text | ナノ

 ザザン、
「ザザーン」
 海を見つめる。緩く吹き付ける風を正面から受ける。長い、艶やかな髪が風を纏って踊った。青く、また白波を立てる海は懐古の念が胸に熱く突き上げる思いだ。泳ぎたいと思う気持ちは何時までも浄化されないんだろう。どうして、泳げなくなってしまったのだろう…。水に入ると途端に重くなる手足を、体の芯を、恨めしくなってしまったのは何時からだろう。ミャーと鳴くカモメを睨んだ。
「キミが×××?」
「…誰だよ」
 少年のような声で私の名前を呼ぶ。いや、問い掛けてきた。気安く呼ぶなよ。誰だよ、お前は
 ムカムカした気持ちのまま振り向く。髪によって遮られた視界がクリアーになっていき――。
「ッギャ、アアア!! くま!!」
 ずらりと並ぶ鋭利な歯を見た。真っ白な、さわり心地の良さそうな毛皮を被る巨体…、クマ!え、熊!?
 喋るクマを認識した瞬間に、私は悲鳴を上げて、目を極限まで見開いた。叫んだ衝撃のまま、体が横に倒れる。辛うじて腕でそれを支えた。しかし、同じ様に、驚いたのは私だけではなく、目の前の白クマも、クリクリとした瞑らな瞳を見開かせた。全部黒目だったが。
「えっ!…くまでごめんなさい」
「…ッッ、謝って済むと思うなよ! そこに直れ! 私を驚かせたことを後悔させてやるからなッ」
 力んで立ち上がり、ビシイッと自分よりも大きな白クマに指が反り返るほどの力で指差す。オロオロと挙動不審な白クマに迫ろうとすると、聞いたことのある低い声が私の鼓膜を揺らした。
「虐めんじゃねェよ馬鹿」
 バッと勢い良く振り返ると変わらない姿で、ファルはため息を付き、私を見据える。奴の目元に影を落とす帽子に真っ先に視線が吸い込まれた。
「あーファルッ、私の帽子返せ!」
「おれのだって言ってんだろ」
 ニヤニヤと笑って、帽子に手を掛ける。思わず、白クマを放置し、奴にタックルした。微動だにしないのがとてもイラッ!あれ、でも晴天に到底似合わない暗い笑みを浮かべるファルは上機嫌だ。あれ、とジョージの声が頭にポンと浮かんだ。
「…あれ、そう言えば私に会いたかったんだよな?」
「は? 訳わかんね。相変わらず自意識過剰…」
 でも帽子は返して貰うと喚く。ポコポコと薄い胸を叩き、それを奴に止められる。パシ、パシ、と手首を捕まえられて、上に釣り上げられる。しかし不思議そうに声を上げたベポに、瞬時に振り落とされた。
「あれれ…?、? 仲良しさん?」
「違う!」
 クシャリと砂浜に膝を付いた。長い髪が後を追ってモファと広がる。
 クワッとシンクロして白クマを睨む私とファル。おいこらマネすんなとまたバチバチとファルと睨み合った。
「う、ごめんなさい」
 一緒のことしてんなよと睨みを効かせる互いだったが、ファルは唐突にそれを止めた。パッと私から目を反らし、白クマの頭を撫でる。慰められるクマにムッと苛立つが、辛うじて声を上げることはしなかった。
「あの馬鹿の言うことは気にすんな。おれは怒ってねェから」
「おい、ファル、人を勝手に悪者扱いしないでくれる?」
「うん、あの、じゃこの子は何?」
「おいクマ公。何じゃないから」
「…あー。ペット?」
「はあああ!?」
「え、てことはキャプ…」
 白クマの言葉を覆い隠すように私の声が張られる。
「てゆーか! ペットだったらその白クマの方でしょ! やい貴様、名前を言いなさい。私だけ名乗るだなんて×××さまのナガレだわ!」
「…名折れじゃね?」
「っるさい!」
「あ、ごめんなさい。おれベポ」
「ふうん、ベポ。じゃあそのアホな飼い主に言ってちょうだいよ。その帽子を×××さまに返しなさいってね」
「でも…帽子はキャプテンのだよ?」
「はあああ!?」
 クククと笑うファルに、何も返せない。くっそー。ふるふると暫く怒りに震えて、それでも余裕を見せるように、私の自慢の艶々の髪を後ろに流して、鼻をツンとさせる。ファルが可笑しそうに目を細めて、軽く帽子を直した。自然すぎて、既視感を覚えた。
「もうッ!! ベポ。行くわよ」
 アホな主人はおいてらっしゃい、と思ったよりもモフと弾力の良い手を掴む。あれ、とベポが呟き、見てみると、彼は後ろに佇むファルを見つめていた。ファルはまたフフフと笑ってちゃんと戻って来いよと呟いた。
 少々乱暴に白クマを引っ張り、砂浜を走る。柔らかい砂に足を取られて、心なしかよろよろしてるが無視する。わあわあと後ろで上がる声も無視した。
「×××〜危ないよ〜。どこまで行くのー? ねェ、キャプテンが見えなくなっちゃう」無視をした。
「ねェ〜そっちは崖だよ? 森に入っちゃうの?」無視をした。微かな抵抗をグイッと一層手を引いて咎める。
「足元気をつけて。×××、怒ってるの?」無視をした。怒ってねーよ!!
