この季節、王宮の回廊には暖かな日差しが降り注ぐ。
広い庭には若い草が風に揺れ、小さな花たちの優しい香りが鼻孔を擽った。
すっかり春を迎え清々しい陽気となった王都には、沢山の人々が足を躍らせ街を活気で埋め尽くす。
しかし此処は王宮である。
春の訪れに歓喜する者はあれど、浮き足立たせて騒ぐ輩は存在しない。
静かな、それでいて人々の温かみに溢れた王宮の回廊を、王の妹であるセレスは軽やかな足取りで歩んでいた。
その耳に、ふと届いた小さな音。
セレスが足を止めて耳を澄ませば、その音は旋律となってセレスの鼓膜を震わせた。
どこか哀しく切ない、オルゴールの音色。
そっと息を潜めるように音の出所へと足を伸ばせば、一陣の風がセレスの髪を浚い木の若草を鳴らした。
ふっと、セレスの息がとまる。
セレスの目に映った、アールグレイの髪が風に揺れる。
見慣れないその色の持ち主は、此方に背を向けるような形で木に凭れ掛かり、景色に鮮やかな赤を与えていた。
旋律が、一回りしてまた同じ音を繰り返す。
巡るそれはやはり哀しいもので、セレスは思わず胸に手を置いた。
すとん、と身体に落ちて胸に沁みる。
哀しく儚いその背中に、また一歩踏み出し近付いた。
不意に、そのアールグレイが傾げられる。
手元を見詰めるように伏せられていた頭が、セレスの足音に反応したかのように上げられた。
また息を詰めさせ、セレスは下唇を軽く噛んだ。
不安なのだろうか。
しかし今、セレスの心は興味を示している。
この背中と、旋律に。
アールグレイが風に凪ぐ。
セレスへと振り返ったその人物は、セレスを見るとふわりとワインレッドの瞳を細めた。
「……!」
さわ、と足元の草が鳴る。
それらを揺らした風はセレスの柔らかなスカートを僅かに靡かせ、頬を撫でていった。
「私に、何か?」
「あっ、あの、……」
開いた口を塞ぐこともしなかったセレスは、男の声を耳にして初めて、呼吸の仕方を思い出す。
首を僅かに傾かせた男に投げ掛けた言葉は、緊張で裏返ってしまっていた。
セレスの顔に朱がさす。
そこでふと、セレスは先程まで空気を震わせていた旋律が止んでいることに気が付いた。
「お、音が……聴こえたました、ので」
「……ああ、」
此れですか、と男の手がセレスの目の高さまで持ち上げられる。
しゃらんと音を立てたチェーンの先に繋がっていたのは、細かい装飾が施された硬質な球体だった。
「懐中時計……?」
今では殆ど目にすることが無くなった金細工のそれに、セレスは眉を寄せ男に問い掛ける。
すると男は柔らかな笑みを浮かべてセレスを見詰めた。
「珍しいでしょう?オルゴール付きです」
そう言ってまた目を細めた男は、そっと手のひらに懐中時計を乗せカチリと小さな突起を指先で押す。
手慣れた手付きで開かれた蓋。
それと共に優しく鼓膜を撫でる哀しい旋律。
先程と同じ旋律に、セレスはつと目を伏せた。
長い睫が、セレスの頬に影を落とす。
「……なんだか哀しい旋律ですのね、」
思わず声に出してしまい、ハッと男を見上げると、男はセレスと同じ様に目を伏せ、悲しげに微笑っていた。
「そうですね、」
「あ……」
「それでも私は、この唄が好きなのです」
愛おしそうに呟いた言葉に、少しの罪悪感が胸を刺した。
それでも、どこかでこの旋律に安らぐ自分が居る様に感じて。
セレスは目を閉じ耳を傾けた。
旋律は、また一回りして同じ音を繰り返す。
無限に続く哀しみの中、僅かな光を見た気がした。
「……この曲、なんて名前でして?」
ゆっくりと余韻に浸るように、セレスは瞼を持ち上げる。
背の高い男を見上げると、男はパチリと目を見開き、瞬かせていた。
「……?どうかしまして?」
「いえ、何も……。この唄にはまだ、名前がありません」
「……名前がない?では作者は──」
そこで不意に、男の目がバツが悪そうに逸らされる。
まるで訊かれたくないとでも言うようなその仕草に、セレスはまさかと眉を吊り上げた。
「もしかして、貴方が?」
「……、……」
「……そうですのね、」
沈黙を肯定と取ったセレスは、しかし驚くでもなく、ふっと口元を緩めた。
この僅かな時間で、セレスはこの旋律を気に入ってしまった。
「私はセレス、現国王の妹ですわ」
セレスはふわ、と男に微笑む。
脈絡のない急な自己紹介に、男は逸らしていた目を再びセレスに向けると、やや間を置いてから目を細め、懐中時計をパチリと閉じた。
「私はクラトス、本日から国王陛下にお仕えする騎士です」
クラトスと名乗った男に、セレスは思わず目を見張る
今まで護衛や側近を必要ないと突き放していた兄が、唯一名差しで側に居ることを命じた騎士。
貴方が……と小さく呟くと、クラトスは静かに微笑んだ。
今は亡き王都の、小さな昔話。
to be continued,