text | ナノ

 船に戻った直後

 ×××さまを違うと罵った男は、下から見上げると、やはり憎たらしい鼻が見えた。名前だってどうだっていいって言う。てこはファルて言う事に意味は無いのかな。
「トラファルガー」
 試しに呼んでみる。ふと、視線が落ちる。訝しげに歪んだ顔。困惑が少し混じる。他にも周りの船員の顔も一斉に私に向いた。…なんなんだろう。
 と、思っていたらファルが忌々しそうに口端を歪めて、絞り出すように言った。
「…気持ち悪い」
 ファルの一言に、周りの船員たちが作業にだんだんと戻っていく。なんだか一瞬空気が重くなったようだったのに、変に緊張してしまった私が声を上げる。
「なんだよ!! 自分の名前だろうが!」
 ファルが眉を片方だけ上げて、もう片方を下げて、口までへの字にした。…すっごいむかつく顔。海を見つめていた視線が完全に私に移行する。別に見なくても良いけどね。でも、投げやりに返事をしたファルはあっという間にまた私から視線を外してしまった。おいおいおいおい!!
「あーあー、そうだな。…ペンギン、おれァ寝てくる。あとは頼んだぞ。潜水態勢に入れよ。海軍が追ってくる前にな。後二日したらこの近海からも抜けるからな」
 はいはいと適当に返事をしたペンギンはしかし真剣な雰囲気を纏わせて周りで忙しそうに動く船員たちに鋭く命令を出していた。
 そして、さっきまで向いていた全ての視線は私から離れていった。甲板に座り込んでいた私は立ち上がる。
「おい! ×××さまが帰ってきたんだぞ! 無視か!」
 でも、私の声はどこにも届かないようで、ペンギンが冷静にファルに尋ねる。その合間にも指示を飛ばす。
「イエッサー。何日寝るんで?」
「単位違くないか!?」
 私の言葉が空しく青空に響く。全く無視された状態はちょっと悲しい。ファルに縋るも奴はまた私を見ないで薄く笑った。淡々に告げる言葉は大きく無いのに、男達の騒がしく動き回る喧騒の中でクリアーに聞こえた。
「二日」
「ファル!」
 ぶんむくれて、奴の細い腕にぶら下がる勢いで暴れたら、やっと奴はこっちを見た。薄く笑っていた顔。笑みが深まった。
 こっちは怒っているのに全くなめた奴だよ。くすくすと笑ったペンギン。ちらりと見たらファルに頬っぺたを掴まれて首がこきりと鳴るほど強く捻られ、彼を視界に入れるよう調整された。いっだッ。な、何なの。自分は見なくても私はお前を見てろってか!
「あん? ポチなに喚いてんだ? テメェも寝るんだよ。さっさときやがれ」
「はァ?」
 痛みでと、苛立ちで歪んだ顔を晒す。頬が掴まれたままブニ、と唇が突き出す。
「良いから。おれの命令に背くな」
 ガブと鼻を噛み付く動作をする。ビク、と体を引いたら、今度はファルから、私の背中に腕を回し、引き寄せてはニヤニヤと笑った。
「くっそー!」
 騙された、と思ったのは直ぐだった。手を振り上げて逃げようとしたらヒョイと頭を後ろに反らし、それを避ける。くっそー!
「はは、じゃ、潜水態勢にはいりますね」
 笑ったのはやっぱりペンギンだった。ボーン、と大きく音が立ち、船が微かに振動した。甲板の先頭に視線をちらりとやると、流石にふざけ過ぎたのか、海軍の船が小さく見えた。
「おー、しっかりしろよ」
 本格的に逃げる態勢に入ったのか、ファルも一瞬真面目な顔をして、足早に船室の扉に向かった。
「なァなァ! もう! ファル!」
