逃げるつもりだった。鶴喰鴎は、人吉善吉から逃げるつもりだった。きっかけは思い出せないほどに些細だが、それでも人吉と二人きりの中で鶴喰が逃げたいと思い、実際に逃げようとしたことは変わりようはない。
 それに、鶴喰は自意識過剰でもなく、ごくごく普通に人吉から逃げられるだろうと認識していた。なんせ、鶴喰は黒神めだかには負けてしまったが、少なくとも人吉よりは断然強いのだ。伊達にダークヒーロを名乗っていない。
 だが、結果として鶴喰は人吉から逃げられはしなかった。むしろ、鶴喰は今、人吉と至近距離にある。脱走は意図も容易く失敗してしまった。間近な目玉に頭が痛くなる。だが、人吉が鶴喰に抱き付いてしまっている限りはどうとも出来ない。他人の体温に、安心するどころか冷や汗が止まらない。
「ヒ、ヒート……離して」
「嫌だ」
 即答され、されに人吉が鶴喰に近付く。本命がいる云々の前に、男同士でキスをしようとは微塵も考えていないのか、顔が近寄ることはなく、そこにだけは安堵した。だからといってこの、いきなりのハグには安堵出来ない。
「……なんで離してくれないの」
「だって、離したら逃げるだろ」
「…………逃げないよ」
「三点リーダー四つは不自然だぞ」
 なんだその小説みたいな喩え。鶴喰は尚も人吉が自分に抱き付き、じっと見てくることに物理的に目を逸らす。心まで逃がさないような視線は、特に苦手だ。人吉がため息を吐いた。吐きたいのは、こちらである。
「ったく、宗像先輩といい、バーミーといい……お前ら少しは和やかに友情トークさせろよな」
 宗像、という名前に肩がぴくりと動く。そして、人吉の話から、今の自分のように人吉は逃げようとした宗像を抱き止めたということになる。鶴喰は容易に人吉に捕まり、自分と同じように困った宗像を想像し、そして面白くないと思った。何が面白くないのかは、わからないが。
「和やかに友情トークならしたじゃないか。ていうか、え?なに?ヒートはこうやって誰彼構わず抱き付いちゃうの?私はしないけど、エロゲーとかにこういう女の子とかいるらしいけど、ヒートもしかしてそれ狙ってる?私とのフラグを立たせたいの?」
「なんでそうなんだよ!誰彼構わずでもねぇし、お前とのフラグなんざ狙ってもねぇよ!ただ、お前が逃げようとするからだな……」
 人吉が目線を下げたことを感じ、鶴喰はチラリと人吉を一瞥した。特にときめきなどはない。相変わらず違う意味で心臓がバクバクと暴れているが。というか、本当に逃げたりしないから、いい加減離してもらいたいのだが。
 だが、鶴喰はもう人吉に離せとは言わなかった。頑固な人吉を説得するよりも、人吉が自発的に離れたほうがいいと判断したのもあるが、離してもらいたいと思いながらも、まだもう少しはいいかと頭の片隅のどこかで思ってしまったからだった。
 そういえば自分はなぜ急に人吉から逃げ出したくなったのだろう。鶴喰は思い出そうと記憶の糸を辿ったが、途中でぷちりと切れて失敗した。今さら思い出したところで、何か起こるわけはないが。



磁石よりも滑稽
お題>容赦
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