時は満ちた、さあ開戦と行こうじゃないか
※ご都合主義・捏造を多分に含んでいます
よく晴れた昼下がり。
心霊スポット顔負けの旧男子寮も夏間近の日差しに幾分その雰囲気は緩和されている。
そのうち大きく開け放たれた窓からはバターの芳ばしい香りや甘すぎない優しい香りがふわふわと外へ流れていく。
「ふふふーんふーふーふーふーん」
上機嫌な奏が鼻歌を歌う。
小さめのテーブルに両肘をつき、深めに腰掛けて少し浮かした足をふらふら揺らす奏の視線の先には橙色に灯るオーブン。
方や星やハート、ココアパウダーの茶とプレーンが彩る市松模様など種類豊富なクッキーが、方やチョコチップ、ジャム、抹茶とこちらも色とりどりのマフィンが焼かれていた。
じわりじわりと焼き上がり、ふっくらと盛り上がっていくそれらに奏はますます頬を緩ませる。
彼女の鼻歌が二度繰り返された頃、二つのオーブンはほぼ同時に鳴った。
「さあどうかなー!」
やけどしないようにオーブンミトンを装備し、ゆっくりとオーブンを開ける。
すると熱風と共に今までよりも一層濃い香りが立ち込め、奏は味わうように大きく深呼吸をした。
「おお!! これはなかなか上手く出来たんじゃないかな!」
味見したい誘惑に耐えつつ、ひとつひとつ丁寧に皿へ移す。
そのときあの窓からぶわっと一際大きい風が吹き込んだ。
「ただいまです」
窓からの突然の客の声に彼女は驚くこともなく振り返ると、「待ってたよ」と言わんばかりの笑みを浮かべた。
「おかえり!」
彼女が待ちわびた客、アマイモンはそのままするりと中には入ると、真っ直ぐに奏の元へ行き、何か突き出した。
「コレ、あげます」
虚を突かれた奏は何かもわからず反射的にそれを受け取った。
手のひらサイズのそれは銀の缶。
派手さはないが、目を引きつける細やかで優美な装飾がされている。
多少の怪しさを感じながらも蓋を開けると、そんな思いとは180度も違う上品で爽やかな香りが広がった。
「……紅茶?」
「そうです。奏にあげます」
「えっ!? で、でもこんな高そうなものもらえない!」
素人の奏でも高級品だとわかった。
「いいんです。もらってください」
表情を崩さないアマイモンの無言の圧力に屈しそうになる奏。
「これどうやって手に入れたの……?」
「兄上のところからもらってきました」
びくんと奏の体が跳ねる。
「ええっ!? そそそそ、そんなのなおさらもらえない!! というか早く返してこないと――!!」
いくらアマイモンとメフィストが兄弟とは言え、彼の私物を勝手に持ってくるなど次の朝日――いや、今夜の月すら拝めないのと同義である。
顔を真っ青にしながら急いで返しに行こうとするが、アマイモンは「大丈夫です」と何故奏がそんなにも焦っているのかわからないというように止めた。
「あなたとよく一緒にいる小さい祓魔師を連れて行ったら快くくれました」
「そ、それってもしかして……」
ふいに綴の生気を失った顔と嘆きの声が頭の中で再生される。
なるほど、ある種の等価交換なのね、と奏は独りごちた。
「それより早く食べましょう。せっかくの焼きたてが冷めてしまいます」
表情は変わらずとも目を輝かせては急かされ、綴の犠牲を決して無駄にしないようにもらった缶をしっかり握り締めた。
アマイモンが次々とマフィンやクッキーを黙々と口へ運び、その向かい側では奏はあの紅茶を少しずつ味わっていた。
まだちゃんと飲み込みきれていないのに次々に口に詰め込んでいくのでアマイモンの頬はひまわりの種を溜め込むハムスターのようだ。
奏にはそれがなんだか可愛らしく見え、小さく笑った。
「んぐ……。奏、どうかしたのですか」
「ん? 何でもないよ。美味しい?」
「はい。とても美味しいです」
そう言うとアマイモンは再び手と口を動かす。
ところがまだ残っているというのに、彼はまた止めた。
「今日の奏はいつもより嬉しそうに見えます」
「そうかなあ」
「やっぱり何かあったのですか?」
「うーん……。あのね、今に始まったことじゃないんだけど、ただ平和だなーって思ってね」
聞きなれないアマイモンは「ヘイワ?」と繰り返す。
そんなアマイモンに奏は優しく頷いた。
「だってさ、ついこの間まではあたしと君は殺し殺し合う関係でいつ死んでもおかしくない状況だったんだよ? それが今じゃこうしてのんきにお菓子焼いては紅茶なんか飲んでる。こんなの誰が想像できる?」
アマイモンは首をかしげ数秒固まる。
「……よくわかりませんが、ボクもこうしてあなたとあなたのお菓子が食べれて嬉しいです」
多少ズレた答えだったが、彼なりに考えた精一杯のそれに彼女はまた笑った。
今度はアマイモンが口を開いた。
「それ」
今まで眉一つ動かさなかったアマイモンの表情が僅かに変わった。
「ん?」
「それ、痛いですか」
多少クッキーやマフィンの屑がついていても失われぬ長く鋭い爪が奏に向けられる。
正確には襟から僅かに見える傷。
