▼神田 頬の上なら満足感のキス
隣に座る彼を見上げれば、自然と閉じた目が見えた。
呼吸に合わせて微かに上下する肩、胸の前で組まれた腕。
姿勢よく座っていた身体は、後ろにある木に凭れ掛かっている。
いつも近くに居たけれど、こんなに無防備な姿は滅多に見ることが出来ない。
もしかしたら初めてなのかもしれないと言う稀さだ。
お昼ご飯を食べ終わった満腹感や、穏やかに降り注ぐ太陽の木漏れ日のせいなのか。
無防備に意識を手放している。
久し振りにゆっくりと神田と二人でジェリーの食事を摂った。
その後、あまりにも天気が良いので日向ぼっこでもしようかと、彼の手を引いて教団の端にある小さい方の庭に来たのだ。
遠くで噴水の音が聞こえるだけの静かなスペース。
こんなに平和な午後は何日ぶりだっけ。
ここ数日は任務が重なって、ろくな休息も取れていないような気がした。
睡眠は目的地へと走る列車の中か、教団へと帰還する時の船の中。
食事だってあまり噛まずに飲み込んでものの10分で済ませた。
いや、10分もあればマシな方だ。
教団屈指のエクソシストの彼は、私なんかよりも息つく間なんて殆んどなかったらしい。
何日も何日も、彼を教団内で見付けることが出来なかった。
任務地から任務地へと。
一度もここへ帰る事無く、熟していたようだ。
一段落ついたから、とコムイに教えてもらってから数時間後に帰還した神田の団服は、どこもかしこも薄汚れ、裾や袖は裂け、装飾部分は引き千切られていた。
六幻だって壊れてしまって、今はコムイが修理している。
“もう治った”とよく見せてはくれなかったけれど、彼自身にも細かい傷痕と血の汚れがこびり付いていた。
こんな日常がいつまで続くのかなと、膝の上に広げていた本を閉じ、小さなため息を吐いた。
「…ん、」
地面を縫うように柔らかな風が吹き、肌を掠める。
それに撫でられた青々と茂る芝生が小さく音を発し、遠くで聞こえる鳥の囀り。
その微かな音にも反応したのか、隣で午睡を堪能している彼が腕を一度組み直し、体勢を変えた。
その瞬間。
寝息の様な吐息の様な。
一瞬だけ薄く開いた唇から、“漏れた”という表現が一番しっくりくる聲。
真っ黒な団服を脱いで、珍しく私服を纏った神田。
そんなもの絶対着ないと言っていたのに、いつの間にか袖を通している白いカーディガン姿。
なんだかんだ言って愛用してくれているようで、何度か洗われたソレは少し草臥れている。
少し湿気の含んだ生暖かい風が吹けば、いつもは高い位置できっちりと結われている黒髪が靡く。
絹糸の様でとても綺麗。
いや、髪だけじゃない。
閉じた瞼を縁取る長い睫毛も、きりっとした眉も、軽く閉じられた薄い唇も。
全てが綺麗。
その全てが愛おしいと思った。
『…ュ、ゥ、』
気が付けば、ほんの少しの漏れる寝息に隠れて、小さく名前を呼んでいた。
普段呼びなれない名前。
“好きに呼べば良い”と言ってくれた事が有ったけれど、一度も口にしたことは無かった。
出会ってから2年間、ずっと“神田”と呼んできたし、ファーストネームで呼ばれることを嫌っているのも知っていた。
ラビが面白がって呼ぶたびに、彼の愛刀で斬りつけようとしているのを見掛けた。
理由はそれだけじゃないけれど、アタシには神田を“ユウ”と呼ぶことは出来なかった。
のに。
思わず零れた二文字。
その二文字を喉から出すのに何分もかかった気がする。
その間に風に煽られて何枚もの葉が散った気がするし、太陽が移動して樹が作ってくれる影が何センチも移動した気もする。
神田には届いていないのに。
きちんと単語にだってなっていない様なそんな呼び方だったのに。
何だかものすごくむず痒くて、ものすごく恥ずかしい。
何故だかすごく幸せな気分に包まれて。
そしてそれと同時にすごく寂しいと思った。
いつだって神田は、アタシからとても遠い位置にいる。
隣に並んで立っていても、彼の視界の中に居たとしても。
遠く遠い距離を感じてしまう自分が居た。
それが何なのかは分からないし、その距離の埋め方をアタシは知らない。
ゆっくりと起こしてしまわないように。
少しだけ神田から身体を離した。
ほんの少しだけ触れていた肩が数センチ離れただけで、とても遠くに離れたような感覚。
「…、」
神田の横に膝で立って、俯き加減のその綺麗な顔を覗き込む。
体勢を安定させるために地についた手。
