ぴちゃ、とその音が零の頬に辿り着くと同時に板倉の手は拳を作り目の前の男を躊躇いなく殴った。人を傷つける痛い音が零の鼓膜を大きく叩く。ついで殴られた男が倒れ、その男のマウンドポジションを板倉は取った。零は己の頬についた男の唾液を指で触る。ぬるりとした感触がどうにも現実とは思えなかった。ついでに、目の前で行われる板倉による一方的な暴力もどこか嘘のようだった。
 板倉は零に背を向け、零に唾を吐いた男を殴り続けた。殴りすぎて男の顔から血と涙と唾液が垂れ、そのまま板倉の拳にもつく。しかし板倉はそんなことなどさもどうでもいいように殴り、立ち上がって無抵抗な男を蹴り、不気味な骨の音がしようともどれだけ返り血が真っ白なスーツにつこうが、無表情に暴力を振るい続けた。零には板倉がどのような顔をしているかは見えなかった。
 零は指についた唾液をズボンで拭き、頬についた唾液は袖で拭った。
「板倉」
 静かに名前を呼ぶと、嘘のように板倉の暴力は止まった。ずっと暴行を受けていた男の今にも死にそうな呼吸が聞こえる。零はあとで救急車を呼ぼうと決めながら、帰ろうと板倉に言った。板倉は振り返り、少しだけ表情を和らげて、お前がそう言うなら、と言って男には目もくれず上着を脱ぎながら零の元へ寄る。
 可哀想な奴だ。零は板倉と共に歩き、こんなことで死にかけた男とこんなことで怒った男を心底憐れんだ。



可愛そうな人
×
第3回BLove小説・漫画コンテスト結果発表!
テーマ「人外ファンタジー」
- ナノ -