ジョージとの生活はそれなりにスムーズに進んだ。私がどれだけイライラして、怒鳴り散らしても、彼はニコニコと笑って、優しく諭した。 その度に反抗する気力を削ぎ落としてしまう彼の笑みは、実は魔法なんじゃないかとも思った。それはある日の夜、パジャマに着替えようとクローゼットを開け放した時。お気に入りのそれを取りだそうと、小さな引き出しの中を漁る。しかし見当たるはずのものが無く、ガサゴソと、奥の方まで手を伸ばしてみると、 「…なんだこれ」 ピラリと広げてみれば女物の下着。絶対に私のものじゃない。理由は分かるだろ。 何で、こんなものが…?だって、私しか居ないのに…。 カタリと向こうの部屋から椅子を引く音が聞こえる。私はその大人しい色の布切れを掴むと、リビングへ行こうと立ち上がった。 「おや、それは」 「そう。何これ? 爺さん、アンタ一人だって言ったじゃない。どこに女がいるのよ!」 グリーンの瞳がキラリと輝いた。私の言葉に衝撃を受けたのか、いつもは微笑んで見えないそれが双方とも良くみえた。 私は気づかない内に、彼を責め立てるように喋った。怒ってもないのに、不思議と最後は吐き出すように怒鳴る。 「確かに、一人と言いましたが…。×××さんにこれを伝えるには少し辛いですが、聞きますか」 辛いと言う割に微笑んでいる。静かで痛い彼の言葉に、私は神妙になってコックリと一度首を縦に振った。彼の笑みが深まった気がした。緑の目は良く見えているのに。 「それはですねェ…――」 テーブルに置かれたランプが、風も無いのに、ユラユラと揺れている。大きくない部屋をぼんやりと照らし、目の前に座る老齢の男のシワの多い顔を強調した。灯りに合わせてく影に気分が悪くなる。逸らした視線は窓を捉え、微かに吹いているであろう風が、ガラスを小刻みに揺らした。 手先が急に冷えた気がする。 彼が話し始めて、終える直前、私は今すぐこの家を飛び出してしまいたいと思った。寒気に体がブルブルと震える。私の意識に体が付いて来ないもどかしい気持ちに、息がヒュッとえづいた。 「――なっ」 緑の目は今や怖いくらいにキラリと煌めき、一瞬目を奪われた。くらくらと、した。 「×××さん。これは悪い夢だったんですよ…"忘れましょう"? じいは今×××さんがいて幸せなんですよねェ」 穏やかな様子は、全然変わらない。ホッとつく安堵の溜め息。全身の力が抜けたようだった。 「…うん。ごめんなこんな、こんな? 話持ち出しちゃって」 くたりと、一気に疲れが全身を回る。視線は落とされ、何時みても白魚のように美しい己の手の平を見た。力を込めていた様で、静かに広げてみても、爪が平を傷つけた跡は見えなかった。 「良いんですよ。さて、もう寝ましょう。お好きなパジャマは見つかりました?」 「ジョージ、寝ぼけてるの? 私のお気に入りはジョージが洗ったんじゃない」 「おお…、そうでした。いや、物忘れが最近酷いですねェ」 物忘れ、か。何だかさっきまで、手に布切れを握っていたような、不思議な喪失感を感じながら、私は彼と寝室に引っ込む。 だから、少し、ほんの少し彼のグリーンの目が怖い。原因は分からないけれど、私が彼に背を向けている時とか、外に居る時、感じる痛い視線。一回振り向いた時、彼は変わらず微笑んで、緑の目は隠れて見えないことに安堵した。 今日も、ファルたちと会う。それをジョージは笑って承諾した。ただ、家に誘ったと言ったときには断られた。何故かは知らない。 ずっと、続いていく石畳。コツリ、カツリ、ブーツの底を打つ。ザワザワと耳を打つ喧騒。遠くに聞こえていた声が急に耳元で鳴る。 「…×××?」 「え?」 少年のような声に、なんとか答える。先程から何度も呼び掛けていたようで、黒い瞑らな瞳が不安そうにキラキラと涙を湛えていた。 「え? だからさ、どうしたの? 疲れたなら休もうか?」 