音を立てないようにとゆっくり体勢を変えても、ゆっくりと手を下しても、カサカサと芝生が鳴ってしまい、その音に神田が眉をピクンと反応を示した。
気配に敏感な人だから、いい加減起きてしまったのかもしれない。
冷や汗が背筋を通り、喉が小さくゴクンと鳴る。
心臓がギュッと縮こまって、早鐘を打つ。
起きないで。
もう少しだけ。
そんな私の願いが神様に届いたのかは分からないけれど、何度か身じろぎを繰り返して、また規則的に肩が上下する。
多分あのタイミングで目を覚ましていたら、“テメェ、何してやがる”なんて、機嫌が悪くなっていただろう。
『…か、神田?』
無意識に止めていた息を深く吐き出して、ほんの小さな聲で神田を呼んでみた。
恐る恐る翳した掌を神田の目の前でひらひらと左右に揺らしてみたけれど、それには一切の反応を見せず、スースーと寝息を漏らした。
本当に珍しい無防備な姿。
眉間にだって皺は寄っていないし、悪態をつく唇も、見透かすような鋭い眼も今は閉じられている。
リナリーは化学班の手伝いをするって言っていたし、ラビとアレンはコムイに頼まれて街まで買い物に出かけた。
ブックマンはクロウリーと任務だし、コムイ達はまた籠って仕事をしている。
誰もいない。
誰も見ていない。
何故か悪い事をするような後ろめたさと、それ以上の堪えきれない愛しさがぐるぐると頭の中を巡って。
ゆっくりと神田の顔に濃い影を作る。
息を止めて、
眼を閉じて。
神田の頬に貼られた小さな絆創膏に。
口付けを落とした。
ほんの数秒。
触れたか触れていないか、
掠める程度のキス。
唇にその感触があったか、なんてわからない。
でも一瞬だけ、神田の体温を感じた。
遠い人が近くに感じ、暖かな気持ちが身体中に広がる。
そしてものすごく満足している自分が居た。
『おかえり、…ユウ』
満足感を抱き締めて、
幸せの中漂って。
憂鬱な毎日なんて、神田が隣に居れば消えてしまうんだって思った。
「…ぉぅ。」
聞きなれた低い聲が、心臓を突き刺した。
いや、まさか。
そんな筈はない。
だって彼は、寝ているんだから。
嫌な汗が頬を伝い、心臓がきゅうって締め付けられる。
恐る恐る身体を離して神田を見上げれば、ぱっちりと見開かれた黒曜石。
『えぇ!?…ぉぉぉおおお、起き、』
「寝てねェ」
かち合ったのは、いつもの強くて全てを見透かしたような眼。
掌を肩にあてて何度か首と肩の筋肉を解し、うるせェよ、って言いながらズレてしまったカーディガンの襟元を直した。
『え、え、…じゃあ、最、初から!?』
「お前が寝たって勘違いしただけだろ。」
“こんなところで寝るかよ”と合った視線を逸らさずに、射抜くように私の眼を捕らえたまま。
切れ長の眼が意地悪そうに細められる。
もう何がなんだかわからない。
寝ていなかったと言うことは、全てバレているっていうことで。
全てバレているってことは、つまりはそう言う事で。
『っ、ありえな…』
「●●」
神田の低い聲が私の名前を呼ぶ。
首裏に手を滑り込ませて、引っかけて、そのまま引き寄せて。
身体が傾いたせいで自然と彼の肩に両手を付けば、神田がもう片方の手で支えた。
するりと顎に手が移動してきたと思えば、“あ、”と聲を発する間もなく。
親指でクイッとされるがままに顔が動き、教団の窓が視界に入る。
慌ただしく通り過ぎる人の中にリーバー班長が居て、その近くを鳥が飛んで行って。
風が吹いて、雲が流れて行って。
頭が状況に追いつこうとする前に。
擦り傷だらけの私の頬に。
神田の薄い唇が触れた。
『っ、〜っ!!!!!』
“な、な、何、”ってぱくぱくと聲にならない聲を発しながら焦って。
神田の身体から自分の身体を引き離す。
その拍子に背中を少し打ってしまった。
けれど、頭の中はそれどころじゃない。
神田の唇が触れた頬に、無意識に手をあてれば頬が熱い。
寒くないのに背中がぞくぞくってして。
神田に聞こえてしまうんじゃないかって程煩く鳴る心音。
「先に仕掛けたのは、」
●●だろ、って。
左側の口角を上げて悪戯に笑った。
End
20120729
恍悦ユートピア様へ。
“キスの格言”の「頬の上なら満足感のキス」を書かせていただきました。
他の方よりも長ったらしくなってしまった上に、なんか色々ぶち込んでしまって…キスが薄い。
こんなのですが納めさせていただきます。
参加させてくださって有難うございました!
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