たまに自分の苗字を忘れそうになる。何故ならばこの世界には苗字が必要ではないからだ。それに、苗字にそれほどまでに執着などなく、もっと言えば、名前にも執着などなかった。もしも江戸時代の人間らしい名前を名乗るように言われれば、あっさりと乗り換えただろう。
 篠ノ女はあまつきでの日々の中で、ふとそんなことを思った。そして一晩寝て、そんなことなどすぐに忘れてしまっていた。

 鴇時は篠ノ女を苗字で呼ぶ。他の人間は紺と呼ぶなか、鴇時ははっきりと篠ノ女と呼ぶ。他人の流れに身を任せる傾向のある彼にしては、珍しい。篠ノ女はなんとなく疑問に思った。なぜ名前で呼ばないのだろう、呼べばいいのに。別に、怒りはしないのに。
 布団に入り、眠りに落ちるまでに篠ノ女はなんとなくそんなことを思った。そして一晩寝て、そんなことなどすぐに忘れていた。朝が来ても、鴇時は篠ノ女と呼ぶ。

「なぜお前は紺を篠ノ女と呼ぶのだ?」
 偶然、朽葉のそんな言葉が耳に入った。どうやら寺の庭で会話をしているらしい。篠ノ女は壁に隠れた。
「え、なんか変?」
「いや、変ではないが。ただ、お前なら紺と呼びそうな気がするのだがな」
「そうかなぁ」
 そうだよ。と、篠ノ女は声には出さず同意した。そうだ、鴇なら紺と呼びそうなのに。
「うーん、あ、でも俺、篠ノ女って名前が好きなのかも」
「名前が好き?」
「うん。なんかさ、格好よくない?」
「私にはよくわからんが……」
「えー、格好いいよー。紺ってのも格好いいけど、篠ノ女のが格好いい」
「なんだそのこだわりは」
 程々呆れた、というように朽葉がため息を吐く。鴇時はそんな朽葉に何を勘違いしたのか、朽葉の名前も好きだよと満面の笑みで言った。たちまち朽葉は顔が赤くなり、うるさいと怒鳴った。鴇時は笑っている。
 そんな二人の会話を聞きながら、篠ノ女は止めに入ることが出来ずにいた。心なしか、顔が熱い。名前を誉められたのは、生まれてはじめてのことだ。あー、と呻きながらその場にしゃがみこむ。単純に恥ずかしい。そして柄にもなく、この名前で良かったと思ってしまった。
 きっとこのくすぐったさは、一晩寝たところで忘れられそうにはない。



耳が痛いほど柔らかな
お題>容赦
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