仲を続けさせてもらっている。

 様々な生薬を使い、薬酒を作るようになってから、やはり噂が立つのか、レストランや、薬局では本当に養命酒の類を取り扱うようになり、また×××の名前が知られるようになった。
 バサリとこの島の地方新聞を広げる。×××は新聞に小さく載る自分の写真を、まるで別人のように感じた。この記事になるときの取材で、エリーさんやグリードさんは喜んで同じ通りの人達に宣伝して、多分この号は何時もより数部多いのだろう。あれからあの猫の声が聞こえる事はなく、器、という言葉が私の頭を離れることはなかった。常に私という精神が私そっくりの器を動かしているようで、目覚めてから5ヶ月目に入っても、エリーさんやグリードさんを呼び捨てには出来なかった。
「(彼女は、昔こんな風に新聞に載ったのかな。エリーさんたちが喜んでくれるのは嬉しいけど…)」
 新聞をめくっていると、来客を告げるベルが鳴った。バサリと閉じ、カウンターの三脚から立ち上がる。
「いらっしゃいませ。…海兵さんが訪れるのなんて珍しいですね」
 ふと、服装に目を止めれば、白い羽織りを片手に持ち、少々崩れてはいるが、確かに海兵の服装で、×××は気付かれない程度に警戒しつつ、穏やかに言った。ただ軍人に素人技は見抜かれる訳で、その海兵は両手を軽く上げ、だるそうに口を開く。
「あらら。別にこの店に問題があって来た訳じゃないんだよね」
「あ、そんなつもりで言ったわけじゃ無いんです。ただ、初めてなだけで…。非番でしょうか?」
 ま、そんなところ。と返す海兵はポリポリと脳内で頭を掻く。海軍の駐屯所が無いこの島に海軍は余程の事が無ければ訪れないだろう。つまり、海軍の彼はサボリなわけで、非番でもなんでも無かった。珍しく、お酒が欲しくて、偶然に立ち寄っただけだった。陳列棚に並ぶ酒を物色しつつ、瓶は小振りながら、施されている丁寧な説明に男は感心しながら言った。
「あらら、こりゃあ、薬酒かい」
「はい、今手に取っていらっしゃるものは良く冷えますお方に勧めていまして」
「へえ〜いいね。他にもあるってわけ?」
「はい勿論。五臓六腑に効く全てを取り揃えるようにしております。勿論普通に楽しめるお酒も御座います」
「ふゥん…。」
 訪れたお客様は少し変わっているようにも思えた。着崩した制服は非番あるといるのだから、まあそういう状況になる時もあるだろうと思うが、額に上げてあるアイマスクは何なのだろう。とても背が高いので、気がつくのが遅れたが、普通に思ってもちょっと変わって居る人なのだと思った。
 ぼんやりと彼を見ながら思っていると、もうお酒が決まったのだろう。両手に一本ずつ、しかも一本は初めに手に取ったもので、×××は気遣うようににこりと微笑んだ。もう一本は養命酒で、この店で薬酒の中では一番人気があるものだった。
 中型の風呂敷を取り出し、二本纏めて包む。取っ手を捩って作れば、海兵は感心したようにはあ、と溜め息混じりに声を出した。
「お客様は初めてですので、風呂敷は只なんですけど、次回また持ってきて下さればこの様にお包み致しますので。ビンは各自処分をお任せしております。勿論持ってきて下されば本店で扱いますので宜しくお願いします。お代は此方になります」
「あらら、こりゃ話題に上がるだろうね〜。はいはい、ありがとさん」
 お代よりも多くのベリー札をカウンターに置く海兵。×××は慌てて呼び止めるが、彼曰く「お姉さんに会えた記念」らしく、×××に何か言い募られる前に、彼には大凡伺えなさそうな素早さで去っていった。
 これを機に、×××の造り酒屋を訪れる海兵がチラホラと増えた。×××はこれを、あの海兵が自分の駐屯所で紹介した御利益だと感謝の気持ちで受け止め、アイマスクの海兵は逆に、此処へあまり海兵が来るのを快く思うことは無かった。
 ある日、丁度×××が店仕舞いをし、醸造所に行こうとしたところ、背後に気配を感じ、振り向くのと同時くらいに声を掛けられた。あの気だるそうなアイマスクの海兵だった。
