(天使化前,クラトス)


ガタン、
広く無機質な部屋に響いた物音は、夜であるというのに灯りひとつ灯されていない空間に小さく反響した。
ピチョン、ピチョン、と一定の間隔を保って重力に従っていく水滴が音を立てた。
その洗面台から視線をあげた先、壁に埋め込まれた鏡にアールグレイの髪が揺れる。
月明かりしか入り込まない暗い部屋とアールグレイの髪を映した鏡には、ピシリとヒビが入っていた。
ヒビを跨いだ部分が、ずれるように歪んでいる。

ピチョン、

ピチョン、

「……っ、ぐ」

洗面台に手をついたクラトスが、小さく呻いて咳き込んだ。
ゲホ、と次第に激しく、苦しそうな咳をし続けていると、不意に何かが気管を逆流するのが解った。
反射的に口を手で覆う。
しかし、指の隙間から防ぎきれなかった液体が蛇口の水滴と共にパタパタと落ちていった。

「ゲホっ……、」

そっと手のひらを口元から離す。
すると、黒ずんだ赤が視界に飛び込んできた。

手のひらを濡らす、生暖かいそれ。
喀血は今までに何度も経験してきたことだが、相変わらず慣れそうに無かった。
とても、気持ちが悪い。

幼い頃に発病して、一度治ったかに見えた病は今になって再発した。
確か、騎士団長になって半年たった辺りだったろうか。
呼吸が苦しくなって、血を吐き出してしまう、不治の病。
いつか自分は体内の血を全て吐き出して死ぬのだろうかとクラトスは苦し紛れに小さく嘲笑を浮かべた。

まだ、クラトスが病に蝕まれていることを知る者は居ない。
クラトス自身、誰にも悟られることがないよう今まで通りに振る舞っていたから。
任務中でも、運が良いのか発作を起こすことはない。

「──あと少しだ、あと少し、もてばいい」

永らえようとは、思わない。
今、この世界は争いが日常茶飯事なのだから、どちらにしろ自分は近いうちに命を落とすだろう。
ならばせめて、主君と国を守って、戦いの中で死んで行きたいと思った。
どうせ散らす命なのだ、永らえる必要はない。
そう自分に言い聞かせて、クラトスは蛇口を捻った。

手のひらにこびりついた自分の血を丁寧に洗い流す。
冷たい水で冷えた指先で、口元にも付着していた僅かな血を拭い、水で流した。
濡れた手を傍らに置いてあったタオルで拭き取りながら、鏡を見上げそこに映った自分を見詰める。
暗い光を灯した瞳と、眼があった。
伸びた前髪が頬を擽り、思わず唇を歪める。
クラトスの自嘲にも似た表情が、鏡の中で歪んだ。


散華する命故、構う必要なし
(所詮は死に行く運命なのだ、)


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後に、彼は天使化を強要され、不本意にも病を克服しその命を永らえることとなりますが、それはまた別の話。


2011,01,15
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