▼願はくは 花のもとにて 春死なむ






「主よ、そんなところでどうしたのだ。」

「あ、おはよう、岩融。」


庭に面した縁側の一角の、ちょうど桜の木の影になったところに踞っていた。薄手の着物の上にかーでぃがんとやらを羽織り、いつもは高い位置でくくられている少し色素の淡い髪が、今日は下ろされている。彼女が陽の出ている時間に、紅も引かずに出歩くことは珍しいことだ。


「小さき身体をそんなに丸めておったら、見落として踏み潰してしまうぞ。」

「ちょっと立ち眩みしちゃって。台所にお水を取りに行こうと思ったんだけどね、」


気まぐれで冬の景観になることもあるが、今は過ごしやすい常春の庭だ。毎日満開の桜を拝むことが出来る奇怪な場所。そもそも武蔵坊弁慶と999もの刀を狩っていた薙刀が、人の身体を手に入れ、呑気な時間を過ごせるようになったのは何よりもの奇怪。もう二度と戦に出るなど。
あの日、この本丸の鍛冶場で眼が覚めた時は、刀でも夢を観ることが出来るのかと、初めての感覚に驚きが止まなかった。


「おぉ。それならば俺が運んでやろう。」

「え、……わ、わ!」


片手でひょいと持ち上げて、腕に座らせるように抱き抱える。落とされないように首にしっかり掴まるその動作がとても可愛らしく、己との対格差を再認識した。
薙刀と言うだけあって具現化した身体は、本丸にいる誰よりも高く、殆どのものを見下ろす。見上げると言うことは、太陽と月と、そして桜の木を見る時位だろうか。


「やはり主は軽いな。」

「ごめんね。ありがと!」

「うむ、気にするな。」


そのまま縁側を進むと、大御台所に辿り着く。今日は短刀達の当番のようで、忙しそうに走り回り昼餉の用意をしていた。


「主!どうかしたのですか!」


畑で獲れたであろう大きな大根を籠に入れ、まな板まで運ぶ今剣がこちらに気付いたようだ。


「悪いが今剣、水を一杯入れてやってくれ。」

「わかりました、ぼくにまかせなさい!」


高下駄で走り、棚に置いてあったグラスで、井戸から汲みたての水を桶から掬う。パシャンと水の跳ねる音がした。


「ありがとう。」


今剣から水の入ったグラスを受け取り、こくこくと喉を鳴らして飲み干せば、青白かった顔が少し色を取り戻した気がする。


「……美味そうに飲むな。」

「え?」

「いや、なんでもない。ほれ、水が付いておるぞ。」


爪で傷を付けないように、人差し指の背で、そっと口許をなぞってやると、色白の肌を桃色に染める。恥ずかしそうに目を細めて笑い、コロコロと鈴の音のように喉を鳴らした。
助かったと言いながら頭を撫でてやれば、“こんなこと らくしょうです”と嬉しそうに今剣が笑う。心配そうに寄ってきた粟田口の短刀達にも大事ないと伝え、仕事に戻らせた。


「部屋まで送ろう。」

「悪いよ!もう大丈夫だよ?重くない?」

「がははは!本体を振り回している時の方が腕にくるわ。」

「じゃあ……お願いしようかな。」

「おうよ。」


ガサツに歩いてしまえば振動が主にも伝わっているようで、キュッと襟元を握る手に力が籠り白くなっていた。こんなにも人の子の、しかも女子と言う物は柔らかくて脆そうな物なのか。戦しか、刀を狩る事しか知らなかった自分の腕の中に、そんな存在が在る。


「今剣は主によく懐いておるな。」

「今剣?そうだねぇ、……あ、この間二人で苺を食べたの!」


口に指をあて、秘密にしてね、と悪戯に笑う顔はどこか幼さをも感じさせる。


「皆に内緒でこっそりね。すごく喜んでくれたんだよ!」

「そうか。」

「とっても甘かった!」


今剣が笑う。それがこんなにも嬉しいことなのか。それをこの目で見ることができる。
この人間はその機会を自分に与えてくれた。この人間に今生は捧げても良いと、最初はそんな感情だった。


「……●●よ。」

「え、……岩融?」


きょとんとした目と合う。初めて口にした名。自分で発したものなのに、耳に優しく響くその音。


「お主は実に可愛らしいな。誰かを愛おしいと想う気持ちは、こんなにも温かいものなのか。」


●●が同じ目線に、とても近くにいて。腕から伝わるその温もりが胸を熱くする。
触れたくて触れたくて。●●に、掌を伸ばした。


「……っ、」


しかし自分の指には、鷹のような爪がある。●●の柔肌には簡単に、傷がついてしまうのではないか。簡単に切り裂いてしまうのではないか。
そう思えば触れることなど、出来なくて。持ち上げた掌を下ろした。


「岩融。」


●●が自分の名前を呼んだ。耳のすぐ傍で。小さく小さく、囁く。
声のする方に顔を向ければ、そっと触れる唇。こんなにも柔らかいものがあるのか。


「おぉ。●●の唇は、苺のように甘い。」

「……っ、秘密にしてね。」


コツンと額を合わせて、再びそれを重ねる。なんとも幸せなことだ。


「がははは。頬が真っ赤じゃ。他の者に見られるのは忍びない。俺の肩に顔を埋めておれ。」


そう言って●●の頬を一撫でし、身体を抱え直した。鴨居に頭を打たないように身体を屈ませながら、審神者用の部屋に入る。●●を抱く腕の力は弱めずに、空いた手で障子を閉めた。

誰にもくれてやらぬ。触れさせなどしない。
近侍の座もこの温もりも。儚い人間の命が尽きるまで。

人間の欲望は尽きぬものなのだな。なぁ、弁慶よ。




end

20150823



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