「あッ危ないッ」
 ベポが声を上げて、私を抱き込む。よろよろと続いていた足は森に入って直ぐの倒木に引っかかったのだった。
 そこだけありがとうと微かに感謝して、自然と手が離れた。慣れたように足を進める私に、漸く静かになったベポが付いて来る。
 木々の隙間から差し込む太陽の光のお陰で、明るくも涼しい、開けた場所に出る。低木も無くなり、広がる草原に、白い花が咲き、点々と全体に広がっている。ペタリとそこへ座り込んだ私は徐に白い花をプチリと毟った。
 何時かの彼女を真似して手を動かす。白クマは容量が得ないようで、不思議そうに頭を傾げ、私の傍らにしゃがんだ。
「…×××〜おれ、何したの? ねェねェ。ごめんよ。お花グシャグシャにしちゃ、可哀想だよ」
「うるさいなー! ぐしゃぐしゃになんかしてないし。ほらッこれ上げる。もう、少しくらい黙って待ってなさいよー!」
 はい、此処に座ってと、私の背後にぺたりと座らせる。足の間に入り、お腹を背もたれにした。
 不思議そうにキョトンと目をクリクリと見開くベポは私になされるがままに従った。柔らかい白い手の平に、小さな花を置く。摘む時に長めに取った茎を丸めて輪っかにしていた。
「え、これ、指輪? おれ、指太いから、入んないよ…」
「ムッ、…仕方ないじゃないッ、私、これしか出来ないんだから。花冠作りたいのよ待ってなさい」
 顔をしかめて、後ろのフワフワのお腹に後頭部を打ち付ける。二、三回繰り返して、ベポはいていてと情けない声を上げた。
 ちょっと、手元が怪しくなってきた。打ち付けていた頭を止めて、指先に意識を集中させる。あれ、こっちをこう、…回して、此処に刺して…、えと、んー。こう、…多分合ってる!!
 キチンと黙って椅子になっていたベポが我慢出来なかったようで、口を挟んでくる。
「キャプテンに上げるの?」
「は、そんなわけないでしょッ。アンタによベポ!」
 あー、と狂った手元を一生懸命正常に戻そうと奮闘する。
「え、なんで」キョトンとするペポ。はあ?そっちの方が…。
「…え、…友達だから?」
 あ、ヤバい。なんか解れてきちゃった。蔑ろ、何にも考えないで投げた言葉に不思議そうに答えられると私の立つ瀬が無い。でもベポは私の予想とは違って返す。
「あ! そーなんだ!」
「そうじゃないの!?」
 怒ったように返してしまう。うわうわ、また解れてきた。取り敢えず手で押さえる。これ以上変になっても修正が効かないだろう。ベポは気付かないようで、言葉を続けた。
「×××はキャプテンのお気に入りかなって」
「なんでアイツが出てこなくちゃいけないのよ」
「だって、キャプテン、昨日凄く楽しそうだったから」
「…ふーん」
「それに×××はキャプテンのこと愛称で呼んでるし」
「違うし、これはね、アイツが凛々しくも美しいトラを名乗ってるのがダメなの。お分かり?」
 うん。と小さく頷いたベポに満足して、また花を繋げていった。白い花をベポは周りからプチリプチリと拾ってきてくれるので、結構助かっている。順調に組んでいったはずなのに、それは突然壊された。ザアッ、と風が巻き上がる。遠くから人々の話し声、独特の喧騒が微かに流れてきた。
「あ!」
「ッ何よ、驚いた」
「ごめん。そう言えば、おれたちトラを探してるんだ。×××、知らない? とても困ってるんだけど」
「トラ? 何で」
 理想の長さまであと少しで止められる。ああ、花冠の最後の止め方てどんなだったかしら…。
 暖かい背中から直接私の体に響いてくる。少し唸って、悩みながら発する声は少し自信がなさげである。
「うーん。キャプテンが、そう言うし、あ」
