▼さよならエレジー






ちゅ、と小さなリップノイズと共に、離された唇。腰にきつく回された腕が少し緩まって、踵が床に下ろされた。
藍色の目に送られながら彼の胸に耳を当てれば、トクンと響く心音に触れる。肩に回る腕がゆっくりと伝い上がり、髪を梳く。

触れた指先が熱くて、心地よくて。
二の腕に添えた手から、力が抜けた。

彼の心音に合ったポンポンとバウンドする掌は、私を酷く安心させる。



「●●」



頬の上を指の腹が伝う。ゆっくりとそれが顎へ向かい、そっと添えられた。導かれるまま顔を上げれば、また。降ってくる艶やかな髪と、キスの雨。
つぅ、と親指が唇をなぞる。
そこに滑り込む、聖川真斗の息。隙間なんて作らせないとでもいうかのように、掌が首裏に回った。



『……っん、ぅ、……』



何度も貪られては薄くなった空気に脳が痺れ、力が入らなくなった手で彼の背を叩く。その度に名残惜しそうに離れる唇が、艶めいた音を発した。

ドアに凭れ掛かる聖川くんの、壁一枚向こう側を誰かが歩く音がする。
コツコツとソールの鳴る音。歩きながら書類を捲る音。話し声。
ここが事務所の一角の、すぐに誰でも入って来られる場所だと思えば思う程。音に敏感に反応し、それを拾う耳。瞬間瞬間に覚醒する脳。



「……●●、こちらに集中しろ」

『っ、……は、……ん、』



いつもよりもワントーン低く小さく囁いたその声が、その唇のせいで鳴るリップノイズが。彼によって奪合われていく酸素が。この10cmもない距離の行為に、意識を引き戻していく。
脇腹を摩る手に力が籠められ、一層彼の身体に寄せられて。衣装の白いシャツ越しに伝わる体温に。
頭の芯が溶けていく感覚がした。



どちらかと言えば、物静かなタイプだと思っていた。
流れるような所作は育ちの良さを表し、少々ずれた発想は俗世間から切り離された世界に住む人のソレで。
生まれをどうこう主張するような人物ではないと分かってはいたものの、自分とは程遠いところで生きているのだと。
聖川くんの周りは常に人で溢れ、笑顔で溢れ。同じクラスで授業を受けていつつも、その空間に私が存在することの方が違和感を感じていた。

早乙女学園にまぐれで入学できたような、才能のない冴えない自分。
世間を賑わせているST★RISHの一員と、聖川財閥の嫡男という顔を持つ彼。

きっとこれ以上距離が近付くことも、交わる事もないのだと。そう思っていた。



「●●。何を考えている」

『な、んでもない、です……』

「どうした?」



学生時代は想像もつかなかった。
聖川くんに名前を呼ばれ、触れられて、熱を分けられて。
ビー玉のようにキラキラと輝く瞳に、映ることが許されるなんて。



『……ゃ、』

「●●?」



耳の奥の奥が、痺れるように届く聖川くんの声。思考が麻痺して、涙腺が緩む。いつの間にか彼のシャツをキュ、と握りしめていた。
“大丈夫か”と優しく呟かれるそれに、思わず甘えてしまいそうになる。
労るように擦る手と、服越しに聞こえる彼の鼓動。
無意識に注がれ、与えられる愛情。

その全てが私を甘やかして、立ち上がれなくする元凶で。一度その腕に落ち着いてしまえばもう、一人で歩くことすら怖くなる程、中毒性は高い。

欲する事なんて考えても見なかったあの頃には、戻る事なんてできなくて。
些細なきっかけで始まった縁。不安は付き纏って、拭えない。



「……もしや、またくだらぬ事を考えているのか」



耳の後ろに唇を寄せて。くすぐったさで身を捩れば、首筋に伝い降りてくる。
聖川くんのそれが掠めるように触れる度に、電気が走ったように全身に伝わって。

そうして蓄積された彼からの愛撫が、私の中で巣喰らって。私を弱くする。



『だって、……分からなくて』

「分からない?」

『なんで私なのか、わからない』

「……」



“うん”と小さく囁かれる聲と、撫でる手が私をあやした。腰の辺りで組まれた聖川くんの手が少しだけ、身体を離して空間を作る。逃げられない程度の、ほんの少しだけ。
こつんと合わされた額に、彼と私の前髪が絡む。



『釣り合うはずもないし。とりえもない』

「……あぁ、」

『不安で分からない、です』

「そうか」

『っ、……怖いっ、』



そんな言葉で、この胸の中に充満してる黒い感情を伝えられるはずもなくて。
拙い自分の言葉がもどかしくて、たまらない。
口の中で喉の奥で、もごもごと呟く程度のその一言一言を、聖川くんの一番優しい声色で受け止めて受け入れてくれる。
澄んだ水が黒を薄めて、浄化して。



『いつか来るサヨナラが怖くて怖くて、』

「お前は……別れが、来ると思っているのか」

『……わから、ない』



こうして触れ合えている事の方が、異常で。
先なんて何も分からなくて。

早乙女学園を卒業してから、少しづつ増えてきている仕事も。不釣り合いなこの関係にも。眠れない夜にも。
先のビジョンが全く見えない自分を、どんどん置いていく彼にも。



『キス、してください』



ゆっくりと閉じた瞼と頬と、そして唇に、触れるだけのキスが降りてくる。
●●、と何度も繰り返し呼ばれる自分のそれに、何故か嫉妬した。



「……お前は、」

『え?』

「どうしたらお前は安心し、俺を受け入れてくれるのだろうな」

『そんなの、』



私だってわからない。
これ以上どう頑張れば先へ進めるのか、この泣きたい気持ちが晴れるのか。ずっと感じ続けているもどかしさの意味を、知ることが出来るのか。



「……俺の胸の内を知ってくれるか?」

『……?』

「面倒な事に巻き込むことになるが、それでも良いか?」



真剣な目と、いつも以上にはっきりと紡がれた言葉と。



「手を貸してくれ」

『手……?』



そう言って私の左手に握り、自分の手と比べるように触れ、指を絡める。



「小さな手だな」



聖川くんの第一間接にやっと届く長さの手。丸くて小さくて。昔からコンプレックスだったちっとも綺麗じゃないその手を、嬉しそうに困ったような目で眺めた。



「俺に今出来ることで、お前に与えてやれるもの。これで良いのかは……、正直迷っている」

『何、言って……』

「悪いな、●●。最後まで付き合ってもらうぞ」



重ねていた手を聖川くんの視線の高さまで引き上げて、一度こちらに目を向けた。その表情は卒業オーディションの前に見せた、あの誇らしげでいて、少し緊張を隠せずにいた顔。

口角をゆっくりと上げ、そのまま私の左手に唇を落とす。
確かめるように、執拗にその指に触れ、キスをし、指を絡める聖川くんの動きに、意図している事がわかったのはすぐの事で。
顔に熱が集まって、くらくらする。視界も少し滲んできた。



『っ、聖川くん……、』

「俺と結婚してくれ」



一番近くでお前を守ってやれる。
耳元で囁かれた言葉に、どうにか絞り出した声で、小さく“はい”と頷いた。




end

20140622

身分違いの恋 切→甘
のリクを消化しようと思って書いたけど、もしかしなくても“お慕い申しておりました”系だったんじゃなかろうかと反省。
春ちゃんの結婚祝いと言うことで

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