それこそつい最近まで彼と彼女が対立していた証だった。
「大丈夫、もう痛くないよ」
「でも消えていません」
「あ〜……う〜ん……。傷は塞がったけど、あとは残るんだって」
引き裂かれたようなそれは今もなお盛り上がった跡が痛々しい。
しかし奏はそれを悲しみ嘆くどころか慈しむように触れる。
そしてもう一度「大丈夫だから」と力なく笑った。
「……奏」
「ん?」
「奏」
「なに?」
ここでたっぷり一拍おいてからアマイモンは言った。
「奏、ボクと結婚してください」
終始穏やかだった奏の顔色が徐々に変わり始める。
そして、
「ってぇええ!?」
がたりと椅子が倒れた。
「えっえっえっ、いまなんて?」
「ボクと結婚してくださいと言ったんです」
抑揚も甘さの『あ』の時もない声音だったが、奏の表情を一変させるには十分な破壊力を要していた。
耳まで真っ赤に染め、何か言おうとするも思考回路が完全にショートしており、わけのわからない身振り手振りを繰り返す。
「奏はボクが嫌いですか?」
「えっ、いや、うん、嫌いじゃないよ! どちらかといえば好きだけど――」
「ボクも奏が好きです」
「あ、ありがとう……? じゃなくて!」
だいぶ頭が冷えてきたところで価値観の違いをわかってもらおうと丁寧に説明する。
が、それは徒労に終わった。
「君の気持ちはすごく嬉しんだけど、現実問題としてそれだけじゃあだめなんだよ」
「……う〜ん」
唸るアマイモンを見つめながら奏は何故いきなりそんな話が出てきたのだろうと同じように頭をひねる。
考えてもわかりそうになかったので直接聞くことに。
「なんで結婚したいと思ったの?」
すると一切の淀みもなく「兄上が言っていたんです」とこたえる。
「自分が女性を『キズモノ』にしたらきちんと責任を取るのが道理だ、と」
それを聞き、今日何度目かわからない曖昧な言葉が漏れる。
「間違っちゃあ間違ってないんだけどね……?」
悪魔が道理なんて言葉を、それを語っていいの? と彼女はそっと突っ込んだ。
そのときアマイモンの呼吸音がやけにはっきり聞こえた。
「奏が言うなら弱いモノをいじめません。お菓子を食べたあとは必ず歯を磨きます。あなた以外のニンゲンとだって仲良くします。行儀もよくします。そしてあなたを傷つけるものすべてから守ります。それでもダメですか?」
彼の言葉に意識を向けすぎたせいか、気が付くと奏の両手を包み、どこまでもまっすぐな目で見つめられていた。
アマイモンの手は奏のものよりもずっと大きくゴツゴツと硬かったが、とても温かく、包み込む力も傷つけないようにと十分すぎる優しさがあった。
「さっきも言ったとおりボクはあなたが好きです。傷を残してしまったこともありますが、それ以上にボクはあなたが好きなんです。ボクは本気です」
真剣すぎる目に視線すら外せない。
「好きです奏。ボクと結婚してください」
奏の内側から形容しがたい温かい何かが込上がってくると、目元が緩む。
「……あ、あたしも――」
ちょぉっと待ったああああああああああああああ!!
怒号と共にバンッとドアが勢いのあまり外れた。
今の奏にとっては爆撃音のように聞こえたそれに反射的にそちらを向く。
「燐!? 志摩くん!?」
威嚇する猫のように尻尾を立てる燐と一見笑っているように見えるが目元は全く笑ってない志摩がいた。
「なんですか。邪魔しないでください」
「アマイモンてめぇ何言いやがる!? けけけけけっケッコンとかふざけんじゃねえよ!!」
「奥村君、結婚ぐらいちゃんと漢字で言おうや。童貞丸出しやで」
「志摩ァ。おまえどっちの味方だよ!!」
やはり猫のようにフーッフーッと鼻息を荒くする燐を軽く去なす志摩だが、
「でもまあ言いたいことは俺も奥村君と同じや」
笑うように閉じていた目がスッと細くなる。
「なんやシリアスムード満載やったさかい空気読んで外野気取っとったけど、もう我慢ならんわ」
「次から次へとうるさいです」
そう言ってアマイモンは立ち上がると奏を隠すように二人と向かい合う。
「え、え?」
急すぎる展開に全くついていけない奏はアマイモンと燐たちを交互に見る。
「ではこうしましょう。誰が一番奏にふさわしいか、いまここで決着をつけましょう」
「おうっ! 一番手っ取り早いしいいぜ!」
「ええ〜……俺できれば穏便に済ませたかったんやけど……。まあこのメンツじゃそうなるわなあ」
アマイモンは体の一部を異形化させ、
燐は担いでいた降魔剣を引き抜くと青い炎を現界させ、
志摩は持っていたキリクから燐とは対照的な黒い炎を纏い、
「え、あの、み、みんな一回落ち着こう? ね?」
と、奏がなんとかこの場を収めようとするが、
「これに勝ったらもう邪魔しないでください」
「ああもちろんだ。恨みっこなしだぜ?」
「ええで。ま、勝つのは俺やけどな?」
奏の言葉に聞く耳を持つものは誰もいなかった。
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