「ん、ううん! まだ歩ける。ちょっとボンヤリしてただけ」 柔らかい手が、私の頭にポンと乗る。フルフルと首を振るうと従って落ちる。それをキュッと掴んだ。周りの視線が痛い。白クマのベポはピルピルと震えて小さく歓喜の声を上げた。 「…」 視線が痛い。キョロリと目をあちこちに投げると、直ぐ斜め後ろにファルがいることに気が付いた。チラリと交差する視線だけで、奴は何も言わない。ダルそうにジーンズのポケットに手を突っ込み、私から離れた視線は流れていく人の喧騒を追った。 ベポの声にファルから視線を逸らした。 「そっか。じゃあさ、どうおもう?」 「え」 えと、と戸惑う声。ベポは何かを言いたそうにもごもご口の中で言葉を砕き、音にはならない。 ハッ、と聞こえた音は、ファルが鼻で笑った声だった。続く声は投げ遣りに吐かれ、私の視線と噛み合わない。人の流れに逆らって歩けるのも、私の両隣の二人の雰囲気が他と違っているからだった。夕日になりかける明るい太陽が建物の隙間から光を放った。きゃあきゃあ楽しそうな児童を、私たちの目が自然と追い掛けた。 「馬鹿、全然聞いてねェな。海軍だよ。何かあってきたんだろ? 最近のニュースだよ。海賊でも来たのか? 見当もつかねェかって聞いてんだ、さっきから」 丸で世間話をするような口調。ファルは一度も意識して私を見なかった。探し物があると言っていた。だからだ。 「…私、知らない。だって最近この島に来たし…、でもそんな警戒してないんじゃないの? だって、危ないならジョージが真っ先に私に言ってくれるもの」 「生憎おれらも同じ意見だ。探しもんにも、関係無いだろうな」 「ああ、トラのこと?」 やっぱりと零れた言葉に、初めて奴と目が合う。濃い隈は、私を威圧しているように感じた。久し振りに絡む目は探るように、無機質に感じる。 「…何で知ってやがんだ?」 声まで硬い気がした。繋いでいたフワフワの手の感触を思い出す。キュッと握られた方から、慌てて声が上がった。 「おれが言ったんだ。キャプ…、…ロー」 「ふうん」 一瞬、ベポの口がまごつき、何でもないように呼び掛ける。私の首が左右へ往復し、何回目か、彼を見上げると、何でもなさそうに口端を歪め、唸った。 「…見つかりそうなわけ? てか何で探してるの? 宝探しみたいな?」 「そりゃ…、まあそんなもんだ」 「ロー…?」 そんな感じなの?ファルのお気に入りって、トラって言うのはキーワードなのかな? だから、素直に聞いてみた。この不健康そうな男が探している物をちょっぴり知りたい。別にコイツの為じゃないけどな!ベポが不思議そうにしてるし、私の友達だからな! 「ふうゥん。トラかあ、置物?」 「いや、生き物」 「…動物園でも開く気なの」 ジロジロと周りの視線が私たちを捕らえる。白クマだから?でも私も歩いていく島の人間と同じ様に、胡散臭い視線を彼に投げつける。 「違ェよ」否定する言葉に動揺は見られない。クスリと笑い、奴の涙袋が微かに膨らんだ。 「ふうーん」 その後、町から離れ、遊歩道を通り、海を覗ける小さな丘まで歩いた。途中町で取った休みもあって、体は軽い。小さな島を殆ど一周して、とうとうその丘から見える夕日が沈み欠けていた。 トラは、見つからなかった。無言になってしまったファルがゆっくりと海にユラユラと溶ける夕日を眺め、暫く経つ。ベポも私も、彼に倣うようにそれを見つめた。さあさあと草木を揺らす微風が私たちを縫って吹いた。 森から感じる生き物の気配。チラリと後ろを振り向いたが、何もいない。もしかしたら、彼らの探し物は、ずっと私たちをみていたんじゃ無いだろうか。まだ見ぬそれに、少し背が震えて、首を戻した。ベポの手を握ると握り返してくれる。 歩いて火照っていた体が冷める頃、ファルがふと呟く。 「さて、と。