「や、」軽く手を上げる。逆光で表情は分からない。
「あ、今日は。今日はもう終いにしようと思ってて…」
「あ〜、あのさ、おれクザンって言うのよね。今は店主じゃなくて、俺は海軍じゃなくてクザンで、お茶してくんないかな〜?」
「あ!はい。あの、×××って言います」
「そ?はいじゃあ行こうか」
「あの、ちょ、これだけ取らせて…」
 そのまま手を牽こうとする彼を止め、腰から垂らすタイプのエプロンを取り、中のフックに引っ掛ける。鍵を掛けるのを待ったクザンは早速と×××の手を引き、街中のちょっと今時で、ランチが過ぎた後も若い子で賑わう喫茶店に入った。
 向かい合うように座り、×××はアイスティ、クザンはエスプレッソを頼んだ。
「突然誘っちゃってごめんね〜」
「いえいえ!あの何時もご贔屓にしていただいて…」
「あー、あれ?おれやめろって言ってんのに行くんだよね〜」
「え?クザンさん、勧めてくれた訳じゃ無いんですか…?」
 座って、頼んだものが来るまで軽く話しをする。そうだと思っていた×××がまさか本人に否定される、寧ろ薦めていないと言われ、返事を心持ち鬱々として返せば、クザンの怠そうに背もたれに預けた体を僅かに持ち上げ、片手を振った。
「あら、あらら。違うよ〜、勿論×××ちゃんのお酒は何時も美味しく頂いてるけど、…独り占めにしたくなっちゃうでしょ?」
 にこ、ではないニヤ、と形容する方がぴったり来るような笑みで返され、再び×××は返事を窮した。美味しいものを作ろうと意識はしているが、直接言われるとどこかくるものがあった。
「え!あ、ありがとうございます。本当に気に入って頂けたようで、…嬉しいです」
「あらら、照れちゃって可愛いね×××ちゃんは」
「わー、やめて下さい…」
 丁度持ってこられたアイスティを慌てて口に持って行き、赤い顔を隠すようにする。クザンは一口エスプレッソを啜り、ソーサーに置きながら、目を斟酌するようにしてきょろりとさまよわせ、ピタリと×××の目に合わせる。
「う〜ん、やっぱりうち来ない?あれには×××ちゃんは勿体ないもん」
「え?うちに来るって、それにあれって何ですか?」
 両肘をつき、組ませた指とその上に顎を乗せて、考えた割には決まっていたような口振りで言った。だが、×××はどこか的を得ない引っかかる思いを感じ、質問に質問を重ねた。それにクザンは答えはせずに、急速に結論を急いだ。
「ん〜、俺に嫁いで来ない?って言ってるの」
「は!?」
 肘を机に置くことは止めたが、プロポーズと言って良いなら余りにも軽すぎる調子に、×××は目を見開かせた。
「あ、驚いちゃった?ごめんね〜」
「あの、此処で返事しなきゃいけないですか?」
「うん」
 真剣みにかけるクザンの言葉に、×××は訝しげに眉根を寄せ、困ったような表情を作った。一体彼にどの様な感情を持てば良いのだろうか、計りかねた。
「…、あの、クザンさんのお言葉は嬉しいですが…、私まだあなたの事良く知りませんし…」
「駄目かな?」
「結論的に言ってしまえば…、でもっ、これからどうなるか分かりませんから、」
 余りにも意外そうな顔を作るので、クザンは私がはい、と言うのだと予想つけて臨んだのだろうか。私には逆にいきなりすぎて話しに付いていけないと感じているのに…。
「…、ん〜。そっか…、じゃあ真面目な話し、造り酒屋をさ、やめちゃいなよ。」
 突然変化した声色に表情。吐き出されたこの声の方が真剣味を帯びて私の鼓膜を揺さぶる。
「え…」
「それでさ、暫く神隠しにあったようにしてさ。×××って存在を一回消した方が良い」
「クザンさん、それってどういう…」
「もう、それか、おれが奪っちゃおうか」「…」
 淡々と言う彼はまるで私なんか居ないものとして扱って居るようで、暗い雰囲気にとうとう言葉を失う。繕われた笑みはもう削がれてしまった。
 なんで。
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