 手を、いや手首を掴まれて、船室に引きずられていく。暴れてもぐいぐいと引いていくファルはびくともしない。回りの視線がニヤニヤしてる、何で見てるんだよ。そういえばあいつら何で私が人間だって、違和感無さそうにしているんだ?まさか知ってて…。
「しらねェよ。変な事考えてんな」
 扉の向こうに消えた船員をまるで見えているように視線が追いかけた。歩こうとしない私を、ファルがまたぐいと引っ張って、今度は薄い手が私の後頭部を抱えて前に突き出す。たたらを踏んで奴の隣に並ぶ。
「えッ何で分かったの!?」
 驚き、斜め上を見上げたら、相変わらず顔色の悪い顔が、ジと私を見下ろした。呆れたように小さく息をついて、呟いた。
「相変わらず顔に出る。テメェの考えてることなんかすぐに分かる」
 さっさと歩くファルの後を追い掛ける。私の前を歩いて行ってしまう彼が小さく笑っている事には気が付かなかった。
 結局彼の部屋までたどり着いてしまい、何ら違和感無く入った。覚えているからか、入った先の部屋でも、鎮座する白いソファ。覚えている。ファルがベッドに直行した、横目に、ソファに近づいて行った私は、背もたれを静かに撫でた。あの時とは違う白い手がふわふわのそこに埋まる。
「…じゃ、何であいつら分かってるの? 私、忘れてたのに」
 覚えている、と思った瞬間につまり私は忘れていたという事なんだと思った。あーと納得しているようにわざとらしく声を溢した。
「そうだよな、忘れてたよなァ。ん?」
「う、あ、謝らないぞ。私、悪く無いもん」
「ああ知ってる」
 ソファに向けていた視線が、ファルにむきそうになって、でも怒ってると思ったから、ギュと目を瞑った。だって、あの時はジョージが、
 思い出して、声が震えるかと思った。でも、ファルがその前に知ってると至極落ち着いた声を出した。は、と目が開いた。
「なァ、知ってるって口癖?」
 今度こそ振り向いた先、ファルは真顔で、私を見ていた。ジイと刺さる真摯な視線に焼き殺されそうだ。濃い隈、覚えているものより、やはり一層濃い気がした。
「いや。さ、戯言ももう終わりだ。おれもいい加減眠てェ」
 静かに否定した彼は、ベッドの上でゆるく欠伸をした。鼻の上に皺が寄って、クアと開けた口、鋭い犬歯と、赤い舌が見えた。
 そっと、近づいていく。欠伸をした後の彼のシアンブルーの瞳がうっすらと涙で潤んでいて、ふと、彼もちゃんとした人間なんだと思った。
「ファル、眠たいの? いつもペンギンはお前が寝ないって言ってたぞ。あ、でも私が見たときは寝てたなァ」
「あー。おれも人間だからな」
 このあー、も一瞬前に零れた声と同質のものだった。
 すっかり彼の傍ら、ベッドサイドに佇んだ私は、一瞬前まで思っていたことを彼に言われ、微かに怯んだ。
「そっか、そうだよな!」
 ニコ、と笑みを取り繕うと、ファルが涙を指で掬い取った後、訝しげに眉間に皺を寄せた。
「おい、テメェ。今なに考えた?」
「え、何も!!」
「へェ」にやりと笑って、目を下に落とした。口の歪みだけ見えた。
 気付かれてる。絶対。
 ファル独特の威圧感に圧されながらも、振り払うように、彼の細い肩を掴み、押す。
「ほら、寝るんだろ!? ほらほらァ、寝ろよ。ここにいてやるから!」
 仕方ないなあと笑っても、彼の鋭い視線が私に纏わりつく。嘲笑うような言葉が彼の薄い唇から吐き出される。
「あん? おれの言った事覚えてるか? テメェも寝るんだよ」
「えー! 私やだよ」
 嫌だよ。だってファル、私のこと押し潰すし、ギュて抱き枕にするし、一人勝手に寝ちゃうし、それに私まだ眠たく無いし!!