 口を開いたまま微動だにしないベポ。微かな静寂。草が風に身を委ねて、サワサワと微かに音を立てた。
「何?…一寸、黙ってちゃ分からないじゃな」
「シー…。海軍だ。もしかしてここ海軍基地の近くなのかも」
「え」
「あ、×××花冠、上手に出来てるよ。その大きさで良いから取り敢えず此処から離れよう?」
 手の中でクシャリと、決して上手ではない少しひしゃげた花冠を支えた。
「う、うん」
 ベポが纏う緊張した雰囲気に後押しされて、不器用ながらもそれを何とか輪にした。とても上手とは言えない、白い花冠だった。ベポには小さすぎた。
 今度はベポが手を引っ張ってくれた。森の入り組んだ木の合間から視線が投げられてるなんて思いたくない。周りの雰囲気に威圧されて、私は完全に竦み上がっていた。
 一気に青天白日の元、照らされた白い砂浜に安堵する。花冠は手に収まったまま、細い、不健康そうな男の元に辿り着いた。ベポの手が自然と離れていく。
 ダルそうに砂浜に身を投げていた男は、私が傍らに立っても、奴の上に影を作っても、一向に視線が交わろうとしなかった。私は奴の白い帽子を見ていたし、コイツは青い海を見ていた。
「ファル…」
「よォ早かったな」
 間延びした声は、今まで眠っていたよう。ベポが悲しそうに告げた。
「向こうに海軍がいたんだ」
「そうか」
 呟いたファルは、徐に立ち上がった。フラリと一回揺れて、私を見下ろす。
「で、何だそれ」
 じろじろと不躾な視線が私の手の内に注がれる。なんとなくそこに物欲しげな意を見出した私は、口をへの字にしながらもこう言い切った。
「花冠。…ファルに上げる。――じょうず?」
「…ああ」
 ジイと私を射抜く視線が、ゆるりと降りた。唇を薄く引き延ばし、笑っているみたいだった。
 下げた頭に、不格好な花冠を載せる。帽子の縁に引っかかって止まった。
「あれ、おれにくれるんじゃ無かったの?」
「ベポにはまた今度ね」
「お前には小さすぎるだろ…。行くぞ」
「わ、待って、じゃ×××またねー!」
 満足そうな声を上げて、さっさと背を向けてしまったファルを、私はまた無言で見送った。小さくなり、視界から薄い背と、オレンジ色のつなぎを着た白クマが見えなくなった頃、私はあることを思い出し、思わず叫んだ。
「あー! 私の帽子返せよー!」
 そして、でも、と思い直す。ジョージが、言っていたことがまた正しければ、ファルはまた此処に来るはずだ。そう思ったら、口端がゆるゆると上がった。


「ジョージ、私ね、友達出来た!」
「ほう、誰ですか」
 あ、そこの蓋を取って下さいと言う言葉に従って、鍋の蓋を手渡しながら、私は続けた。
「あのね、白クマなんだ。それでトラを探してるの。ジョージはトラ、見た?」
 私、ベポのお手伝いしようかなって思って、あ、ベポはその白クマの名前なんだけどね。
 ペラペラと喋る私を、ジョージはニコニコと笑って真摯に聞いてくれた。
「楽しそうで何より。トラですかあ…」
 ふむうと微笑みながら唸るジョージに、私は帰ってくる言葉に期待した。
「残念ながら、」
 緑の瞳は笑みを湛えて、静かに否定した。
「そっか」
 でも、明日もまた会えるし、と思う。すると私の気分がそれほど落ちることなく、その日は料理の他に洗濯も手伝った。
「トラですかあ…」
 笑っていそうな表情を描けるような穏やかな声がシインと静かな夜に落ちた。グルグルと低く唸る鳴き声は、小さく、鳴く間隔も長い。
 ベッドに器用に寝る大きな、
 シャッ、とカーテンが閉じられ、視界は暗転した。

過去のお話-7-

2011/12/07
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