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あなたに月は見えるか?


その日は寺ほとんどの者が町へ降りてそれはそれはありがたいお説法を説く日だった。

光明はもちろんたくさんの修行僧が光明の付き人として寺を出て行く。

もちろん後の玄奘三蔵となる江流も光明にべったりと引っ付いていった。

ところが双蓮、いや紫苑は留守番だった。

当然だ。

本来、寺院は女人禁制で紫苑はここにいてはいけない禁忌の存在だった。

それに加え、捨てられた原因でもある左右の目の色も違うとなれば尚更。

紫苑自身は捨てられた当時は赤子で何も覚えていないが、それはもう酷かったらしい。

ところが寺の反対を押し切って光明が手を挙げ、引き取ると言い出した。

お互いが妥協した結果、条件・制限付きでここに住むこととなった。

その制限のうち一つには、紫苑は寺の敷地内から出ることを禁じられていることも含まれている。


「あの野郎、我が物顔でお師匠さまにひっつきやがって……。帰ってきたらとことん締めげ上げてやる……!!」


箒を握る手に力が入る。

今回のは結構な遠出で向こうで一泊してくるらしい。

さらに別件で大僧正も空けているせいか、留守を任されてる修行僧はこれ幸いと経典の写生や詠唱もほどほど、やりたい放題(もちろん全員が全員というわけではない)。

そして一番面倒な敷地の掃除を紫苑に押し付けた。

拒否権などない紫苑は選択の余地などない。

広すぎる敷地の掃除は日が落ちるまで続いた。


「あー……疲れたー……」


縁側にごろんと横になる。

いつもは江流と二人でやるのだが、一人だけだとさすがに骨が折れる。


「……今日はひとりかー」


外側に背を向ける。

あの金髪タレ目クソガキと目を合わせなくて済むと思うと精々するが、光明がいないのは寂しい。

彼にどういう意図があったかは知らないし、知りたいとも思わない。

自分に優しくしてくれる、自分を見てくれる、自分と真正面から向き合ってくれる。

その事実だけで紫苑はもう十分だった。


「お師匠さま……」

「お師匠さまがどうかしたのかい?」


突如降ってきた声に弾かれたように飛び起きる。


「誰だ」


見慣れない顔だ。


「他人に名前を聞くときは自分から名乗るものだよ?」

「素性の知らないものに名乗る義理はない」

「ふうむ。それもそうだね」


どこか納得したように勝手に頷く。

その一方で紫苑はなんの気配もなく現れた謎の男を観察する。

異質だと紫苑は思った。

双肩にかけているそれは紛う事なき、最高僧にのみかけることを許された経文。

だが、異質なのはその見た目。

黒の法衣はもちろんなのだが、彼の年齢。

どうみても彼は若すぎた。

20後半、いやもしかしたらもっと若いかも知れない。

三蔵というのは誰もある程度修行を積んだ初老だと思い込んでいた紫苑は度肝を抜かれた。


「……あんた、何者?」

「あれ? これでわからない?」


見せつけるように右手でちょっと持ち上げる。


「本物……?」

「紛い物だと思う? それとも盗難品かな?」


にやりと男が笑うとぞくっと悪寒が走った。

なんなんだこれは、と握る手に力が入る。


「まあそんな些細なことはいいじゃん?」


警戒心丸出しの紫苑など気にせずに男は「でさ、」と何でもないように続ける。


「あの人、いないの?」

「お師匠さま? 今日はいない。何か用?」

「ん〜別に大した用じゃないんだけどね」


ちょっと残念だと口を尖らせる男。


「ふうん、そっか」


よくわからないが、自己完結したらしい。

用がないならさっさとこの場から立ち去れと睨むが、


「それじゃあさ、君が光明の代わりに付き合ってよ」


と言って胡散臭い笑みを浮かべた彼が取り出したのは光明が隠し持っているような白い壺だった。





「やっぱり久しぶりに飲むと美味しいねえ!」


喉を鳴らしながら般若湯を飲む。

ぷはあと男が息を吐けば、たちまちアルコール臭が立ち込める。

一体、なんでこんなことに……。

ただでさえ掃き掃除で疲れてるというのに、とため息をつく紫苑。


「あ、もしかして飲みたい?」

「いらない」

「そう? せっかく美味しいの持ってきたんだけどなあ」


次から次へとするすると身体に流し込んでは壺からまた出す。


「でもせっかくの上玉も月がいなくちゃもったいないなあ」


杯を高めに掲げながら男が言う。

「はあ?」と紫苑が意味がわからないというような顔をする。

月なら出ている。

墨汁のような空に一滴だけ白い絵具を落としたように月はとても映えていた。


「ああ。なんでもないよ」


と、男はまた勝手に自己完結して紫苑に向けて胡散臭い笑みを浮かべる。

こちらを見た男にぽつりと紫苑の口から落ちた。


「空っぽだ」


紫苑自身、無意識のうちに出た言葉で驚いたのは当然だが、それよりも男のほうが鳩が豆鉄砲を食らったようにぴたりと動きを止めた。

杯の酒に波紋が広がる。

だが、さらに紫苑は自分の意志とは裏腹に言葉を紡ぐ。


「何にもない。何かを入れる器すらない。どこまでも。どこまでいっても空っぽだ」


「自分は何を言っているんだ」と思ったところで視界いっぱいに男の整った顔が映っていた。


「――面白い事を言うね?」


ハッと息を呑む紫苑。

今までガラスを挟んで接していた男の本性が現れた。


「そんなことを言うのは君が三人目だ」


視線を逸らしたいのに本能が逸らすなと命令する。

蛇に睨まれた蛙のように指一本たりともう動かせない。

木々がこすれあう音も風が吹き抜ける音も、音という音がすべて遮断される。

己の左目と同じ色のはずに底なし沼のようにどこまでも暗く深く呑み込まれそうな瞳。

そしてそこに映る自分が酷く恐ろしいものに見えた。


「――っと、ちょっとからかいすぎたかな?」


触れるか触れないかの距離から離れると、男は何がおかしいのかケラケラと笑いだした。

今度は紫苑が豆鉄砲を食らう番だった。

一瞬にして空気が何事もなかったように元に戻り、途端に自然の音が耳に飛び込んでくる。


「あー笑った笑った。柄にもなく酔っちゃったかなあ?」


未だ動けずにいる紫苑を他所に男は勝手に片付け始めた。


「それじゃあ、光明によろしく伝えておいてよ」


そうして男は名乗ることなく、ただ一人晩酌して帰っていった。

紫苑に得体の知れない恐怖を残して。



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