ある日、ふと、本当になんでもない瞬間に、松野一松の中のなにかがぷつりと切れた。それは一松の中にあった、家の外への関心であったり、一松がひた隠しにしていた感情だったり、またはそのすべてだったのだろう。その日から一松は、本当にこの世のすべてがどうでも良くなってしまった。いつ死んでもいい、そもそも今も生きているのかさえあやふやだ、特にこれといった思い残しもない。とまではいかなかったが、概ねそれに近い状態となってしまった。チョロ松とトド松はそんな一松を見て、前よりもダメダメじゃないか、と嘆いていた。それさえも一松にとってはどうでもいい、ただの生活音でしかない。感情はあるけれど、以前ほど揺さぶられなくなってしまったのだ。おそ松は可愛いげがないと呟き、十四松はなんかやだとこぼしたが、どうだって良かった。すべてが。
 だから、カラ松への殺意も嫌悪感もすべて、どうでもよくなってしまった。
「どうした、一松。眠たいのか」
 ぼんやりと居間に横向きに寝転がって時間を潰す一松に、カラ松が意気揚々と顔を覗き込んでくる。閉じていた眼を開けると視界が滲んでいた。その視界のまま、逆さまになっているカラ松の顔を見る。サングラスを掛けていないことが確認できた。この間の「サングラスが邪魔で眼が見れないよ。あとあの性格も止めたんだからこれも止めれば」と言ったからかもしれなかった。視界がゆっくりとクリアになっていく。やはりカラ松はサングラスを掛けていなかった。
「別に、眠くない」
「そうか」
「なに? なにか、する?」
 ごろりと寝返りを打ち、一松は仰向けになった。カラ松の顔は逆さまのままで、けれどカラ松はくすぐったそうに笑っていた。
「なんだ、なにかって」
「なにかはなにかだよ。どこかに出掛けるとか、テレビを見るとか、手を繋ぐとか……家に俺らしかいないから、キスとか」
 言いながら一松は、そういえばデートというものをしたことがないということに気がついた。人生で一度も、という意味と、カラ松と、という意味で。そしてそれはきっとカラ松もまったく同じだろう。だとしたら、デートを要求されるかもしれない。それならそれで、一松にとってはどうでもいいのだけれど。
 ふいに、逆さまになっていたカラの顔が視界から消えた。そしてそのすぐあとに、だらりと床に投げ出されたままの一松の手になにかが触れた。そのほうを見れば、当然カラ松が胡座を組んで座っていて、一松の手に触れているのも当然ながらカラ松の手だった。カラ松と眼が合う。にこりと笑いかけられ、指と指とをがっちりと絡め取られた。
「じゃあ、手を繋ごう」
「……手だけでいいの?」
「あぁ、今はこれでいい」
「ふぅん」
「これで幸せだ」
「そう」
 カラ松の笑顔に一松は心が動かなかった。本当に、ただ、そうかとしか思わなかったし、思えなくなった。強いていうならば、良かったんじゃない、という客観的思考のみだ。一松はもう、カラ松の幸せも不幸も願っていないから。
「キスしないんだね」
「それは初デートの時にすると決めたからな」
「そう。わかった」
「一松は? なにかしたいことはないか?」
「俺は、あんたの望むことがしたいだけだよ」
 気障ったらしい言葉はなにも考えていなければ恥じらいもなにも感じない。一松はそれを学んだ。ぷつりとなにかが切れてしまってから。カラ松は可哀想な生き物だなぁと認識してしまってから。カラ松がそういった言葉と行動を望んでいることを知ってから。カラ松の、一松の手を握る力が震えていて、強い。カラ松の頬がわずかに赤くなっている。望んだ言葉と行動が叶って、嬉しいのだろう。一松はそんなカラ松になにを思うわけでもなく、ただカラ松が喜びそうな言葉を選択し、口から吐き出す。
「好きだよ。大好き。愛してるよ。あんたがいないと、俺はダメだ。あんたのためならなんでもしてやりたい。そして出来れば、あんたもそう思っていてほしい」
 安っぽい、少女漫画のような台詞を淡々と吐き出す。実際、一松はカラ松に今のような態度を取るようになってから、そういった漫画を読んでみたりしていた。たぶん、これはその中のどこかにあった台詞だろう。けれどカラ松はそんなことなど知らないから、そもそも、一松がカラ松のために言った時点でそれは一松の言葉であり、カラ松のための言葉だ。それでいい。それでカラ松は幸せだ。今までよりも、ずっと。
「なにを言ってんだ一松。おんなじに決まってんだろ。俺も、お前のことを愛しているし、お前のためならなんでもしてやりたいと思ってるよ」
 ハキハキとした言葉。生き生きとした眼差し。より一層強く繋がれた手。一松はそれを受け取って、相槌だけで返す。どうでもいいから。例えここで、カラ松が正気に戻ったように一松を拒絶したとしても構わないという気持ちだった。すべてはカラ松次第だ。一松はカラ松から天井へと目線を移す。
「デート」
「ん?」
「デート、どこに行きたい?」
「そうだなぁ、海にでも行きたいなぁ。泳ぐとかじゃなくて、ただ一松と一緒に海を見たい」
「そこでキスすんの?」
「ロマンチックだなぁ」
「それを望んでるんでしょ」
「まぁな」
 カラ松の肯定に、一松は天井の目を数えながら、いつか来るその日のことを想像していた。きっとこの調子ならば、本当に自分たちはデートをして、そのままキスをするだろう。男同士だとか、兄弟だとか、おんなじ顔だとか、そんなことを全部忘れ去って、するのだろう。そういえばキスも初めてな気がする。それはカラ松もだ。たぶん。
「ねぇ、なにか欲しいものってある?」
 目線をカラ松へと戻しながら、一松は問い掛ける。カラ松はそんな問い掛けに、眼をぱちくりと丸くさせた。脈略がなかったせいかもしれない。けれど、すぐに恍惚とした笑顔を浮かべた。一松はそれをぼんやりと、夢を見ているかのように眺める。
「愛が、欲しい」
 誰の、とはわざわざ問いたださなかった。野暮というものだからだ。一松はカラ松の手のひらの感触を辿りながら、誰も帰ってこない内に、世界で一番愛してるよとだけ素早く言っておいた。カラ松は幸せそうに笑っている。



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