 唇を突き出しても、彼に通用する筈もなく、ファルもブスリと不服そうな表情をして、決まったようにバシリと言い放った。
「おれに命令するな」
 あ、これも奴の口癖だよね、と茶化すよりも前にイラとする。ほんと、私が帰ったらこれだよ。図々しい奴!
「はあー? 何で×××さまがファルの言う事聞かなきゃいけないのー?」
 わざと鼻をツンと上に向け、彼を見下す。ファルの上目遣いなんて滅多に見られるものじゃないからな。フフフと笑う。だから彼の視線がだんだん鋭くなっていくのが見えなかった。
「…」
 ファルが黙っているのが不自然なんだって気付けば良かった。スルリと肌をさする優しい手つきに戸惑った時には私の視界がぐるりと引っくり返って、ボスンッと私の体がベッドに直撃した。私の体を絡め取る腕から逃げられず、ファルの抱き枕になる。腕ごと背中を抱え込まれ、完全に逃げるすべを無くしてしまった私は声を張り上げた。
「わぎゃー!! やーめーろー!」
 バスンと毛布が私の視界を遮った。くぐもる声。一瞬無くなった一本の拘束がまた戻ってくる。ギュウと締め付ける腕に抵抗。抵抗!!
「ペンギンー! サチー! ベポー! 助けろー!」
 暗い視界、モフと何かが首筋に触れた。奴の髪か。スルリと首筋に何かが擦れる。彼が私の肩口に鼻を埋めて、静かに息を吐いたんだ。
「…」
 スルリと足に巻きつく奴の細い足。ちょ、てゆーか、コイツは寝てるのか?さっきからかなりの音量で叫んでいるのに。扉の向こうまで聞こえていてもおかしく無い。なのに、なんの反応も無いわけで、私は完全に身動きが出来ない状態で、微かに首を捻った。
 息は静かに吐き、吸う、スウと音が漏れるだけ。…。
「あれ? ファル?…トラファルガー?…ろー?」
 私が黙れば完全に静寂が訪れた。衣擦れの音も、何もかも。海の深海に落ちたみたいだ。スーと吐息が二つ、私とファル。
「…」
「…ほんとに寝た」
 ピクリともしないファルに、私は感嘆のため息をついた。
 でも、思えば、何時もより隈が濃かったし、やっぱり寝てなかったのかな。なんで?でも、私はぼんやりと、なんとなく、私のせいなのかな、って気もしてきた。でもきっと、いやきっとじゃなくて、私の望みだけど、私は彼が私を探してこの島に上陸し、私を連れ戻すことに尽力したと信じていたいんだ。穏やかな寝息を聞くだけで、私の心が穏やかになっていく気がした。
 獣の時と違って、囁く事の出来る私は今度こそコイツに言ってやるんだ。
「おやすみ」
「…」

船に戻った直後
船長室での囁き

おまけ
「なァ、聞こえる?」
「確かに×××の叫び声がなァ」
「でもよー、ぶっちゃけ二人さ、ナチュラルにいちゃいちゃいちゃ…てか×××て人間で見るとあんなんだったんだな」
「だよなー、女かよ。しかも、しかも、」
「しかも良い過ぎ」
「アイツにおれはビビってたのかよ。くっそダッセェ」
「…今更? てかお前のビビりもいい加減に直した方が」
「うっせ!」
「シー、馬鹿、声上げるなよ」
「おっと、ワリ。でもま、心配しなくて良い感じ?」
「だろうな。どうせ船長が×××をベッドに縫い付けたかなんかだろ」
「あーあー。キャプテンだけずりー。良いなー。女」
「止めとけ。あの人独占欲強いから」
「さーてと、操縦席に戻ろうかペンギン君」
「お前が行こうっつたんだろシャチ」
「そうだけどさー…」
「はいはい──加減に…」

「いい──ベポに慰───………」

2011/12/22
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