短いはなし2 | ナノ



 屋上に出て目に飛び込んできた後姿を発見し、足音を立てないように一歩一歩とその人物に近付いた。ぼんやりとしているのか、あと三歩と迫った所でもその人物は近付く人影に気づかない。にやりと笑った静香はぎりぎりまで近付いて、背を向けるその人物の耳元で名前を囁いた。

「赤也」

 思わぬ勢いで振り返った人物に、声をかけた方も驚いて一歩と後ずさる。餌を求める鯉のように口を開け閉めする様子を見て、静香は思わず声をあげて笑った。ケラケラと笑う静香をみてようやく落ち着いた赤也は、羞恥に顔を染めながら静香を睨みつける。
 まるで警戒する猫のようだと静香は思った。少し特徴的な毛の黒猫だ。そう思ったとたんふわふわとした髪の毛が逆立つ様子を思い浮かべてしまって、収まりかけていた笑いがぶり返す。笑い続ける静香に、赤也は視線を鋭くする。

「いつまで笑ってんですか」
「ちょっ、ちょっと待って。すぐ落ち着くから」

 少し切れた息を整えて、静香は涙さえもが浮かんでいた目元を拭った。そこまで笑うことなのかと、赤也は眉間に皺を刻んでからさっきまで見ていた光景に視線を戻した。
一方、宣言通りに落ち着いた静香は赤也の隣に立ち、その横顔を見る。その顔は何処か不貞腐れているように見えて、そんなにまずかっただろうかと自身を振り返った。もう一度赤也の横顔をみて、その視線がある一点にあることに気付く。

「何見てんの赤也」
「……別に」

 別にと返しておきながら、その視線が動くことはない。赤也のそのひたむきな目の先を探しあてた静香は、なるほどと一人で頷いた。
 真っ赤な色に、遠くから見ると白にしか認識できない銀色。少し離れた場所には、群青に近い色をした緩やかに流れる色。珍しい組み合わせではあるが、見ないものではない。形だけではあれど、引退したテニス部元レギュラーの内の三人が集まっていた。
 なにやら楽しそうに話している三人に、一体何の話をしているのやらと思いつつ静香は隣の赤也を盗み見た。その目はどこかゆらゆらと揺れていて、つい最近デパートで見た迷子の男の子を彷彿とさせる。視線を少し落とし、フェンスを握る手が血の色を失くしているのをみた静香は、その手にそっと触れた。

「赤也」
「………」
「赤也」
「…なんすか」

 ようやく離れた手に安堵しつつ、静香は赤也の頭を乱暴に撫でつける。赤也の抵抗を無視して、。飼っている犬にするよりも随分と乱暴に静香はしばらく撫で続けた。諦めたように大人しくなった赤也を見て、もう一度はるか下にいる人物たちを見た。
 引退したと言っても、新体制になるのを邪魔しない程度に顔を出しているらしく、幸村の暴君っぷりも真田の老けっぷりも変わらないと静香は聞いている。他のメンバーに関しても変わったことはないと聞き及んでいた静香は、赤也の様子が不思議でならない。
 もっとも、いままである意味甘やかされてきた赤也にとっては、彼らが引退したという些細な出来事も受け入れがたいものだったのだろうか。しばらく考えたものの、静香にはばかばかしいとしか思えなかった。

「ばっかじゃないの、赤也」
「ば、馬鹿って…」
「あいつらはあんなにあんたの事愛してるのにさぁ」

 愛してる。静香は自分で言っておきながら、背筋を何かが這うような感覚を覚えた。ついでと言わんばかりにたってしまった鳥肌を、腕をさすることでおさめようとしている。しかしながら、いまだに赤也が赤也はなどと彼らが口にしていることを知っている静香には、先ほどの言葉が適切だと思えたのだ。
 静香が見た彼らの赤也の可愛がりようは、親の子に対する愛情に他ならなかった。確かにネコのようで可愛いとは思うが、とわけが分からないと眉間に皺を刻んでいる赤也を見て静香は息をついた。

「赤也、手振られてるよ」
「………」
「うっわ、幸村の笑顔に周りの女の子やられてるし」

 丸井が大きく手を振り、仁王は視線だけをけだるげに向けている。幸村はにっこりと笑って、小さく手を振った。周りにいた女子がきゃあきゃあ言っているのが、聞こえないはずなのに分かってしまった静香は、軽く手をあげて三人に応えた。
 視界の端に移った赤也の顔が、さながら親を見つけた時の迷子のようで思わず笑ってしまう。

「静香先輩、さっきからなんで笑うんですか」
「さぁ?」
「さぁって」
「しいて言うなら、あれだ。赤也の馬鹿さ加減がおかしくて?」
「また馬鹿って、」
「別にさぁ、あいつらが引退したからって、あんたが一人になるわけじゃないんだし」
「………」
「あいつらはあいつらで、子離れはまだだろうしねぇ。ま、心配することなんて何にもないよ」

 口を引き結んだ赤也を視界に収め、その頭を撫でつける。触り心地は良くないが、悪いわけでもない。

「静香せんぱ」
「あ、でもさぼったことに関しては怒られるかもね」

 遮られたことに覚えたらしい不満を一気に散らし、青ざめて行く顔に、静香は笑いをこらえられない。震える肩をなんとか宥める彼女を睨みつけた赤也は、とにかく行かねばと一歩を踏み出した。

「もっと早く言って下さいよ!」
「はははは」



(20101030)
Thank you project! 樹梨亜さま
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