名前を呼ぶ、それも呼び捨てで。ということが白石蔵ノ介にはテストで百点を取ることよりも難しい。白石の年齢を考えるとそんなにもハードルが高くないように思えるが、だが白石にはこれまで名前を呼び捨てで呼べるような友達がいなかったのだ。幼稚園の頃などは本人の記憶があやふやなせいで本当にそういう友達がいなかったのか、ということはわからないが、しかし少なくとも白石が覚えている限り、そういう友達はいなかったように思えた。
 しかし間違っても白石は自分には友達がいなかった、と思うことはなかった。そして別に名前を呼び捨てで呼ばないからと言って友達ではない、というほど心が狭いわけでもなかった。ただ、名前を呼ぶか呼ばないかで多少の壁はあるだろうとは感じ取っていた。薄い、膜のように柔らかな壁。白石は自らその壁を破ることはなく、また相手から破ってくることもなかった。だから、白石はいつも友達との楽しい空間に、かすかな虚無を覚えていた。
「忍足やなくて、謙也でええで。ちゅーか、謙也って呼んでや」
 中学生になり、テニス部に入り、そして白石は同じテニス部の忍足謙也からさらりとキツいことを言われた。思わず白石は顔がひきつってしまう。だが、間違っても忍足は悪くはないのである。彼はこれまでの白石のことを知らないし、それに呼んでや、と言った顔がにっかりとした屈託ない笑顔なのである。これで悪気があるほうがすごい、と白石は遠ざかりそうな意識をどうにか引き止めながら思った。しかしそれで白石の精神的ダメージが和らぐことはない。
「……ええと、忍足くん」
「やからやめぇって。あんま名字で呼ばれたぁないねん」
 どうにか話を逸らそうとしていた矢先、あっさりと先手を打たれてしまった。きっとこれにも悪気がない。しかもタチが悪いことに、白石は相手が嫌な思いをするくらいならば自分が嫌な思いをしたほうがいいという考えを持つ人間である。本人にもその自覚はあり、白石はああ嫌だなぁ、と座り込みたくなった。だが、ふいに忍足が白石の顔を覗く。まるで白石の心境を察知したかのようだった。不安げな目線に、胸がざわりと震える。
「すまん、嫌やったか?」
 あまりにも真っ直ぐな眼差しと言葉に、白石は自分が今いかに酷い顔をしているかを自覚した。事実、忍足の目に映る白石の顔色は悪い。そして自覚した途端に、運動をしていないのに汗をかいていることにも気付いた。これで不振がらないほうが不思議である。弁解しようとする喉はカラカラと渇き、音もなく唇が動くだけだった。それは、白石がいかに名前を呼び捨てで呼ぶということに抵抗があることを示す決定的なものだ。白石は忍足が自分に対して嫌悪感を抱くことを予想した。
 だが、そんな予想は忍足の「ならしゃあないな」という言葉によりあっさりと消えた。思わず、え、と消え入りそうな声で驚く。忍足は気まずそうに頭を掻いていた。その仕草が、白石には壁を破っているように見えた。
「別に、嫌なら嫌でえぇよ。俺かて強制はせん。てか自分、無理しすぎやで」
「お、ん……」
「せやけど、いつかは謙也って呼んでな?」
 あまりにもあどけないと思った。どうしてそんなにも名前呼びに拘るんだと思った。まだ会ってからそんなにも時間が経ったわけでもないのに。混乱する頭の中、白石はひとまず喉の渇きを潤すために唾を飲み込む。そして飲み込む途中で先ほどの忍足の言葉を思い出してしまい、唾で蒸せる。大丈夫か!? と心配してくる忍足との間には壁はもうなかった。



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/謙也と白石
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