もう今日もおせェ、日入りも早ェし…、送ってってやる」 一筋に見える赤い光が今にも海に浚われそうな時、彼が薄暗い空の元、突然振り向いた。鋭い視線に射抜かれた。サワリと、私の背後の森が答えるように微動する。 「え、いいし」 「おれが×××を送りたいんだ。良い?」 間髪入れずに、ベポの柔らかい促し。二人の間では決まったように、私の行動を囲んで逃がさない。あれ、と不思議に思った。でも、小さな疑問は直ぐに消える。ベポが言うなら。 私の首は緩く縦に振られていた。 「それは、うん、良いけど」 「おれじゃ駄目なのかよ」 ウンザリした表情。いや、私もだけどねッ!むー、とした私にニヤリと笑うファル。眉にシワを刻んで、コクリと頷く。 「うん」 「…ッゼェ、…おいさっさと行くぞ」 スッ、と延ばしかけた薄い、刺青の入った手の平。ピクリと目を見開いてそれを追った。ニヤリと笑って近付いたそれはあっと言う間に私の顔を覆った。ビクッと引いてベポにくっ付いた。クスクスと笑ったファルが、そのまま眉間をグイグイと押してゆっくりと離れていった。血の通いの悪い手は、夜風にも吹かれてか、ヒンヤリと冷たい。スウと顔を風が撫でていく。 瞑っていた目を開く頃、ファルはもう歩き出していた。 なんだか奴にしてやられた気がして、大丈夫と私を気にするベポを引っ張る。 「言われなくても帰るし」言った言葉は負け惜しみに聞こえてやいないだろうか。 笑ったのはファルじゃなくて、ベポだった。ふふふとかわいらしく口元に手を当てて笑った。 「もー…。あ、ケンカするほど仲が良いって言うもんね?」 「ちがうから」「ちげェからやめろ」 速攻否定する声、なんかデジャヴ。バチバチバチ。睨み合って、すぐやめた。確かにもう遅い時間だった。ジョージが心配するだろう。 ファルは、近付いてきたベポを乱暴に撫でた。クシャリと耳が潰れる。ベポが嬉しそうに笑った。 一度、森を見たファルは、来たときと違う道に入っていった。ザワリと、森が唸った。…ような気がする。 「こっちだ」 「え?」 そっちは遊歩道、だけど、来た道と違うよ? 曲がりくねる、すこし足場の悪い道。森を抜けても、彼の歩みは止まらない。郊外の、静まった通りでも、彼の歩みは迷い無く進んだ。コツコツと微かに聞こえる足音。不安になって呼び掛ける。 「ま、まってどこ行くの、」 「いいから…」 彼の言葉は短かった。だって、私もこんな道知らない。ベポが大丈夫、と私を慰め、しかし言葉少なに口を閉ざした。細い裏通り、街灯が届かないそこをなれたようにスルスルと抜ける。それはベポも同じだった。私も把握していないところを、野良猫に見つめられて、不安の中抜けた。微かな夜の雰囲気を感じたと思ったら、もう海の音が聞こえた。 「…」 ずっと、ファルの背中を追っていた。細く、薄い背中。夜の薄闇に濃い黄色のパーカー。でも一瞬も見失わず彼だけを追っていた。何時の間にか砂浜に足を下ろした私は、後ろを振り向く。周りを見回す。長い髪がその度にサラサラと流れた。 ここ、もう、ジョージの家の近くだ。 「じゃ、気ィ付けて帰れよ」 「もう目の前だし、」 知ってる、と囁くように返ってきた言葉に、彼を見上げた。ファルは私を見ずに、遠くを見つめている。つられて向けた視線の先に、心配だったのか、軽く上に羽織れるカーディガンを身にまとい、外に立っていたジョージがいた。声の聞こえる距離では無かったけれど、ジョージは珍しく真顔で、ファルを見つめ返していた。 ファルが私の頭に手を置いた。そのまま無言で身を翻した彼は、ベポが私にまたねと言う言葉も待たずに歩き出していた。 「ッ、またね」 初めて去り際に返した言葉に、ファルの薄い手が上がった。…お前にじゃ無いんだけど。白クマにだけ、手を降って、私は急ぎ足で、彼の元に帰っていった。何となく、怒っている気がした。 過去のお話-8- 2011/12/10 <-- --> 戻る |