▼春の沫雪-弐






「―――……主?」



フ、と。引き戻されるような感覚だった。
いつの間にか引き込まれそうになっていた暗闇。廊下の向こうの、光りも届かないその先から意識が脳内に戻ってくるような。ぼやけていたピントが合うような。



「どうしたの?」



少し高い位置から降ってくる声に、意識が遠いところへ行ってしまっていたと気が付いた。いつもと違う慣れていない空間に、心細さが主張する。



「え、あ、なんか、向こうで音がした気がして……、」

「え、まじで?」

「……ううん、気のせいだね、きっと。」



嵐も来なければ、夜も来ない。大きな桜の樹が狂い咲いて、青く清んだ空には柔らかな風が流れる。そんな穏やかな春の庭に設定された本丸とは真逆の、どこか重々しいこの教団。
賑やかに聞こえてくる短刀達の笑い声も、ここにはない。

“黒の教団”と言うだけあって元々明るい印象は持ち合わせていなかったのだが、一度、侵入を許したと言う噂を聞いてからは、余計に息の詰まる感じがした。
長く続く戦争で負傷し、心まで悼めている人達とすれ違う度に居た堪れなくなる。



「こっちは本丸と違って空気ヤバそうだよねー。」

「……そこら中、嫌な気配がする。」

「勝手が違うから落ち着かないな。」



腕を組みながら気怠げに加州清光が吐いた言葉に、小さく頷き、そして辺りを見渡しながら小夜左文字、骨喰藤四郎が溢す。本丸では響くことの無いヒールの、コツコツという音がやけに耳に残った。



「皆してついてこなくても大丈夫だったのに。清光は内番、ちゃんと交代してもらったの?」

「……うん、安定に。……団子三本で手を打った。」



手入れの行き届いた黒髪を跳ねさせながら、だからあいつ太るんだよ。と、口を尖らせながら言う。

綺麗に塗られたワインレッドの爪が、我が本丸の見せ掛けの穏やかさを現しているようだ。着飾って、傷も負うことなく、恵まれた永遠の庭。そんな聞こえの良い場所の住人だと知った、身内からの妬みと冷ややかな視線。現実は違うのに。奪われ続けた安寧に、心は脆弱になり荒んでいく。




「あ、居た居た!●●!」


パタパタと可愛らしい足音を立てて現れたのは、エクソシストの一員。リナリー・リーだ。年も近いことから何かと気にかけてくれ、彼女のベッドで微睡みながら、夜通し他愛のない話をするくらいの仲にはなれた。教団の科学班やエクソシスト、サポーター達とは違うシステムで動く本丸の、良き理解者であり、気の置ける友人である。


「リナリー!久し振りね。」

「元気そうで良かったわ、●●。わ、今回は大勢で来てくれたのね!」


片腕を抱え込む様にして会釈を送る骨喰に、ふさふさの結い髪を揺らして頭を下げる小夜。清光は“ドーモ”と軽く挨拶をした。初めまして、と言いながら全員の顔を見て、ふんわりと笑ってそれに応える。


「リナリーは……髪が、短くなったね。無事で何よりなんだけど。」

「あぁ、これね。ちょっとヘマしちゃって。」


トレードマークでもあったツインテールではなく、肩上で切り揃えられた髪。リナリーに合わせて跳ねるその髪が、彼女の可愛らしさを増長させていてとても好きだった。毛先が傷んだ自分とは全く別物の、その青みすら帯びた黒髪が。
絆創膏が幾つか目に留まったけれど、ふふふと笑いながらそっと隠すリナリーの仕草に気付かない振りをした。


「今回はあと三人一緒に来たんだけど、今他の部隊を……、」

「……来た。」

「主!」


くいくいとスカートの裾を引っ張りながら言う小夜の声に振り返れば、廊下を走ってくるへし切り長谷部、燭台切光忠、蛍丸。勿論リナリーを見つけると、挨拶と共に丁寧に頭を下げる。


「大倶利伽羅を隊長とした、第二部隊が無事到着しました。今剣、岩融、獅子王、和泉守兼定、堀川国広、総員に問題はありません。」

「今は食堂で休憩してるよ。」

「くりちゃんが隊長やりたくなかったみたいで、ものすごく機嫌が悪いけどね。」

「フン、怠慢だな。」


長谷部は武装を解いたとは言え、きっちりとシャツの釦を留めて、清潔感のある白手袋をはめている。大倶利伽羅の態度が気に食わなかったようで、声に苛立ちを含んでいた。まぁまぁ、とそれを光忠がやんわりと宥める。



→続く

20150820/20150821




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