▼ためいき が はれたら












五月病と言うわけではないけれど、学校へ行くのが少し億劫。
何度かけたたましく鳴り響く目覚ましの音と、ソレでも落ちていこうと誘う睡魔を天秤に掛けながら、半分以上閉じている眼を人差し指で擦る。
大きな欠伸が息を吸い込むと同時に吐き出た。

ピピピと言う電子音を止めるために握り締めた時計を、頭の上に設置してある棚の上に置いて、諦め悪く布団に執着して数回寝返りをうち、一度深くふわふわの羽毛布団の海に潜ってみた。
窓から射し込んでくる朝陽を完全にシャットアウトして、無音の空間が出来上がる。
だんだん薄くなる酸素に漸く身体を起こしながら、寝癖でクチャクチャになった髪の毛を掻きあげた。

階下では母親が“遅刻するわよ”と急かす聲が聞こえる。
“起きてるから”と少し強い口調で返し、昨夜用意していた制服のブラウスに手を掛けた。


そうしてアタシの一日は始まる。










ためいき が はれたら











『あれ、まだいたの?』

「…お前こそ。」



授業終了を知らせるベルが鳴ってからもう大分経った今。
校舎内はシンと静まり返り、殆どの教室の電灯が消されている。
自分の靴音しか聞こえない廊下を歩いて、鍵掛けられていたらと不安になりながら手に掛けた取手は、いとも簡単にスライドしてくれた。

橙色の夕陽と言うよりは、藍色の月明かりと言う表現が近い黄昏時。
窓近くの机の足がカタンと鳴る。

唯一教室に残っていた人物は神田ユウ。
10人中10人がすれ違いざま振り向く様な整った顔立ちの持ち主だ。



『図書室で本読んでたらいつの間にか寝ちゃってさぁ。神田くんは?』

「…別に。」



机の横に掛けてある学生鞄を手に取り、今まで座っていたであろう椅子を引く。
素っ気ない返答に彼らしいと笑いそうになった。
誰にも媚びない人。
とても自分に素直。


それが羨ましくもあった。


憂鬱な朝を毎日迎え、重い足取りで学校へと向かう。
教室の扉を潜る前には一度深く息を吸い、きゅっと唇を噛みしめるのが癖になっている。
ソレに気付いたのは去年の秋だった。

別に苛められているとか、友達がいないとか、勉強が嫌いだとかそんな事はない。
休み時間に他愛のない会話を交わす友人もいるし、もちろん彼女達とは昼ご飯だって一緒に摂る。
休日に遊びに出掛けることだって、電話やメールのやり取りだってする。
社会に出て一度でも使う事が有るんだろうかと疑問に思う数式を覚えることや、アルファベットの羅列を覚えること、もう今は使われていない古の言葉を覚えることも苦ではない。
情報という栄養を脳に与えている気がするから。

そんなわけで、別にこれと言って不満があるわけではないアタシの毎日なのだが、この晴れない気持ちはなんなのだろうか。

なんて。
解明しそうにない悩みに脳内の1/3程は使われている。
そんな気がしていた。



「何を…読んでたんだ。」



いつの間にか神田君はアタシの真横に立っていた。
抑揚のない聲で淡々と話す彼の聲は酷く耳触りが良い。
寡黙な彼が時折発する低い聲が、実は気に入っていたりするのだ。



『この間、芥川賞を受賞した本。』



腕の中に持っていたハードカバーのソレの表紙を向ける。
ソレに合わせて視線を上げれば、目線の高さに神田君の肩。
それもとても近くに。空気を伝って彼の体温が感じられる程、近くに。
そのまま顔を上げれば、黒曜石の様な眼。
いつの間にか出てきてしまった月の光が映る、強い眼。

それに一瞬、自分が映り込んだような気がして、心臓がドクンと鳴った。
耳が熱い気がする。
ハ、と息を飲み込んで、それを吐き出さないように唇を噛んだ。



「…こんなものを読んでいるのか。」



逸らせずにいた目線を、神田君が一度眼を伏せて、本に移す。
アタシの手から奪い去って、ぱらぱらとページを捲る。
彼の意識が其方へ移動した所為か、漸く息ができた気がした。

心臓に悪い人だ。



『…神田君、本に興味ないって思ってた。』

「ねェよ。」



パタンと本を閉じて、まるで品定めするかのように訝しげに表、裏、背表紙を見る。
そしてアタシのポンと両手の上に戻した。
流れるような、どこか風に似た仕草。
サラリと発せられた言葉に神田君らしさを感じた。

手入れの行き届いた艶やかな黒髪が跳ねて、アタシの横をすり抜ける。
本当に綺麗な人だと思った。



「もう、帰るんだろ?」

『あ、うん。』

「送る。」

『え!?』



“早く鞄を取ってこい”と急かされながら、急いで荷物を纏める。
今日習った数学の復讐でもしようかと思っていたけれど、教科書やノートを探してなんていられない。
机の上に出しっぱなしだったペンケースと図書室で借りた本を鞄に押し込んで、教室の外で待つ神田君に駆け寄った。

神田君は廊下の向こうの方に視線を向けながら腕を組んでいて、その腕の上で人指し指が何回か、トントンと跳ねている。
彼は気が短いことで有名なので、この光景を目にするのは少なくない。

少し神経質な表情で、蛍光灯の下に立つ神田君。
扉を閉める音と、廊下に踏み出した靴音でこちらに振り返る。



『ゴメン、待たせた!』

「いや、良い。」



そう言って歩き出す神田君の少し後ろを、遅れないように歩く。
二人分の靴音が響く廊下を、凛とした姿勢で、微かな風を切って。
髪も眼も何もかも、月明かりに溶けてしまいそうな程。
夜がとても似合うと思った。



『っと、ごめ、』



神田君の歩くスピードが落とされる。
それに反応するのがワンテンポ遅れ、彼の肩に鼻先がぶつかってしまった。

ポスンと受け止められる身体を慌てて離せば、ぶつかったのは背中じゃなくて彼の胸だった事に気が付く。
いつの間にか此方に身体を向けていたようだ。

拍子でアタシの身体が傾くのを、逞しい腕で防いでくれる。
女性のようだと皆言うけれど、それは、嘘だ。



「…早いか?」

『う、ううん、大丈夫。ありがと。』



神田君はアタシの歩くスピードに合わせていてくれていることを密かに感じていた。
普段の彼はもっと早い。
身長の高い神田君のインターバルはアタシとは大違いで、同じクラスになった頃の移動教室の時に確証を得ていた。



「なら、隣を歩け。」



逞しいのに、細く長い指がアタシの左手を握る。
骨ばったそれでいて綺麗な手が。

女性のそれとは大違いの手が。



『か、神田く、』

「悪いが離す気はねェ。」



息が詰まる。
身体中の血が一斉に引いて、それが昇っていく。
耳が、頬が、顔が熱い。

泣いてしまいそうだ。



『なん、で。』

「●●。」

『っ、』



神田君の聲が頭の中で響く。
甘く甘いそして低い。
そして波紋を描く様に身体中に響いていく。

繋いだ手を握り直して、その指先にそっと。
一度触れるか触れないかの掠める様なキス。

神田君の黒曜石がアタシを射抜く。
眼が逸らせない。逸らさせてくれない。



「ずっと見てた。」



風が身体を吹き抜けていく。
感じていた靄が晴れていく。



『…アタシ、も。』



答えが見えた気がした。





(教室の窓から見える図書室)

End

20120525

IAのmy soul,your beats!を聞いていたら学パロ神田夢が出来ました。
神田視点も書きたい。



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