▼星の生まれる日






女を抱くと言うのはこんなにも馨しいものだったのかと知ったのは、ほんの二月前だった。
織田でも黒田でも、閨で男女が一夜を共にする場に居合わせたし、それが何を指しているのかもわかっていた。甲高い嬌声が耳障りで、人の欲と言うものは俺には理解ができんと思った。

しかし、一度好いた相手の肌の味を知ってしまえば、貪りついて彼女を喘がせ、それに気を良くしては子を孕むことのない熱の塊をぶつける。噎せかえる汗の匂いが呼び水になり、満たされることのない渇きのような欲が増幅していく。
これが幸せか、と。自分の下で、肩で息をする主を見て震えた。

それと同時に、この生産性のない行為に酷く興奮している自分に、劣情に、感じる意外さ。
どちらかと言うと敬服する主に仕え、その主のもとで務めあげる事が一番の存在意義だと思っていた。いや、それは今でも変わらない。主命を賜れば、何時であろうとも尽力しよう。彼女が望むのならば、例え一人であっても今すぐにでも戦へ出向き、そして槍であろうが検非違使であろうが。何であっても引き裂くまで。
いつも付けている白の手袋を外し、小さな寝息をたてて眠る●●の頬に触れた。先程までこの腕の中にいた存在が少し離れるだけで、どうしようもない位の切なさで押し潰されそうになる。


「●●。」


シンと静まり返った部屋に、自分の声が響き、それは返事されることもなく消えていく。数時間前に消えた灯りも、炉の熱も微塵も感じられない、一段と冷えた夜の気配。耳を澄ませば遠くで、聞こえる筈のない法螺貝と陣太鼓の音がする。


「ぅ、……ん、」


手の甲に頬を擦り寄せたと思えば、くぐもった言葉を吐き、身動ぎながら布団に深く潜っていく。小さな雪兎のような白肌にしっかりと閉じられた睫毛。呼吸をする度に微かに上下する身体。自分がこんな感情を抱くとは、あの頃の俺には想像が出来ただろうか。


「我が主の、望むがままに。」


そう。俺はこの娘が望むことは、叶えてやりたいのだ。
天下も。金も。欲しいものを用意し、大阪の城でさえも攻め落としてやろう。そんなことは苦ではない。
起こさないように畳の上を滑るように歩き、軋む戸を後ろ手でそっと閉めた。部屋を出ると月暈が見える。藍と緋が白い月の周りに滲むように混じり合い、庭を淡くて強い光で照らしていた。池の水面で揺らぐ月姿。


「長谷部。」


急に呼ばれた自分の名に、ハ、と息を飲んだ。


「……宗三。」


声のする方へ眼をやれば、見慣れた顔が居た。
気付かれない様にゆっくりと息を吐く。背筋が震え、引いた血の気が戻ってきた。此処が何処なのか。一瞬、頭の中で消えてしまっていたようだ。まるでここには自分と●●しか存在していないような、そんな烏滸がましい気分に浸ってしまっていた。


「なんだまだ起きていたのか。さっさと寝ろ。」

「貴方もですよ。さっさと寝てしまいなさい。」


厭世を含んだ物言いが彼の常か。憎たらしくフンと嘲笑を投げ、縁側に頬杖をついて座り込んだ。朱鷺色の髪が夜風に揺れる。


「明日で終わり。今日くらいは休んだらどうです。……こちらでも忠犬なんですね。」


台所からくすねて来たのか徳利と猪口を手に、いつも通りの厭味を吐いた。長い付き合いではあるものの、こういう酒の飲み方をしているところに遭遇したことは一度もなかった。高く留まって、酔いを馬鹿にするような節がある男だ。


「犬ではない。」

「ふふ、可笑しな事を言う。」


何を馬鹿げた事を。そう言いたげに、嘲笑を寄越す。


「此処では違う。」


手袋をはめ、袖口の釦を留める。何度か掌を握り、白を馴染ませた。そしてギュッと力を籠めれば、痛いほどに食い込む爪。まやかしの痛覚に満悦し、そして手放した。
人の形を成した時、池の水面に映る自分を見て驚いたものだ。均整のとれた身体、長い腕に、速く走れる足。織田にいた誰よりも力強く見えた。あの時感じた歯がゆさが、悔しさが。何故だか報われたような気がした。


「僕は此処に来て長くはありませんが、それでも貴方は十分犬に見えましたよ。主しか見えていない貴方にとっては、近侍に就けてそのまま終わりを迎えられる。誉高きことでしょう。……ねぇ、長谷部。」


