壊した (ChanYeol)
大丈夫?
大丈夫! 別になんともないよ!
大丈夫?
いやいやなんてことない! 大げさだよ〜
大丈夫?
全然平気、あはは、大丈夫じゃなかったら俺ちゃんと言うっつーの!
セミが鳴いている。いよいよ、夏がいよいよきたようだった。
ああ、アイスが食べたい。チャニョルの脳内ではただその欲望だけがのさばっていた。舌の根のあたりが、からから乾燥するのを感じてごく、と唾を飲み込んだ。
退屈な授業に加えて、教室はまるでサウナのように暑かった。クーラーが壊れたのだ。さらに悪いことに、じめじめと湿気さえ帯びていた。教卓に手をついて教科書を読み上げる先生の額にもうっすら汗がにじんでいる。
じりじり照りつける太陽はしれっと教室へ入ってきて、それを遮るためのカーテンでさえ通り抜け、窓側近くへ座る者を容赦無く焦がしていた。チャニョルも、そのうちの一人だった。
「まじクーラー壊したの誰だよ」
誰かが、愚痴を言って笑った。……ほんとだよ。同じように、チャニョルも心の中で声をあげた。
暑さからか、頭はぼやぼやとして集中するにもできなかった。チャニョルは頬杖をついて外を眺めていた。一応のためにと教科書などを広げてみてはいたものの、未だノートは真っ白のままだった。
窓が開いてるっていうのに風すら入ってこないなんてなあ。ひらりとも揺れないカーテンをチャニョルは眉を寄せて睨んだ。
「いいか、これセンターででるからな」
先生が黒板の白文字を赤いチョークで囲う。
暑さからの沈黙に静まる教室に、くすくすと笑った女の子の声がわずかに響いた。笑い始めたのは、チャニョルの隣の席の女の子だった。チャニョルは気になって、その子へちらりと目線をやると、その子が先生のほうを見ていることに気がついた。今度はそっちを見てみると、なるほどああ、と頷いた。先生があげた脇のあたりの服の色が違っていたのだった。何のことは無し、チャニョルは、先生も大変だなあ、とぼんやりとそれを眺めた。隣の子が何やら前の子の肩を叩いて耳打ちをする素振りをすると、前の子も途端に吹き出した。
一方でチャニョルの表情は硬かった。普段なら、先ほどのような出来事なんて彼にとっては恰好の笑いのネタやツボであった。けれど、それでも彼の顔が揺るがなかったのは、別にいやなことがあったというわけでもなかった。カーテンの隙間から窓の外を眺めるチャニョルは、自身でもその理由を見つけられずに、ぼーっとしていた。
「どうかしたの?」
「え?」
反射的にふいと横を見れば、声をかけてきたのは先程の、笑っていた女の子だった。ゆるい首元にはじわりと汗が滲んでいるのが見えた。
「体調悪いの?」
「え」
女の子は、どうやら、いつもと様子の違ったチャニョルに心配をしているようだった。笑わないなんて、とでも思っているのだろうか。迷惑な話だ。とチャニョルは内心顔を顰めながらも、しかし、ともかく、すぐににかりと笑顔を見せた。「いや、お腹空いちゃってさ」と嘘をつきながら、頭をかいた。
「なにそれ」
女の子が変な顔をした。
「まだ二時間目じゃん」
その子が目を細めてくすりと笑った。合わせるように、笑う。どんよりと湿気を吸い込んだように、肺が重くなった感覚がした。
チャニョルはなんだかそこから会話が続いてしまうような気がして笑いながら、朝ご飯食べてないんだよね、と食い気味に更なる嘘をついた。そして加えて、"少々の表情"も忘れなかった。するとそのおかげからか、数回の会話で満足してくれたらしい女の子はそのうち前へ向き直って手を動かし始めた。その様子を見て、チャニョルは笑顔を張り付けながらも、しばらくすると自然と無表情になっていった。
チャニョルは再び、外に目をやった。
まだ、二時間目……。
厚く、高く、ソフトクリームのように連なった雲たちは、青々とした空で悠々と浮かんでいた。いくらか気持ち良さそうだとも思ったが、なぜだか太もものあたりがむずむずと疼き出すのを感じた。
チャニョルは、すっく、とその場に立ち上がった。
今日は珍しく、五限で終わる日だった。なんでそうなのかは知らないけれど、先ほど時計を見たところすでに、普段ならば六限が終わっているころの時間になっていた。
ちょっと寝るだけだったんだけどなあ。
寝ぼけまなこでふらつきながら、チャニョルは保健室のドアを閉めた。そして、やるせなさ気にあくびをすると、側の窓からグラウンドでウォーミングアップをしている人たちの姿が目に入った。チャニョルは、はっとすぐに自身の部活動のことを思い出して血の気を引くのを感じた。
チャニョルはバスケットボール部に入っていた。その長身を買われ、経験はなかったけれどほいほいと上手く口車に乗せられて入部したのだった。が、それでも持ち前の才能があったのか、練習を重ねる度に思い通りに動くようになっていく身体がうれしくなって、取り憑かれたように部活動に打ち込んでいた、はずだったのだけれど。
決してチャニョルの足が早くなることはなかった。数人の生徒とすれ違いながら一段一段階段を登るたびに、むしろ、その足取りは重くなるように感じた。まるで鉛のようだ。チャニョルは息苦しさのようなものに唇を噛み締めた。けれどもいくら考えても理由はわからなかった。
