▼眩暈-弐 幼い頃の曖昧な記憶だ。 母に手を引かれ、照り返しの酷い坂道を上れば、背筋が丸く曲がりきった曾祖母に迎えられた。優しく頭を撫でるしわくちゃな掌と、私の名前を呼ぶ穏やかな声。買ってもらったばかりの靴で、庭の草木を避けて走る。 そう言えば、あの庭にも小さな池があった。紅と白の鯉がいて、優雅に泳ぎ回りながら、時々水面をそのヒレがパシャッと音をたてて打つ。 「……、だれ、?」 はっ、と息を吸う自分の音に、眼と意識の焦点が合う。ゆっくりと熱が引いていき、漸く発した自分の声は酷く渇れたものだった。 「……気が付かれましたか。良かった。今、乱に水を持って参らせますので、」 「あ、のっ……、」 「それまでは暫しお待ちくだされ。」 暑苦しさを微塵も感じさせない何かを、彼は醸し出していた。先程触れた体温の冷たさと、淡々と話すその姿。肌が自然と汗ばむ季節だと言うのに、きっちりとシャツは首元まで釦が閉められ、清廉な白手袋をはめている。 そして何よりも眼が離せなくなったのは、彼のすぐ真横に置かれた長物だ。1m程あるそれは、どこか儚くも凛とした威圧感を放っていた。 「あぁ、これは申し訳ありません。」 私の視線を読み取ったのか、流れるような無駄のない所作で、刀を私から少し遠ざけた。 朱と金の鞘に付いた飾り紐が、畳の上でぶつかり合いながら転がる。 「私は一期一振。粟田口吉光の、」 「え、……あ、……い、ちご?」 「はい。なんなりとお呼びください。」 あまり耳にしない名前に、思わず声が零れる。何か言いかけていたようだったが、それ以上は続けなかった。軽く頷きながら、あやすようにふ、と浮かべた柔らかな笑み。 絹糸のような水縹が、部屋を通り抜けた風に吹かれてキラキラと靡いた。 →続く 20150707 ←一覧へ |