宗三の注ぐ酒の音が、やけに耳につく。歩く度に足元で廊下の床が小さく鳴き、その音たちが混ざり合って、静かの坩堝の底に居る様にも思えた。宗三の横に座れば、冷えたそれが太股を痛い程に刺激する。
明日。明日でこの本丸は無くなる。この微温湯のような空間から抜け出して、筑前で暗い蔵で眠る事になる。本体のあるものはそれぞれ各地で深く深く眠りにつき、ほかの者たちはまた彷徨うのだ。それはもう決まったことで、全員が納得した。


「理解できないのは……貴方も彼女が此処を去るということを、納得しているということです。他のものを説き伏せたそうじゃないですか。」

「……お前にはわからないだろうな。」

「わかりたくもない。」


最後まで渋っていたのは珍しくも、こいつだった。
宗三の猪口を奪い、それを一気に胃に流し込む。込み上げる酒気にハァと息を吐いた。いつだったか一度、刀身に酒をかけられたことがあった。その時は自分がこの味を愉しめるなんて思いもしなかった。
刀としてこの世を渡り、人の形を得た。
明日で、一年。
此処に来て、●●と加州清光に出迎えられて一年。
争い等を好むような嗜好を持ち合わせていなかった彼女が、加州の初陣帰還後は情緒が不安定だったと。知ったのは顕現した直後だった。折れるかもしれないという不安に、耐えられる自信がないと打ち明けられた。そして三人で決めたのだ。
●●が審神者としての任に就くは、一年で終わりにしよう。
交わされた期限は喉につっかえた様にずっとそこに在り、何かにつけて期待と諦めの言い訳となっていた。


「……良いんですか。」

「あぁ。十分過ぎる程に、幸せだ。」


それでもこの腕で●●を抱きしめて、この声が彼女の名前を呼んで。刀だった頃には考えられない程の温もりを感じ、そして目が眩むような朝を迎えた。これ以上望んではいけない。


「誰にも言うなよ。」


これは密やかなモノで良い。そっと何処かで小さく感じた儚い何かで良いのだ。それに名前を付けてはいけない。


「言うわけないでしょう、そんな事。……ほら、お戻りなさい。今日で、最後なんですよ。さっさといつもみたいに主を独り占めしてきなさい。」


何故か自然と口許が緩んで、微かに弧を描く。それを見た宗三が溜め息を吐きながら、呆れたように笑った。


「すまんな。」


不様に縋る事はしない。少しばかり寂しくなるだけで、有難いことに本体に戻ればそんな感情も消えてくれる。元来刀という無機質な自分達には、持っているべきではない代物だ。花を美しいと思うことも、心を悼めることも無くていい。所有する人物の好きなように扱われ、それにほんの少しだけ応える。
ただ人を愛し愛された、という想いはどこかで残ってくれると有難い。そんな身勝手な考えに、いつの間にか人のようになってしまったと、可笑しくて笑えた。

いつか彼女が此処での全てを忘れ、誰かと結ばれて子を成して、そして何処かで絶えるのを想像する。それが人間の幸せで、人の生というもの。
●●が全てを、へし切長谷部という存在を忘れてしまう。一字一句、染み込む様に繰り返せば、目頭が痛くて目を閉じた。


「長谷部……。」

「もう寝る。……言葉に甘えて、主の元で寝させて貰おう。」


美味かった、と猪口を返し、来た廊下を戻る。靴下越しの床の滑らかさを音が出ないように踏みしめ、曲がり角の柱に手を添えて。木の温もりを指先で確かめて、後ろからそっと押す風に乗って。


「おやすみなさい、へし切長谷部。」


宗三の声に手を振って返す。障子を開けて、真っ暗な部屋に月明かりを一筋射し込ませれば、実感が胸を刺した。
トンと小さくぶつかり合う障子の音。今から眠るというのに、夢から覚めるような気がした。ずっと甘美な夢に漂っていたのだ。刀が見た夢。不思議なものだ。


「入る?」

「っ、起こしたか……、」


布団の端を持ち上げて白い手が上下し、俺を招き入れる。それに当たり前のように誘われて、二人で潜り込めば、●●の温度で包まれた。額を俺の胸元に押し当てて、するりと腕を身体に回して。猫のようにすり寄る彼女に応え、折れてしまいそうな肩を抱く。


「……ありがとう。」


障子越しの風音に掻き消えてしまう程の、小さな声が耳に届いた。


「俺も、本当に。本当に幸せだった。」


背中に回された指先が震えている。肩が揺れている。それをトントンとあやした。
返事は何もなかった。それでいい。
意識が薄れていく中、●●の声が何度も木霊していた。透明に近いそれが雫の様に滴って反響し、輪を描いて広がる。澄んだ風が上から抜けて、それに連れられて沈んでいく。


あぁ。こんな眠りにつけるならば、もう。


何処かの空間に在った、小さな小さな本丸の話。






end

20160229

色々捏造入ってました。すみません。
後味悪いのが書きたかっただけです。
タイトルはたまたま聞いていたCOCCOの曲から。
イメージがぴったり合ったかも。



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