チャニョルは静かな階に少しほっと息をつきながら、自分の教室のドアに手をかけた。覗くと、中はこれまた、しいんとしていた。けれどもカーテンに遮られていない窓からは、まだ燦々と陽射しが差していた。そしてそのまま、窓側の自分の席に目をやってみるとそこは相変わらず二時間目のときのままで放置されていた。それらになんとなく胸がすくような気がして、ドアを開けた。
「どうかしたの」
自分の席へ向かう途中だった。チャニョルはするはずのない声がしたことに驚いて、思わず肩を揺らした。誰もいないと思っていた教室で、わずかに緊張しながらチャニョルが振り返ると、入り口からは死角となる席に一人、男が座っていた。間違いなく、彼はクラスメイトであった。が、チャニョルはまだ彼とこれといって会話をしたことはなかった。だからか、急に親しげに話しかけられてもどう返せばいいのかわからずに、あ、いや、という切れ端の言葉ばかりが口から出た。
「ずいぶんとまあ、遅かったじゃないの」
男が笑った。チャニョルもつられて、同じように笑う。まるで自分を待っていたかのような彼の発言が、ただの軽いジョークだということに気がつくのは少し遅かった。
チャニョルは必死に彼の名前を思い出そうとしていた。もちろんクラスメイトなのだから、決して知らないわけではない。ほぼ毎日、顔を合わせているのだから。そう、ただ、うまく頭が働かなかった。
男は、そんなチャニョルの様子を察したのか、あははと笑って目を細めた。
「ベッキョンだよ。ベョン・ベッキョン。やだなあ、覚えてないの?」
「ああ……。あ、いやいやいや。そんなわけないだろ、ちょっとど忘れしただけで」
「それも十分ひどいけどね」
「はは、だよな。悪い」
そうだ……、ビョン・ベッキョン。何度か心の中で呟くようにすると、チャニョルの口角は、やがて上がった。
「ベッキョン
は、ここでなにしてたの?」
「んー?」
慣れない名前に突っかかりながら、話題を振った。荷物をまとめるまでの間の気まずい沈黙を避けるためだった。チャニョルが窓側へ移動しても、ベッキョンは死角の席に座ったままで側の壁へもたれかかっていた。そこはちょうど、日差しの及ばない場所だった。チャニョルはちらりとそのベビーフェイスを伺いながら、妙な温もりがある教科書をカバンへしまった。ころころとした仔犬のような顔のベッキョンはチャニョルへ笑みを浮かべながら言った。
「歌、歌ってた」
「……へえ、……歌」
思わず彼の顔を振り返った自分に対してチャニョルは少しばかりの後悔と浅ましさを感じながら、止まっていた手を再び動かした。
歌を、歌っていただって。それも、一人で。こんなに暑いのに。
チャニョルの印象としては、ベッキョンはクラスの人気者、というイメージだったので、それは至極意外に映った。
彼とは似つかわしくないような行為はチャニョルにとってはいささか異様でむず痒いものだった。
「ごめんな。邪魔したよな」
「ん? あ、いいよいいよ〜」
ベッキョンがあっけらかんとしたような態度で手を振った。否定しないんだ、とチャニョルは思った。むしむしと暑い教室の中で涼しげな顔をして笑っているベッキョンがとても異端に見えた。
「……変わってるね、」
「なに?」
「あ、」
心の中で思っていた言葉がつい口を突いて出ていた。チャニョルは咄嗟に口を覆ったが、それはすでにしっかりと伝わってしまっていた。そんなチャニョルを見て、ベッキョンがけたけたと肩を揺らした。
「はやく部活行きなよ。さっきルハン先輩ここ来てたよ」
「ま、まじ! うそ!」
「怒ってたよ〜、怒ってた〜」
ベッキョンは茶目っ気たっぷりに、頭に人差し指を添えてその容態を真似した。そうだった、すっかり忘れていた。心臓が縮こまるのを感じて、チャニョルは足早に教室を去ろうとしたが突然はたりとその動きを止めた。どうしたのかと、それに顔を上げたベッキョンにチャニョルは目を合わせた。
「
歌……どんな歌歌ってたの?」
ベッキョンが目をぱちくりとさせた。チャニョルは唇をやわく噛み、今更ながらなんでそんなことを言ったのかと自分自身に対して疑念が湧いてきた。気恥ずかしささえ感じていたというのに。もしかしたら、このまま教室を出て行ったら二度と彼の歌を聴けないような気がしたのだろうか。チャニョルはまばたきをするベッキョンを見つめながら模索していた。
みんみんみん、とセミが鳴く。ややしばらくの沈黙があった後、すぐにベッキョンは笑って、いいよ、と言った。軽やかな声だった。チャニョルは思わず笑みをこぼしていた。
すう、とベッキョンがその場に立ち上がり、頬をぽりぽりとかいた。そして、ひとつ息を吸ったかと思うと、彼は文字通り、歌い出した。
そこには気恥ずかしさを感じるところなど、ほんの一ミリでさえなかった。それほど、彼の歌は凄い、と思った。チャニョルはベッキョンが歌い終わるとすぐにその手を叩いていた。すると彼は照れ臭そうにまた頬をかいた。
「すごい、すごいよベッキョナ。歌手になるつもりなの?」
「いいやいいや、そんなそんな」
謙遜して顔をうつむかせるベッキョンだったが、その言葉は、チャニョルにとっては至極すんなりと出た言葉だった。もっと聴きたい、なんて、そう思った。
「さっき僕のこと変わってるって言ってたけど、変わってるのは君のほうだよ」
「……俺?」
「変わってるね」
ベッキョンが頷いたかわりに、チャニョルの眉根が寄った。生まれてこのかたそんなことを言われたことはなかった。
「なんで……」
「チャニョルー!!」